ストレージを信じるということ

ストレージに求められるのは、便利さと信頼性の両方だ。この二つが揃っている限り、裏側がどんな技術で動いていようと気にする必要はない。ファイルを保存して、必要なときに取り出せる。それだけのことが当たり前に機能し続けること。ストレージへの信頼とは、つまるところそういうことだと思う。

ところが、ストレージには他の技術レイヤーにはない厄介な性質がある。

不可逆性という特殊性

ソフトウェアにおける抽象化とは、内部の複雑さを隠して、使う側に必要な操作だけを見せる設計思想だ。ファイルを「保存」するとき、実際にディスク上でどのようにデータが書き込まれているかを意識する必要がないのは、この抽象化が正しく機能しているからにほかならない。

多くの技術レイヤーでは、抽象化が破綻しても回復の手段がある。計算の誤りはやり直せる。通信の途切れは再送できる。しかしストレージの喪失は、バックアップが存在しなければ取り返しがつかない。破綻したときに巻き戻せないという不可逆性が、ストレージを特別な領域にしている。

同じ性質を持つ分野は他にもある。たとえば暗号鍵の管理がそうだ。秘密鍵を紛失すれば、署名能力は不可逆的に失われる。共通しているのは、「普段は裏側を知らなくていい」という信頼が、「裏側が壊れたとき誰が責任を取るのか」という問いと常にセットになっているという構造だ。

クラウドであれば、その責任はプロバイダが負う。NASであれば、それは自分自身だ。便利さと信頼性が両立している限り、この問いは表に出てこない。しかし一度発火すれば、被害は取り返しのつかないものになりうる。

サブスクリプションの構造

クラウドストレージに限らず、ソフトウェアのサブスクリプションモデルに抵抗を覚える人は少なくない。気持ちはわかる。しかし、買い切りとサブスクリプションのインセンティブ構造を比較すると、直感とは異なる側面が見えてくる。

買い切りモデルでは、販売した時点で開発者の収益は確定する。その後もソフトウェアを維持し続ける経済的な動機は、構造上、弱い。もちろん評判やブランド価値の維持といった間接的な動機はあるが、直接的な収益との結びつきは薄くなる。

サブスクリプションモデルでは、ユーザーが継続利用することが収益に直結する。だからサービスを安定的に提供し続ける動機が、ビジネスの構造そのものに組み込まれている。「月額を取られ続ける」という不満と、「だからこそ維持される」という事実は、矛盾なく両立する。

ただし、サブスクリプションにはもう一つの動機が内在している。解約を防ぐことが収益に直結するならば、乗り換えコストを意図的に高くする動機も同時に生まれる。データのエクスポートを煩雑にする。独自フォーマットに囲い込む。APIを制限する。こうした施策は、サービスを「維持する」動機と「離脱させない」動機が表裏一体であることを示している。

ここには信頼と依存の境界がある。どちらも、外から見れば「相手に任せて自分は関与しない」という形をとる。しかし信頼は離脱の自由を前提に成立するのに対し、依存は離脱の困難さによって維持される。サブスクリプションを使い続けるほどデータと習慣が蓄積され、最初は信頼だったものが、いつの間にか依存に変質していることがある。しかもその境目は明確でないから、当人にも気づきにくい。

NASという選択肢

NAS(Network Attached Storage)は、手元にストレージサーバーを置いて自分で管理するという選択だ。クラウドにデータを預けることに不安がある人にとって、データが物理的に自分の管理下にあるという事実は、一つの安心材料になる。

たとえばSynologyのNASは、ハードウェアは買い切りでありながら、DSM(DiskStation Manager)と呼ばれるOSが継続的にアップデートされる。ファイルシステムにはBtrfsが採用されており、スナップショットやデータのチェックサム検証によるデータ保護機能が提供される。なお、SynologyはBtrfsのネイティブRAID機能ではなく、LVM/MDベースのRAID構成の上にBtrfsを載せるという設計を採っている。これはBtrfsのRAID5/6実装に既知の安定性の問題があるためで、実用上は合理的な判断とされている。

このように「ハードは買い切り、ソフトウェアエコシステムは実質的に継続提供」という構造が、NASの信頼感を支えている面がある。純粋な買い切りハードウェアだけでは、長期にわたる安定運用は難しい。

一方で、NASは自己管理が前提だ。ディスクの故障対応、ファームウェアの更新、バックアップ戦略の設計と検証。これらはすべて所有者の責任になる。クラウドが信頼の委託だとすれば、NASは信頼の引き受けだ。便利だが、その便利さの維持にかかるコストも自分で背負うことになる。

データは増え続けるが、全部残すべきとは限らない

保存すべきデータが増え続けるのは事実だ。しかし、「増えた分はすべて保持すべきだ」という前提は自明ではない。

タグもフォルダ分けも検索用のメタデータも何もない巨大なアーカイブがあったとして、そこから必要なものを取り出せなければ、保存していないのと実質的には変わらない。ストレージの問題に見えて、実は検索と意味づけの問題であることが多い。

セマンティック検索やマルチモーダル検索といった技術の発展は、「まず保存して、検索は後からどうにかなる」という方向を後押ししている。技術が「全部残す」という戦略を事後的に正当化しつつある状況は、確かに興味深い。

ただ、何を残し何を手放すかを判断する行為そのものが、アーカイブに輪郭を与えるという側面もある。すべてを無差別に保持するということは、何も選んでいないということでもある。保存するという行為に意志が伴わなければ、それはアーカイブではなく、ただの堆積だ。

コールドストレージは個人に必要か

アクセス頻度の極めて低いデータを低コストで保持する手段として、コールドストレージという領域がある。

Meta(旧Facebook)はかつて、Blu-rayディスクを用いたコールドストレージシステムを自社開発した。1ラックに約10,000枚のBlu-rayディスクを格納し、約1ペタバイトの容量を実現するこのシステムは、従来のHDDベースの構成と比べてストレージコストを約50%、消費エネルギーを約80%削減したと報告されている。保存対象は、ユーザーがアップロードした古い写真や投稿など、ほぼアクセスされないが削除もできないデータだった。

クラウドサービスとしては、AWSのS3 Glacier Deep Archiveが約1米ドル/TB/月という低コストのアーカイブストレージを提供しており、個人が利用する事例も見られる。ただし、データの取り出しに12時間から48時間を要すること、最低保存期間が180日に設定されていること、リクエスト料金やデータ転送料金が別途発生することを考慮すると、運用は単純ではない。

こうした手段の本質は、「消すわけにはいかないが、ほぼ二度とアクセスしないデータ」を最小のコストで維持することにある。Metaにとっての目的はユーザーデータの長期保持とコスト最適化であり、アーカイブそれ自体が目的なのではない。アーカイブを目的としない限り、個人がこの領域に踏み込む必然性は薄いと言える。

ほとんどの人はこの問題の外にいる

NASとクラウドの二重化は、データの保全を真剣に考える層にとっては定番の手法とされる。しかし率直に言えば、大切なデータをUSBメモリに入れて保管しているだけで、世の中全体の平均からすれば十分に意識の高い部類に入る。

ストレージの冗長性について議論する人は、そもそもストレージを「問題」として認識できるだけのデータを持ち、それを失うことのコストを肌で理解している人だ。この問題について考えていること自体が、すでに多数の人とは異なる立場にいることを意味する。

これはストレージに限った話ではなく、あらゆるインフラに共通する構造だ。うまく機能しているインフラは、使っている人にとって透明になる。電気が来ることも、水道が出ることも、通信がつながることも、正常に動いている限りは意識の外にある。それが見えているということ自体が、見えていない人とは違う世界にいるということだ。

そしてこの構造には、ひとつの脆弱性がある。誰かがそのレイヤーを注視している限りは問題は表面化しにくいが、誰も見ていないレイヤーが生まれたとき、破綻は不可視のまま進行する。

何のために残すのか

ストレージの選択を突き詰めていくと、最終的に行き着くのは「このデータは誰のためにあるのか」という問いだ。

その答えが「自分のため」であれば、やるべきことはシンプルになる。自分が生きている間、必要なデータに手が届く状態を維持すること。それ以上の冗長性は、多くの場合、過剰だ。

もし誰かに引き継ぎたいデータがあるなら、問題はストレージの選択ではなく、そのデータを他者が読み解ける形に整えておくことの方に移る。それはもはやストレージの話ではなく、ドキュメンテーションの話だ。

大抵の人にとって、信頼できるストレージがひとつと、その控えがひとつあれば十分だと思う。技術的な正解よりも大事なのは、自分が何に信頼を置いているかを自覚していることかもしれない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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