生きること
美しさに応えるということ
日常が美しいのは、それが過ぎ去るからではない。 それ自身として美しい 季節の移り変わり、窓から差す午後の光、何気ない食卓の風景。こうしたものに心を動かされるとき、「儚いから美しい」という説明がよく使われる。やがて失われるから、今この瞬間が尊い、と。 その感覚はわかる。だが、どうしても違和感が残る。 儚さに美の根拠を置くと、美しさは「失われること」の副産物になってしまう。永遠に続く穏やかな日々があったとして、それは美しくないのか。変化しない安らぎは、美の資格を持たないのか。 そうではないと思う。日常はそれ自身として美しい。失われるから美しいのではなく、ただそこにあることが、すでに美しい。 鑑賞者がいなくても ここで一つの思考実験をしてみる。 美しさには通常、見る側と見られる側がある。鑑賞者と対象。だが、「それ自身として美しい」と言うとき、鑑賞者の存在は本当に必要だろうか。 誰もいない森の中で、光が木漏れ日となって地面に落ちている。それは美しいか。 「美しいと感じる人がいなければ美しくない」と言うこともできる。だが直感的には、誰もいなくても、あの光は美しいと思える。