生きること

We die, and we know it. These entries sit with what that means: freedom, solitude, happiness, time, memory, choice. None of them arrive at comfort. They ask what it is to remain here, awake to the weight of it, without turning away.

生きること

人はなぜ夕方の光で立ち止まるのか

急いでいた。用事があった。それなのに、足が止まる。夕方の光が建物の壁をオレンジに染めている。ただそれだけのことだ。太陽が低くなり、光の波長のうち青が大気に散乱され、赤みを帯びた光だけが地表に届く。色温度にして約3000K前後。物理の教科書に載っている、ありふれた現象にすぎない。 それなのに、あなたは立ち止まる。スマートフォンを取り出すか、あるいはただ黙って見つめる。なぜか。たぶん、あなた自身にもわからない。 身体が先に知っている 「美しい」と思った瞬間には、もう足は止まっている。順序が逆なのだ。 美的判断というのは、通常、知覚してから評価し、そして行動に移るという段階を踏むと考えられている。ところが夕方の光に対する反応は、その手順を無視する。足が止まり、息が浅くなり、視線が固定される。そのあとで「ああ、きれいだ」と思う。判断より先に身体が動いている。 メルロ=ポンティは、知覚が単なる情報処理ではなく、身体そのものが世界と交渉する行為だと考えた。私たちは脳で世界を見ているのではなく、身体で世界に触れている。夕方の光に足が止まるのは、頭で「美しい」と判断したからではなく、身体が

By Sakashita Yasunobu

生きること

言語化できない不安の正体

何が不安なのかと聞かれて、答えられなかった。 不安はある。胸の奥のどこかが圧迫されている。胃が重い。眠れない。だが、何が不安なのかを言葉にしようとすると、ちょうどよい言葉が見つからない。「仕事が」「将来が」「人間関係が」と口にしてみても、どれもしっくりこない。不安の輪郭に言葉が届いていない感じがする。 たぶん、不安に輪郭がないのだ。 対象のない不安 ハイデガーは『存在と時間』の中で、恐れ(Furcht)と不安(Angst)を明確に区別した。 恐れには対象がある。暗い道を歩くときの恐怖。試験に落ちるかもしれないという不安。病気の診断を待つ緊張。これらには「何が怖いのか」という問いに対する答えがある。 だが、Angstには対象がない。ハイデガーによれば、Angstは世界全体が「無意味に」感じられる経験だ。普段は当たり前に機能していた世界の意味が崩壊し、すべてが「どうでもいい」ものとして立ち現れる。スタンフォード哲学百科事典が記述するように、不安が襲うと、日常の仕事への没頭が崩れ落ち、世界のアフォーダンスが「どうでもよいもの」として現れる。それは特定の何かへの恐怖ではなく、

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

穴は開いたまま誰も埋めない

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。 この問いに答えた人間は、まだいない。たぶん、これからもいない。1714年、ライプニッツがこの問いを定式化してから3世紀が過ぎた。物理学者が宇宙の始まりを計算し、神学者が第一原因を語り、論理実証主義者が「無意味だ」と宣告した。それでも問いは閉じなかった。ハイデガーはこれを「形而上学の根本問題」と呼んだけれど、根本問題と名付けたところで根本が見えるわけではない。 あなたは今日も、理由なく存在している。 すべてには理由がある、はずだった ライプニッツの充足理由律(Principle of Sufficient Reason)は、こう主張する。 いかなる事実も、それがそうであり他でないための十分な理由なしには、成立しえない。 (『モナドロジー』第32節、1714年) 美しい原理だと思う。あらゆるものに理由がある。この椅子がここにあるのにも、この惑星が青いのにも。世界は説明可能な場所であってほしいという願いを、ライプニッツは原理にまで昇華した。 ところが、この原理を「存在そのもの」に適用した途端、足場が崩れる。 「存在全体」の理由は何か

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

満ちることのない器よ問いかけは続く

「足るを知れ」と言われたとき、どこか引っかかるものがある。 正論だ。欲望には際限がない。手に入れても次が欲しくなる。だから今あるもので満足しろ。論理としては明快で、反論の余地がないように聞こえる。それなのに素直にうなずけないのは、なぜだろう。 たぶん、この言葉が「満足しろ」という命令として届いてしまうからだ。しかも、すでに満たされている人の口から出ることが多い。持っている人が「持っているもので十分だ」と言うのと、持っていない人が「持っていなくても十分だ」と言わされるのでは、同じ言葉でも意味がまったく異なる。 「足るを知る」の出典を確認する 「足るを知る」の原典とされるのは、老子の第46章だ。原文には「知足者富」という語がある。足るを知る者は富む、と読める。 ただし、この章の文脈は「現状に満足しなさい」という穏やかな教えではない。第46章の主題は、天下に道が行われていない時代の描写だ。戦争のために軍馬が使われ、欲望が際限なく拡大していく状態への批判がある。「知足」はその過剰な欲望に対する処方箋であって、「今ある暮らしに文句を言うな」という意味では、少なくとも原典においては、な

By Sakashita Yasunobu

生きること

永遠の素振り

あなたはいつから素振りばかりしている。 バットを構え、腰を回し、フォームを確認する。鏡の前で。壁に向かって。千回。一万回。フォームは洗練される。筋肉は覚える。あなたは確実に上手くなっている。ただ、ボールは一球も飛んでこない。打席に立つ予定もない。 上手くなることは、いつから目的になったのだろう。そしてもっと厄介なことに、その問いを誰も発しない。 手段が目的を食い殺す アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間の行為にはそれ自体が目的であるもの(それ自体のために選ばれるもの)と、何か別のもののための手段であるものがあると論じた。笛を吹く技術は笛を吹くためにあり、医術は健康のためにある。すべての技術(テクネー)は、その外部にある何かを実現するために存在する。 ところが、手段と目的の関係はしばしば反転する。 ギターを弾くのは、誰かに聴かせたいからだったはずだ。しかしいつの間にか、スケールの速弾きが何小節続くかのほうが重要になる。語学を学ぶのは、誰かと話すためだったはずだ。しかしいつの間にか、検定試験のスコアを1点でも上げることのほうが重要になる。写真を撮るのは、何かを記録した

By Sakashita Yasunobu

生きること

「なんとなく嫌」の分解

嫌いなものなら説明できる。辛い食べ物が嫌い。寒い朝が嫌い。理由は明快で、誰に聞かれても答えられる。しかし「なんとなく嫌」は違う。理由がない。理由がないのに避けたい。避けたい理由を聞かれると困る。困るから「なんとなく」と言う。 「なんとなく」は説明の放棄ではなく、正確な記述だ。本当に「なんとなく」なのだから。 「嫌い」と「なんとなく嫌」は別の現象である 「嫌い」には構造がある。対象があり、理由があり、経験がある。犬に噛まれたから犬が嫌い。怒鳴られた記憶があるからあの部屋が嫌い。原因と結果が追跡可能だ。 「なんとなく嫌」には構造がない。あるいは、構造が見えない。特定のUIを触ったときの居心地の悪さ。特定の言い回しに対する微かな反発。特定の場所に入ったときの、帰りたいという衝動。どれも、問い詰められれば答えに窮する。 この二つは質的に異なる。「嫌い」は意識の出来事だ。「なんとなく嫌」は意識の手前の出来事だ。身体が先に反応し、意識が後から「なんとなく嫌だ」

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

永遠にあと半分の距離を走る

あなたはゴールに近づいている。あと半分。あとその半分。あとそのまた半分。残り距離は限りなくゼロに近づく。けれどゼロにはならない。永遠に、あと少し。2500年前のギリシャ人がこの構造に気づいたとき、彼はたぶん笑っていたと思う。あなたの人生が、亀を追いかけるアキレスとまったく同じ構造をしているのだと。 紀元前5世紀、エレアのゼノンは運動が不可能であることを論証しようとした。論証は失敗した。しかしその失敗が2500年間、哲学者と数学者の喉に刺さった小骨のように残り続けている。成功よりも長持ちする失敗というものがある。 亀はまだ先にいる もっとも有名なのは「アキレスと亀」だ。俊足のアキレスが、先にスタートした鈍足の亀を追いかける。アキレスが亀のいた地点に到達すると、亀はわずかに前進している。その新しい地点にアキレスが到達すると、亀はまたわずかに前進している。追いかけっこは無限に続く。論理的には、アキレスは永遠に亀に追いつけない。 現実のアキレスは10秒もあれば亀を追い越す。しかしゼノンの問いは「追いつけるか」ではない。「無限に分割された距離を、有限の時間でどうやって通過するのか」だ。

By Sakashita Yasunobu

生きること

金曜日を消した囚人の朝

あなたは来週死ぬ。ただし、いつ死ぬかは知ることができない。 これは脅しではない。哲学史のなかでもっとも厄介なパラドックスのひとつ、「予期せぬ絞首刑」の宣告文だ。囚人はこの宣告を聞いて、完璧な論理で「処刑は不可能だ」と証明してみせた。そして水曜日に、予告どおり、驚きとともに絞首台に立った。 論理は正しかった。結論は間違っていた。その矛盾のなかに、私たちの「知る」という行為そのものの限界が、静かに横たわっている。 完璧な推論、完璧な誤り パラドックスの骨子はこうだ。 判事が囚人に宣告する。「来週の月曜日から金曜日のいずれかの正午に絞首刑を執行する。ただし、当日の朝まで何曜日に執行されるかはわからない」。 囚人は考える。まず金曜日を検討する。もし木曜の正午まで処刑されていなければ、残りは金曜しかない。そうなれば木曜の夜に「明日だ」とわかってしまう。だから金曜はありえない。 金曜が消えれば、木曜が最終候補になる。水曜の夜には「明日だ」と推論できる。だから木曜もありえない。 同じ論法で水曜が消え、火曜が消え、月曜が消える。 すべての曜日が論理的に不可能になる。囚人は安堵して眠

By Sakashita Yasunobu

生きること

1兆の夜明けを数えた星の沈黙

深夜、ベランダに出て空を見上げる。星が見える。あるいは曇っていて何も見えない。どちらにしても、足元の地面は動いていない。少なくとも、そう感じる。 しかし今この瞬間も、あなたは地球の自転によって時速約1,670km(赤道上の場合)で移動している。新幹線の5倍以上。音速の約1.4倍。それをまったく感じないのは、あなたが地球と同じ慣性系の中にいるからだ。空気も、建物も、コーヒーカップも、すべてが同じ速度で動いている。相対的な差がないから、体感としてはゼロになる。 では、この回転は今まで何回繰り返されたのだろうか。 数えてみる 地球の年齢は約46億年とされている。放射性同位体の崩壊を利用した年代測定(ウラン-鉛法など)によって推定された数値だ。 単純に1日1回転として計算すると、46億年 x 365.25日 = 約1兆6,800億回転。途方もない数だ。しかしこの計算は正確ではない。地球の自転速度は一定ではないからだ。 月の重力が地球の海水を引っ張ることで潮汐が生じる。この潮汐は地球の自転にブレーキをかける。結果として、地球の1日は100年あたり約2.3ミリ秒ずつ長くなっている。わ

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

全員が見ていた

駅のホームで人が倒れた。あなたはそれを見た。周囲には何十人もの人がいた。あなたは足を止めかけて、しかし止めなかった。誰かが助けるだろう、と思った。全員が同じことを思っていた。全員が歩き続けた。 これは冷酷さの話ではない。構造の話だ。 三十八人の神話 1964年3月13日、ニューヨーク・クイーンズ地区で、キティ・ジェノヴィーズという女性が自宅アパートの前で殺害された。二週間後、ニューヨーク・タイムズ紙は衝撃的な記事を掲載した。38人の目撃者が犯行を見聞きしていたにもかかわらず、誰一人として警察に通報しなかった、と。 この記事はアメリカ社会に激震を与えた。都市生活の冷淡さ、人間の無関心、道徳の崩壊。あらゆる角度から語られ、引用され、教科書に載った。 ただし、この報道は嘘だった。 2007年、マニング、レヴァイン、コリンズの研究が、ニューヨーク・タイムズの記事を精査し、38人という数字には根拠がないことを示した。実際に犯行を目撃した人数はそれよりはるかに少なく、何人かは通報を試みていた。事件の全容を把握していた目撃者はほとんどいなかった。 しかし、嘘が正しい問いを生んだ。

By Sakashita Yasunobu

生きること

人が比較でしか幸福を測れない理由

幸福には単位がない。 体重はキログラムで測れる。気温は摂氏で測れる。距離はメートルで測れる。だが、幸福を測る単位は存在しない。「今日の幸福度は73ハッピーです」とは言えない。 だから人は比較する。他の誰かと。昨日の自分と。あるいは、想像上の「あるべき自分」と。それ以外に、自分がどれだけ幸福かを知る方法がない。 隣の芝が永遠に青い理由 レオン・フェスティンガーは1954年に社会的比較理論を提唱した。人間は客観的な基準がないとき、他者との比較によって自分の能力や意見を評価する、という理論だ。 幸福にも同じことが当てはまる。幸福の絶対的な基準がないから、人は周囲を見渡す。友人の昇進。同僚の結婚。SNSに流れてくる誰かの旅行写真。それらと自分の状況を並べて、自分が「まあまあ幸せ」なのか「不幸せ」なのかを判定する。 問題は、比較の対象が常に上方に偏ることだ。自分より幸せそうに見える人間ばかりが目に入る。これはSNSによって劇的に悪化した。かつての比較対象は近所の人間や職場の同僚に限られていた。今では世界中の「幸せそうな人間」が比較対象になる。 あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚

By Sakashita Yasunobu

生きること

どちらを選んでも振り返る

後悔しない人生を送りたい。たぶん、あなたもそう願ったことがある。 だが残念なことに、その願い自体が罠だ。後悔を避けようとする行動は、慎重すぎる選択を生み、決断の先延ばしを招き、安全な道ばかりを選ばせる。そして数年後、あなたはこう思う。もっと大胆にすればよかった、と。後悔を避けたはずの人生が、後悔で満ちている。 後悔は追い払おうとすると寄ってくる。受け入れようとすると姿を変える。見て見ぬふりをすると、忘れた頃に刺す。 逃げた先で待っている 行動経済学には「後悔回避バイアス」という概念がある。人は将来の後悔を予測し、それを回避するように意思決定を歪める傾向があるという知見だ。損失を恐れて株を持ち続ける。告白が怖くて距離を置く。転職のリスクに怯えて不満を飲み込む。どれも、後悔したくないがゆえの行動だ。 問題は、この予測がほとんど当たらないことにある。 ダニエル・ギルバートらの2004年の研究 Looking Forward to Looking Backward は、この不一致を実証した。「あと少しで勝てた」場面と「明らかに負けた」場面を比較したとき、人は前者のほうがはるかに強

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