学割が成立する経済的ロジック

学生証の有効期限は、ある日突然やってくる。昨日まで半額だったサブスクリプションが、今日から正規料金になる。月額480円だったものが980円になり、年間で考えれば数千円の差が開く。

この瞬間、多くの人はそのまま正規料金を払い続ける。解約するのが面倒だからではない。もう、そのサービスなしでは生活が回らなくなっているからだ。

企業は、このことをよく知っている。

値引きではなく投資

学割は慈善事業ではない。「学生はお金がないから安くしてあげよう」という温情で動いている企業は、少なくとも上場企業のなかには存在しないと考えてよい。

経済学の用語で言えば、学割は「第三種価格差別」の一形態だ。消費者を識別可能なグループに分け、各グループの支払い意欲に応じて異なる価格を設定する。価格差別と聞くと不穏に響くかもしれないが、経済学では中立的な用語であり、航空券のクラス分けや映画館の割引デイも同じ原理で動いている。

学生は一般に、可処分所得が少ない。月額980円のサービスに対する支払い意欲は、社会人より低い。このとき、全員に980円を課せば、学生の大半は加入しない。しかし480円にすれば、相当数が加入する。480円でも限界費用(追加で一人増えたときにかかるコスト)を上回っていれば、企業にとっては利益だ。

つまり学割とは、「このままでは取り逃す層」から、取れる分だけ取る仕組みだ。取り逃すよりは安くても取ったほうがいい、という判断が背景にある。

習慣という鎖

もっとも、学生時代の月額480円だけでは、企業にとって大きな利益にはならない。学割の真価は、卒業後にある。

行動経済学やマーケティングの分野では「スイッチングコスト」という概念がある。一度あるサービスに慣れてしまうと、別のサービスに乗り換えるために必要な手間や心理的負担が壁になる。データの移行、操作方法の再学習、慣れ親しんだインターフェースを手放す抵抗感。これらは目に見えないが、確実に乗り換えを阻む。

クラウドストレージを考えるとわかりやすい。学生時代に無料や割引価格で大容量のストレージを使い始め、数年分のファイルを蓄積する。卒業後に別のサービスに移ろうとすれば、数百ギガバイトのデータを移行しなければならない。多くの人は、正規料金を払う道を選ぶ。

ソフトウェアも同じだ。学生時代に特定のツールの操作を覚え、ワークフローを構築すれば、卒業後に競合製品へ乗り換えるインセンティブは著しく小さくなる。企業は学割という投資で、将来の正規顧客を育てている。

空席を埋める客

学生には、社会人にはない資源がある。時間だ。

平日の昼間に映画館に行ける。閑散期に旅行できる。午後の空き時間にカフェで長居できる。もっとも暇な時を過ごす人たちにとって、これは当たり前の日常だが、企業にとっては貴重な需要源だ。

映画館の座席、電車の座席、ホテルの部屋。これらは「在庫が腐る」商材だ。上映時間を過ぎた映画の座席は、もう売れない。出発した列車の空席は、永久に売上にならない。経済学ではこれを「消滅性」と呼ぶ。

閑散時間帯に学割で学生を呼び込めば、そのまま消えるはずだった売上がわずかでも回収できる。正規料金の客を奪っているわけではない。正規料金では来なかった客が、割引価格で来ているだけだ。

囲い込みの実例

具体的な企業の戦略を見てみる。

GitHubが提供するStudent Developer Packは、その典型だ。学生であれば、通常は有料のツールやサービスの多くに無料でアクセスできる。開発環境、ドメイン、クラウドサーバ。学生時代にこれらのツールでプロジェクトを構築した開発者は、卒業後もGitHubのエコシステムにとどまる可能性が高い。開発者向けプラットフォームにとって、ユーザー基盤の拡大は直接的な競争力になる。無料で使わせること自体が、長期戦略の一環だ。

音楽ストリーミングの学生プランも興味深い。通常の半額程度で提供されるが、卒業後は自動的に通常料金へ移行する設計になっている。学生時代に作り上げたプレイリスト、聴取履歴に基づくレコメンデーション、フォローしているアーティスト。これらはすべて、そのプラットフォームに固有のデータであり、持ち出すことができない。

クリエイティブソフトウェアの場合はさらに顕著だ。学生向けに大幅な割引や無償ライセンスを提供し、教育機関での採用を積極的に推進する。学生が特定のソフトウェアの操作に習熟すれば、就職先でも同じソフトウェアの導入を推す可能性がある。個人の習熟が組織の調達を左右する。学割は、その種を蒔いている。

学割が成立しない条件

ただし、学割はどんな商材でも機能するわけではない。

まず、学生であることの確認コストが商品の利益率を上回る場合。少額の商品に学割を設定しても、学生証の確認にかかる手間のほうが大きければ、導入する意味がない。

次に、学生と一般客の支払い意欲に差がない場合。価格に関係なく購入される商品では、わざわざ値引きする必要がない。食料品や生活必需品に学割がほとんど存在しないのは、このためだ。

そして、ロックイン効果が期待できない場合。卒業後に継続利用が見込めないサービスであれば、学生時代に安く使わせる投資対効果は低い。一回きりの体験型サービスでは、学割はただの値引きに終わる。

構造を知った上で使い倒す

学割が企業の合理的な投資であるとわかったところで、学生がすべきことは変わらない。使えるものは、使い倒せばいい。

企業が長期的な顧客獲得を狙っているとしても、学生時代に高品質なツールやサービスに安価でアクセスできることの価値は本物だ。誰も学びを測れないで書いたように、学びの本質は数字では測れない。しかし学割を通じて得られるツールやサービスへのアクセスは、学びの可能性を確実に広げてくれる。

ただ、一つだけ覚えておくといいことがある。学生証の有効期限が切れる日は、必ず来る。その日に慌てないよう、自分が何に依存しているかを把握しておくことは、悪い習慣ではない。卒業後に正規料金を払い続ける価値があるものと、そうでないもの。その仕分けは、学生でいられるうちに済ませておきたい。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu