ラッセル『哲学入門』第1章 現象と実在
バートランド・ラッセル『哲学入門』(The Problems of Philosophy, 1912)は、哲学の基本問題を平易に論じた古典的入門書である。本稿ではその第1章「現象と実在」の議論を追い、ラッセルが提起する問題の構造を整理する。
本稿での引用は、バートランド・ラッセル『哲学入門』(高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、2005年)に拠る。ページ番号は本文中に丸括弧で示す。
1. テーブルは実在するのか
日常的に目にするテーブルの色や形は、状況によって変化する。この「見かけ」と、変化しない「実在」としてのテーブルは同じものなのだろうか。ラッセルは方法的懐疑からこの問いを立てる。
一見すると、テーブルは見たり触ったり叩いて音を聞いたりすることで、その存在を確かめられるように思える。しかしラッセルは次のように指摘する。
もし本当にテーブルが存在するのだとしても、それは直接経験されるものと同じではなく、見たり、触ったり聞いたりできないことが明らかにある。実在のテーブルが存在したとしても、それは決して直接には知られず、直接知られるものから推論されなければならないのだ。(p. 14)
五感が直接示しているのは実在(reality)としてのテーブルそのものではなく、テーブルにまつわる現象(appearance)にすぎない。ラッセルは身近な例を挙げてこの点を示す。
色について。 テーブルはある特定の色をしているように思えるが、光の強弱によって見る場所ごとに色が異なり、同じ視点でなければ色の分布も異なる。暗闇ではテーブルの色を判断できないが、テーブルが暗闇にも存在していると考えるのが普通だろう。ラッセルは色をテーブル固有の性質とはみなさず、テーブル、光源、観察者という三者の相互作用によって生じる現象だと考える。
質感について。 肉眼で認識される「滑らかさ」は、観察者の視覚器官と光源の条件による現象にすぎない。顕微鏡を用いれば、一見滑らかに見えた表面にも無数の微細な凹凸が確かめられる。「滑らかだ」と知覚されるテーブルと「凹凸がある」と知覚されるテーブルのどちらが「本当の」テーブルなのかは、感覚だけでは決定できない。
形状について。 長方形のテーブルであっても、特定の方向から見ない限り、遠近法によって歪んで見える。見かけは角度によってばらばらだが、我々はそれでも同一のテーブルを見ていると認識している。
以上の考察から、「感覚はテーブルそのものではなく、その現象についての真理しか与えてくれない」(p. 14)。我々が直接知覚するのは「現象」であり、その背後に独立した「実在」があるかもしれないとラッセルは主張する。
2. センスデータと感覚
テーブルという身近な存在がいかに不確実な前提の上に成り立っていたかを確認したところで、ラッセルはセンスデータ(sense-data)という概念を導入する。
センスデータとは、色、形、硬さ、音など、感覚を通じて私たちが直接知覚する内容を指す。一方、感覚(sensation)とは、センスデータを直接意識している経験そのものを指す。ラッセルはこの区別を次のように説明する。
ある色を見ているときにはいつも、その色についての感覚を持っているのだが、色そのものは感覚ではなくセンスデータである。つまり、直接意識されるものが色であり、意識そのものは感覚なのである。(p. 15)
たとえば、りんごが視界に入ったとき、赤という色そのもの(センスデータ)は知覚の素材であり、その素材をもとに「赤い」と意識する心の働きが感覚である。センスデータは心に与えられるものであり、感覚はそれを受け取る主体的な経験にあたる。
この区別を踏まえることで、テーブルの問いはより一般的な問題へ発展する。
- そもそも物質のようなものがあるのか
- もしあるのだとしたら、その本性は何か(p. 15)
ここで「物質」とは、「実在のテーブル」のような個別の物的対象ではなく、物的対象全体を指す概念である。
3. 物質の存在条件と観念論
物質が存在すると言えるためには、少なくとも二つの条件を満たす必要がある。第一に、知覚されていないときにも存在し続けること。第二に、私たちの知覚から独立していることである。
しかし先に確認した通り、「実在のテーブルが存在したとしても、それは決して直接には知られず、直接知られるものから推論されなければならない」(p. 14)。我々が知覚できるのはセンスデータだけであり、実在そのものは直接知覚できない。
この問題に対して、ほぼすべての哲学者が「実在のテーブルがある」(p. 19)ことには同意する。しかし、その実在の本性については意見が分かれる。とりわけ観念論(idealism)の立場は独自の議論を展開する。
バークリの観念論
ジョージ・バークリ(George Berkeley, 1685-1753)は、心や観念から完全に独立した存在などないと主張した。バークリによれば、テーブルは観察者が部屋を出ても目を閉じても存在し続ける。つまり「存在し続けること」という条件は満たされる。しかし、テーブルの存在は「見ることから全く独立ではありえない」(p. 17)。
バークリの議論の核心は次の通りである。もし物質が知覚から完全に独立した存在だとすれば、「私たちから独立に存在した物があったとしても、それは感覚の直接の対象にはなれない」(p. 16)。知覚から完全に独立した物質は原理的に知覚不可能であり、そのような存在を想定すること自体に意味がない。
では、誰も見ていないときにテーブルは消滅するのだろうか。バークリはこの問いに対し、常に知覚を行っている無限の存在、すなわち神がすべてを知覚し続けているため、テーブルの存在は保証されると考えた。こうして「世界を作り上げているのは、心と心が抱く観念だけだ」(p. 16)と結論する。
ライプニッツのモナド論
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)もまた観念論者に分類されるが、バークリとは異なるアプローチをとった。ライプニッツは物質そのものが「群棲する魂」(p. 19)、すなわち「宇宙内の心を集めて一つにしたもの」(pp. 17-18)であると主張した。
ライプニッツの形而上学において、世界の究極的な構成要素はモナド(monad)と呼ばれる単純な実体である。モナドは部分をもたず、延長(空間的な広がり)もない。あらゆるモナドは表象(perception)と欲求(appetition)をもつ。表象とは世界全体がモナドに映し出されることであり、欲求とはある表象から別の表象への移行を引き起こす内的原理のことである。
ライプニッツはモナドの特性を「窓がない」という有名な比喩で表現した。モナドは外部から何の影響も受けず、ただ自らの内的原理に従って変化する。にもかかわらず諸々のモナドが調和して統一的な世界を形成しているのは、神がすべてのモナドの動きが符合するようにあらかじめ定めているからである。これがライプニッツの予定調和(harmonie préétablie)の概念である。
ライプニッツにとって、我々が「物質」と呼んでいるものの実態はモナドの集合体であり、すべては根本的に心的な存在である。バークリが神の持続的知覚によって物質の存在を説明したのに対し、ライプニッツは物質の構成要素そのものを心的実体(モナド)とみなすことで、物質と心の二元論を解消しようとした。
観念論の帰結
バークリもライプニッツも、「心と観念以外にはなにも実在しない」(p. 18)という結論に至る。心や意識から独立した物質が存在しない以上、我々が「実在」と呼んでいるものはすべて、何らかの心や意識によって知覚される観念にすぎない。ラッセル自身も「もし物質によって以上の二つの要請を満たそうとすれば、(中略)全く知りえないものとなっていただろう」(p. 17)と認めている。知覚から完全に独立した物質は、もはや想像するしかない存在になってしまう。
しかし、ラッセルはこうした観念論に対して否定的な見方を示している。
4. 改めて、テーブルは実在するのか
ラッセルが第1章で提示した二つの問い、「そもそも物質のようなものがあるのか」と「もしあるとすれば、その本性は何か」について整理する。
第一の問いに対しては、物質あるいは実在と呼ばれるものがあるということに、基本的にすべての哲学者が合意している。ただし、それが観念にすぎないのか、心から独立した実在であるのかについては立場が分かれる。ラッセル自身はセンスデータを通じて間接的に推論される実在を示唆する一方で、バークリは「物質的実在」という考え自体を退け、物質を知覚の対象としてのみ認める。
第二の問いはさらに複雑である。実在が存在すると仮定しても、それがどのようなものなのか、その本性を知る方法があるのかという問題が残る。実在そのものは直接経験されることがなく、センスデータという間接的な感覚体験を通じてのみ推論可能だとラッセルは述べる。
本書の冒頭に掲げられた問い「理性的な人ならだれにも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか」は、テーブルという身近な対象の分析を出発点として、はるかに大きな哲学的問題へと展開されたのである。
参考文献
- ラッセル, B.『哲学入門』高村夏輝訳, ちくま学芸文庫, 2005年.(原著: Russell, B. (1912). The Problems of Philosophy. Oxford University Press.)
- ライプニッツ, G. W.『モナドロジー他二篇』谷川多佳子・岡部英男訳, 岩波文庫, 2019年.