生きること

We die, and we know it. These entries sit with what that means: freedom, solitude, happiness, time, memory, choice. None of them arrive at comfort. They ask what it is to remain here, awake to the weight of it, without turning away.

生きること

偽の記憶が真空から組み上がる朝

あなたの記憶は、たった今、真空のゆらぎから偶然組み上がったものかもしれない。生まれてから今日までの人生も、昨日の夕飯の味も、この文章を読んでいるという実感さえも。これは哲学者の思弁ではない。19世紀の物理学者ルートヴィヒ・ボルツマンの熱力学から導かれる、れっきとした帰結のひとつだ。 ボルツマン脳。宇宙の熱的ゆらぎによって、偽の記憶を持った脳がたった一瞬だけ出現し、次の瞬間には消える。そしてそのような脳が存在する確率は、この秩序だった宇宙全体が実在する確率よりも、圧倒的に高い。 あなたが「本物の宇宙に住む本物の人間」だという確信。それ自体が、もっとも疑わしい。 熱力学が生んだ悪霊 デカルトはかつて、すべての感覚経験を捏造する「悪霊」の存在を仮定した。しかしそれは哲学的な仮定にすぎなかった。悪霊がどうやって知覚を偽造するのか、その仕組みは何も語られていない。現実を生きる感覚で触れたように、シミュレーション仮説も水槽の脳も、結局のところ「この現実は本物ではないかもしれない」という古い疑念の変奏にすぎない。 ボルツマン脳が異質なのは、その疑念に物理学的な根拠を与えてしまったことにあ

By Sakashita Yasunobu

生きること

なぜ物を捨てても満たされないか

部屋がすっきりした。ゴミ袋が三つ。クローゼットには隙間ができた。 達成感がある。しばらくは気分がいい。新しい自分になった気がする。身軽で、自由で、本質的な何かに近づいた気がする。 三日もすれば、その感覚は消えている。部屋はきれいなままなのに、あなたの中の何かが元に戻っている。あるいは、元よりも少し空虚になっている。 「捨てれば楽になる」という信仰 断捨離。ミニマリズム。持たない暮らし。ここ十数年、「物を減らすこと」は一種の救済として語られてきた。物が少なければ心が軽くなる。本当に大切なものだけに囲まれた生活は、豊かで、自由で、本質的だ。そういう物語が広く共有されている。 だが、これはひとつの信仰にすぎない。 物を減らすことが心を軽くするという因果関係は、実はそれほど自明ではない。物を減らした直後の爽快感は確かにある。だがそれは、行動そのものがもたらす達成感であって、物が減ったことの効果ではないかもしれない。何かを「やり遂げた」という感覚。コントロールできたという感覚。それは一時的なものだ。 虚空をつかむが描いたように、幸福の追求はしばしば幸福から遠ざかる運動になる。断捨

By Sakashita Yasunobu

生きること

嫌いなものに支えられて生きている

広告ブロッカーを使っている。 YouTubeのプレロール広告を飛ばし、Webサイトのバナーを非表示にし、SNSのインフィード広告をできるだけ目に入れないようにしている。広告は不快だ。見たくないものを見せられる。時間を奪われる。認知資源を消耗させられる。 その一方で、広告ブロッカーを使いながら無料のWebサービスに依存している。YouTube、検索エンジン、SNS、ニュースサイト。これらが無料で使えるのは、広告収入によって運営されているからだ。広告を嫌いながら、広告が支える無料サービスなしには生活が成り立たない。この矛盾に自覚的であることが、広告について考える出発点になる。 広告の機能を分解する 「広告は悪だ」と断じる前に、広告が何をしているのかを分解したほうがいい。 情報伝達機能。 「この商品が存在する」「このサービスが始まった」と知らせること。これ自体は中立的だ。知らなければ選択肢にすら入らない。新しい製品やサービスの存在を消費者に届ける手段として、広告は機能している。 説得機能。 「買うべきだ」「使うべきだ」と思わせること。ここから操作性が入る。情報の伝達と欲望の喚起

By Sakashita Yasunobu

生きること

何をしても同じだった

宝くじに当たった人と、事故で脊髄を損傷した人がいる。一年後、両者が日常生活から得る幸福感にはほとんど差がなかった。1978年にこの事実が報告されたとき、「幸福の追求」という人類最古のプロジェクトは静かに足元を失った。 当選者と被害者 フィリップ・ブリックマンらが1978年に発表した研究は、幸福研究の古典として今も引用され続けている。イリノイ州の宝くじ当選者22人、対照群22人、そして事故による脊髄損傷者29人。この三つのグループの幸福度を比較した。 結果は直感に反するものだった。 宝くじ当選者の日常的な幸福感は対照群と有意に変わらなかった。それどころか、当選者は日常の些細な出来事から得られる喜びが対照群より有意に低下していた。友人と話す、テレビを見る、朝食を食べるといった何気ない行為が、かつてほどの喜びをもたらさなくなっていた。最大の幸運が、小さな幸福を奪ったのだ。 一方、脊髄損傷者の幸福度は「予想されるほど不幸ではなかった」と研究者自身が記している。日常的な幸福感においては、宝くじ当選者との差は驚くほど小さかった。 ここにあるのは、良い出来事が人を永続的に幸せにするわけ

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

鏡の向こうにもう一人の私が立つ

あなたの脳を真ん中で割って、左半球をAの体に、右半球をBの体に移植する。どちらも目を覚ます。どちらもあなたの記憶を持っている。どちらもあなたの性格で、あなたの価値観で、あなたの好きな音楽を口ずさむ。 さて、どちらがあなたか。 両方だと言えば、一人の人間が二人になったことになる。どちらでもないと言えば、記憶も性格もそのままなのに、あなたは死んだことになる。片方だけだと言えば、もう片方が「自分はあなただ」と訴えたとき、何と答えるつもりなのか。 デレク・パーフィットが1984年の『理由と人格(Reasons and Persons)』で突きつけたのは、この三択のどれを選んでも行き止まりだという事実だった。そしてパーフィットの答えは、三択そのものを踏み潰すものだった。同一性なんて、そもそも重要ではない(identity is not what matters)。 どこが私という問いは、テセウスの船から転送装置まで手を替え品を替え問われてきた。だがパーフィットの分裂は、その問いの急所を別の角度からえぐる。転送装置が「コピーは本人か」という一対一の問題だとすれば、分裂は「一人が二人になった

By Sakashita Yasunobu

生きること

努力できない仕組みの分析

「努力が足りない」と言われて、反論できなかった経験が、たぶん誰にでもある。 課題を出さなかった。締め切りを守れなかった。やると決めたことが三日で終わった。そのたびに自分を責めた。意志が弱い。根性がない。甘えている。そうやって自分を責めることで、次こそは、と思う。そして次もまた同じことが起きる。 もし「努力できない」が意志の問題なら、意志の強い人間は存在するのだろうか。それとも、ただ仕組みが違うだけなのか。 脳は未来を割り引く 行動経済学に「現在バイアス」という概念がある。人間は、将来の大きな報酬よりも、目の前の小さな報酬を好む傾向がある。1年後の15万円より、今日の10万円。来月の高評価より、今夜の動画視聴。 これは意志の弱さではなく、脳の報酬系がそう設計されているからだ。進化的に見れば、不確実な未来の報酬より確実な現在の報酬を選ぶことは、生存戦略として合理的だった。明日生きているかどうかわからない環境では、今食べることが正解だった。 問題は、現代社会の報酬構造が、この脳の設計とまるで噛み合っていないことだ。勉強の成果が出るのは数ヶ月後。キャリアが形になるのは数年後。報酬

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

右肩上がりの絶望

あなたの祖父母の世代より、あなたは豊かだ。冷蔵庫がある。エアコンがある。ポケットの中に世界中の情報へアクセスできる端末がある。100年前の王侯貴族が夢にも見なかった水準の医療を、保険証一枚で受けられる。 それで、あなたは幸せだろうか。 1974年、経済学者リチャード・イースタリンがひとつの事実を突きつけた。国の所得が上がっても、国民の幸福度は上がらない。半世紀たった今も、この知見は消えていない。GDPのグラフは右肩上がりを続けている。幸福度のグラフは、ほぼ水平線のままだ。 発見 イースタリンはペンシルベニア大学の経済学者だった。1974年の論文で、彼は幸福度データを体系的に分析した最初の経済学者となる。 発見は奇妙だった。ある時点で切り取れば、裕福な人ほど幸せだ。国際比較でも、豊かな国の国民のほうが概ね幸せだ。ここまでは直感に合う。 ところが時系列で追うと、状況が反転する。アメリカの一人当たり実質GDPは1946年から1974年の間にほぼ倍増した。同じ期間の幸福度は、ほとんど動いていなかった。 のちにイースタリンは南カリフォルニア大学に移り、データを拡充した。発展途上国

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生きること

幸せを追う手がすべてを遠ざける

幸せになりたいと思った瞬間、幸せは一歩遠ざかる。もう一歩近づこうとすると、もう一歩逃げる。これは比喩ではない。哲学が二百年かけてたどり着いた、ほとんど冗談のような構造的事実かもしれない。 快楽を目的にすると快楽が手に入らない。ヘンリー・シジウィックは『倫理学の方法』でこの構造を「快楽主義のパラドックス」と名づけた。そしてこのパラドックスは、いまだに解かれていない。解かれていないどころか、あなたの生活の中で、毎日、静かに作動している。 ミルが崩れた朝 ジョン・スチュアート・ミルは20歳で壊れた。 ベンサム流の功利主義を幼少期から叩き込まれ、「最大多数の最大幸福」を人生の座標にしていた青年が、ある朝ふと自問する。「すべての改革が実現したとして、それは自分にとって大きな喜びだろうか?」。答えは、Noだった。 ミルはこの経験を『自伝』第5章「わが精神の危機」に記している。目標がすべて達成されても幸福にならないのなら、その目標の追求とはいったい何だったのか。目的地にたどり着いたはずなのに、そこには何もなかった。彼が直面したのは、快楽主義のパラドックスの個人版だったのかもしれない。

By Sakashita Yasunobu

生きること

希望が先に死ぬ

楽観主義者から先に死んだ。 ベトナムの捕虜収容所で、「クリスマスまでには帰れる」と信じた者たちが、心を折られて死んでいった。希望は彼らを支えなかった。希望が彼らを殺した。 そして、最も長く生き延びた男は、楽観主義者でも悲観主義者でもなかった。彼はその両方だった。 墜落した先にあったもの 1965年9月9日、海軍パイロットのジェームズ・ストックデールは北ベトナム上空でA-4スカイホークを撃墜された。対空砲火を浴び、コックピットに煙が充満した。射出座席で脱出する瞬間、彼の頭にあったのは「テクノロジーの世界を離れ、エピクテトスの世界に入る」という一文だった。 パラシュートで降下しながら、鉈や熊手を持った群衆が近づいてくるのを見下ろしていた男が、最後に思い浮かべたのは古代の奴隷哲学者の名前だった。 ストックデールは「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれた捕虜収容所に収容された。米海軍の最高位将校として、7年半以上にわたって拘束され、20回を超える拷問を受けた。釈放の日程も、生きて家族に再会できる保証も、何一つなかった。 2001年、ジム・コリンズが Good to Great(邦題『ビジ

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生きること

人はなぜ夕方の光で立ち止まるのか

急いでいた。用事があった。それなのに、足が止まる。夕方の光が建物の壁をオレンジに染めている。ただそれだけのことだ。太陽が低くなり、光の波長のうち青が大気に散乱され、赤みを帯びた光だけが地表に届く。色温度にして約3000K前後。物理の教科書に載っている、ありふれた現象にすぎない。 それなのに、あなたは立ち止まる。スマートフォンを取り出すか、あるいはただ黙って見つめる。なぜか。たぶん、あなた自身にもわからない。 身体が先に知っている 「美しい」と思った瞬間には、もう足は止まっている。順序が逆なのだ。 美的判断というのは、通常、知覚してから評価し、そして行動に移るという段階を踏むと考えられている。ところが夕方の光に対する反応は、その手順を無視する。足が止まり、息が浅くなり、視線が固定される。そのあとで「ああ、きれいだ」と思う。判断より先に身体が動いている。 メルロ=ポンティは、知覚が単なる情報処理ではなく、身体そのものが世界と交渉する行為だと考えた。私たちは脳で世界を見ているのではなく、身体で世界に触れている。夕方の光に足が止まるのは、頭で「美しい」と判断したからではなく、身体が

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生きること

言語化できない不安の正体

何が不安なのかと聞かれて、答えられなかった。 不安はある。胸の奥のどこかが圧迫されている。胃が重い。眠れない。だが、何が不安なのかを言葉にしようとすると、ちょうどよい言葉が見つからない。「仕事が」「将来が」「人間関係が」と口にしてみても、どれもしっくりこない。不安の輪郭に言葉が届いていない感じがする。 たぶん、不安に輪郭がないのだ。 対象のない不安 ハイデガーは『存在と時間』の中で、恐れ(Furcht)と不安(Angst)を明確に区別した。 恐れには対象がある。暗い道を歩くときの恐怖。試験に落ちるかもしれないという不安。病気の診断を待つ緊張。これらには「何が怖いのか」という問いに対する答えがある。 だが、Angstには対象がない。ハイデガーによれば、Angstは世界全体が「無意味に」感じられる経験だ。普段は当たり前に機能していた世界の意味が崩壊し、すべてが「どうでもいい」ものとして立ち現れる。スタンフォード哲学百科事典が記述するように、不安が襲うと、日常の仕事への没頭が崩れ落ち、世界のアフォーダンスが「どうでもよいもの」として現れる。それは特定の何かへの恐怖ではなく、

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

穴は開いたまま誰も埋めない

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。 この問いに答えた人間は、まだいない。たぶん、これからもいない。1714年、ライプニッツがこの問いを定式化してから3世紀が過ぎた。物理学者が宇宙の始まりを計算し、神学者が第一原因を語り、論理実証主義者が「無意味だ」と宣告した。それでも問いは閉じなかった。ハイデガーはこれを「形而上学の根本問題」と呼んだけれど、根本問題と名付けたところで根本が見えるわけではない。 あなたは今日も、理由なく存在している。 すべてには理由がある、はずだった ライプニッツの充足理由律(Principle of Sufficient Reason)は、こう主張する。 いかなる事実も、それがそうであり他でないための十分な理由なしには、成立しえない。 (『モナドロジー』第32節、1714年) 美しい原理だと思う。あらゆるものに理由がある。この椅子がここにあるのにも、この惑星が青いのにも。世界は説明可能な場所であってほしいという願いを、ライプニッツは原理にまで昇華した。 ところが、この原理を「存在そのもの」に適用した途端、足場が崩れる。 「存在全体」の理由は何か

By Sakashita Yasunobu