大学間連携の未来

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

M. Trowによって提唱された大学区分において、日本は現在ユニバーサル型へ変化しており、各大学はそのあり方の見直しに迫られている。そうしたなかで、他大学との提携を結ぶ大学もあらわれている。本稿ではそのあり方について「水平的」および「垂直的」視点から分析し、大学の将来像について模索していくこととする。

水平的連携:大学同士の提携

大学同士の連携のことを水平的連携と呼ぶこととする。水平的連携の視点からは、大学が提携を深めることによって、各大学の資源の有効活用や自身の特色を発揮するだけでなく、成長させることができ、企業における分業化のような効果が期待できる。さらには、社会の大学へのニーズにより的確に応えることができると考えられる。中元によると「共同事業体(大学コンソーシアム)で得ることが可能なメリットとして、(1)スケールメリット(規模の経済による効果)、(2)シナジー(単なる合力を超えた相乗効果)、(3)パイロットプログラム(試行実証・普及)、(4)相互補完(資源を持ち合うことで自大学の特色発揮を目指す)が挙げられる」と述べている(1)。

垂直的連携:教育段階を超えた提携

一方で、初等・中等・高等教育さらには就学以前からの教育機関の連携を垂直的連携と呼ぶこととする。

垂直的連携のあり方として、Organisation for Economic Cooperation and Development(OECD)は Recurrent Education という教育のあり方を提唱している。UNESCO も生涯教育(Lifelong Education)を提唱しているが、山本によると「リカレント教育の考え方にたつと、教育と労働などの他の活動は交互に行われることとなり、ユネスコとの生涯教育のような永続的、継続的教育は否定されることになる。つまり、リカレント教育は断続的な教育の提唱なのである」と指摘している(2)。

垂直的提携として小中高大接続が考えられるが、これは UNESCO の提唱する Lifelong Education の理念に基づいており、当初の OECD が提唱した Recurrent Education とは性格を異にする。山本によると Recurrent Education の概念は「極めて実践的に戦略論として打ち出され」、近年では「リカレント教育はユネスコの生涯教育を否定するものではなくなり、リカレント教育は学校での教育を中心とする生涯教育のひとつの形態」になっていると整理している。つまり、垂直的連携においては、かつて対立的に捉えられていたリカレント教育と生涯教育が統合的に理解されるようになり、大学が教育段階を超えた連携の要として機能する余地が広がっているといえる。

まとめ

水平的提携により、大学それぞれの強みを生かせるだけでなく、自大学の発展につながると考えられる。垂直的提携については、生涯教育を通じた SDGs に掲げられている「質の高い教育をみんなに」という目標の実現へとつながることが期待される。OECD による Recurrent Education は職業と密接に関わる教育のあり方への一つの提言とみることができ、UNESCO による生涯教育の提言とともに、大学提携のあり方を考えるうえでの重要な手がかりとなるだろう。

今後の大学は、水平的にも垂直的にも連携を深化させていくことで、単独では成しえない教育・研究の質的向上を実現しうる。その際、各大学が自らの特色を明確にしつつ、補完的な関係を構築していくことが求められる。大学提携の進化は、日本の高等教育全体を活性化させる鍵となるのではないだろうか。


  • (1) 中元崇「大学間の提携の戦略的活用」『大学の戦略的経営手法』岩崎保道 編、大学教育出版、p. 73
  • (2) 山本恒夫「第1章 生涯学習の意義と学校の役割」『生涯学習と学校』新学校教育全集20、熱海則夫・水越敏行 編、ぎょうせい、1995年、p. 9
  • (3) Organisation for Economic Cooperation and Development (OECD), ed., Equal Educational Opportunity, Paris: Organisation for Economic Co-operation and Development, 1971

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

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