誰も口を開かない最初の五分間が決めるすべて

「じゃあ、どうする?」

グループワークの最初の5分は、だいたいこの一言から始まる。そして、この一言が出た時点で、すでに崩壊は始まっている。

沈黙の5秒間

4人グループが組まれる。先生が課題を説明し、「では、グループで話し合ってください」と言う。全員が顔を見合わせる。1秒、2秒、3秒。誰も口を開かない。4秒目に誰かが言う。「じゃあ、どうする?」

この「どうする?」は問いのように見えて、問いではない。「誰かやってくれ」という無言の要請だ。そして残りの3人も同じことを思っている。全員が「誰かが始めてくれるのを待っている」状態。これがグループワーク崩壊の第一段階だ。

役割分担という儀式

沈黙に耐えかねた誰かが言う。「じゃあ、役割分担しよう」。

ここで起きるのは、役割の「押し付け合い」ではなく「引き受け合い」の失敗だ。「リーダー誰がやる?」と聞かれて、自分から手を挙げる人はほとんどいない。挙げたら最後、全部の責任を背負わされると直感でわかっているからだ。

結果として、もっとも断れない人がリーダーになる。もっとも声が大きい人ではなく、もっとも「いいよ」と言ってしまう人だ。そして「書記」という名の実質的な作業担当が、次に断れない人に落ちる。

この時点で、グループワークの出力を決める構造はほぼ固まっている。残りの時間は、この構造の上で惰性が動くだけだ。

「とりあえず」の罠

役割が決まると、次に出てくる言葉がある。「とりあえず、各自で考えてきて」。

この「とりあえず」は致命的だ。なぜなら、何を考えるのか、どこまで考えるのか、いつまでに考えるのかが一切決まっていないからだ。「各自で考える」は「各自で何もしない」とほぼ同義になる。次に集まったとき、全員が白紙か、あるいはバラバラの方向で考えてきたものを持ち寄り、統合できずにまた「どうする?」に戻る。

グループワークが崩壊するのは、メンバーの能力が低いからではない。最初の5分で「何をやるか」ではなく「誰がやるか」を決めてしまうからだ。

空気が壊れる一言、救う一言

グループワークの空気は、たった一言で壊れる。

「それ、意味ある?」。誰かのアイデアに対してこの一言が出ると、場が凍る。発言した本人に悪意はないかもしれない。純粋に疑問を感じただけかもしれない。だが、他のメンバーは学習する。「下手なことを言うと否定される」と。以降、発言のハードルが上がり、沈黙が支配する。

逆に、空気を救う一言もある。「なるほど、それってこういうことかな?」。相手の発言を言い換えて確認するだけのことだが、これが効く。理由は単純で、「あなたの発言を聞いていました」という証明になるからだ。人は聞いてもらえると感じたとき、次の発言をする気になる。

もうひとつ効くのが、「じゃあ最初に、今日のゴールだけ決めない?」という一言だ。役割分担の前に、何を達成するかを決める。順番がこれだけで変わる。「誰がやるか」ではなく「何をやるか」が先に来ると、役割は自然に決まることが多い。

なぜ大学はグループワークを好むのか

大学がグループワークを多用するのには理由がある。「社会に出たらチームで働くから」という建前と、「個別に採点するのが面倒だから」という本音が混在している。だが、チームで働く能力を育てたいのであれば、チームで働く方法をまず教えるべきだ。

グループワークの技術は、少なくとも3つのことを含む。議題の設定、時間の管理、意見の統合。このどれも、大学で教わった記憶がない。「話し合ってください」と言われて放り出されるだけだ。泳げない人をプールに投げ込んで「泳いでください」と言っているのと構造は同じだ。

崩壊は構造の問題だ

グループワークが崩壊するのは、メンバーの性格が悪いからでも、やる気がないからでもない。最初の5分の構造が壊れているからだ。

「まず何をやるか決める」「発言のハードルを下げる」「期限と範囲を明確にする」。この3つを最初の5分でやるだけで、グループワークの質は劇的に変わる。だが、この3つを自然にできるグループはほとんどない。なぜなら、全員が「誰かがやってくれる」と思っているからだ。

あなたがグループワークで「またか」と思ったとき、それはメンバーへの不満ではなく、構造の不備に対する正当な反応だ。そしてその構造を変える最も簡単な方法は、最初の5分で「今日のゴールは何ですか」と聞くことだ。たった一言でいい。

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