生きること
偽の記憶が真空から組み上がる朝
あなたの記憶は、たった今、真空のゆらぎから偶然組み上がったものかもしれない。生まれてから今日までの人生も、昨日の夕飯の味も、この文章を読んでいるという実感さえも。これは哲学者の思弁ではない。19世紀の物理学者ルートヴィヒ・ボルツマンの熱力学から導かれる、れっきとした帰結のひとつだ。 ボルツマン脳。宇宙の熱的ゆらぎによって、偽の記憶を持った脳がたった一瞬だけ出現し、次の瞬間には消える。そしてそのような脳が存在する確率は、この秩序だった宇宙全体が実在する確率よりも、圧倒的に高い。 あなたが「本物の宇宙に住む本物の人間」だという確信。それ自体が、もっとも疑わしい。 熱力学が生んだ悪霊 デカルトはかつて、すべての感覚経験を捏造する「悪霊」の存在を仮定した。しかしそれは哲学的な仮定にすぎなかった。悪霊がどうやって知覚を偽造するのか、その仕組みは何も語られていない。現実を生きる感覚で触れたように、シミュレーション仮説も水槽の脳も、結局のところ「この現実は本物ではないかもしれない」という古い疑念の変奏にすぎない。 ボルツマン脳が異質なのは、その疑念に物理学的な根拠を与えてしまったことにあ