図書館をもう少し身近に

本を読むことのハードルは、思っているよりも高い。

「本を読め」と言われる機会は多いけれど、ではなぜ多くの人が読まないのかという問いに正面から答えるのは案外難しい。忙しいから、何を手に取ればいいのかわからないから、そもそも読書という行為が日常から遠いから。理由はいくらでも挙がるし、そのどれもがたぶん本当だ。

大学の図書館には膨大な蔵書がある。自由に手に取って、好きなだけ読める。それだけでも恵まれた環境のはずなのに、実際には試験前の自習スペースとして使われていることが多い。本棚の前を通り過ぎて、席に着いて、ノートを開く。蔵書は風景の一部になってしまっている。

もったいない、と思う。

ただ、「もっと本を読みましょう」という呼びかけだけでは、たぶん何も変わらない。読書の勧めは、すでに読書が好きな人には響くが、そうでない人にはなかなか届かない。必要なのは、呼びかけよりも手前にある、ちょっとした仕掛けなのだと思う。

三つの条件

仕掛けを考えるにあたって、大事にしたい条件が三つある。

誰かの負担にならないこと。 特定の誰かが毎日頑張り続けないと回らない仕組みは、早晩息切れする。できるだけ多くの人が少しずつ関わって、無理なく続く形がいい。

陳腐化しないこと。 一度作って終わりではなく、自然に中身が入れ替わり続けるものであること。更新が止まった掲示物ほど寂しいものはない。

大がかりなシステム改修を必要としないこと。 新しい設備やソフトウェアの導入には、予算も調整も要る。今ある環境の中でできることに、意外と面白い余地がある。

こうした条件を満たしつつ、図書館と本との距離を少しだけ縮められそうなアイデアを、いくつか考えてみた。

今日の引用

図書館のどこか目につく場所に、一日ひとつ、短い引用を掲示する。本からの一節でもいいし、誰かの言葉でもいい。

形式はアナログで十分だ。小さなホワイトボードでも、カードを差し替える掲示板でも、黒板でもいい。大掛かりなデジタルサイネージは要らない。

面白くなるのは、引用を利用者から募る形にしたときだ。投稿者はニックネームでいい。自分の好きな一文を、匿名で差し出す。「誰かが選んだ一文」が毎日そこにある、という状態は、図書館に足を運ぶたびにちょっとした発見をもたらす。

引用のいいところは、短いことだ。本を一冊読む時間がなくても、一行の引用なら読める。そしてときどき、その一行が気になって、原典を手に取ってみたくなることがある。読書の入り口として、これほど軽いものはなかなかない。

書評を募る

教員に「印象に残った一冊」を挙げてもらう。学生に「お気に入りの一冊」を寄稿してもらう。

書評と聞くと身構えてしまうかもしれないが、数行の感想で十分だ。「なぜその本が好きなのか」を自分の言葉で書く。それだけで、読んだことのない人にとっては貴重な手がかりになる。

教員の寄稿には独特の面白さがある。普段は専門分野の顔しか見えない先生が、かつて読んだ本について語ると、意外な一面が覗く。「あの先生、こういう本を読んでいたのか」という驚きは、本そのものへの関心にもつながる。

学生同士の寄稿にも、別の価値がある。同じ立場の人間がすすめる本には、友人から「これ面白かったよ」と言われるのと似た親しみがある。書店の「店員のおすすめ」が手書きPOPで心を動かすのと同じ原理だ。

こうした寄稿は、掲示スペースに貼り出してもいいし、図書館のウェブサイトやSNSで紹介してもいい。形は何でも構わない。大切なのは、「この本を読んだ人がここにいる」という気配が図書館の中に生まれることだ。

日本の大学図書館では、学生ボランティアが選書や書評に関わる取り組みがすでにいくつか行われている。おすすめの本を黒板に書いて紹介する試みや、「ビブリオバトル」と呼ばれる書評合戦も広がりを見せている。こうした事例を見ると、書評を募るという仕掛けは十分に現実的だと思える。

読書会

もう少し踏み込んだ形として、読書会がある。

読書会と聞くと、参加者全員が同じ本を事前に読んできて議論する、という形を想像するかもしれない。もちろんそういうスタイルもあるけれど、もっと緩やかなものでもいい。たとえば、最近読んだ本を一冊持ってきて、何が面白かったかを話す。それだけで、自分では絶対に手に取らなかったであろう本に出会う機会になる。

読書会で生まれた感想を書評として残していけば、先ほどの書評の仕組みと自然につながる。読んだ人が語り、語りが文字になり、文字が次の読者を呼ぶ。小さな循環が生まれる。

今日の一問

これは少し毛色の違うアイデアだ。

図書館のどこかに、毎日ひとつ、ちょっとした問いを掲示する。答えは図書館のどこかの本に載っている。

たとえば、「『くまのプーさん』で、イーヨーの誕生日にプーさんが持っていったプレゼントは何?」というような問い。答えを知りたければ、棚に行けばいい。

クイズとしてはささやかだけれど、「答えがこの建物のどこかにある」という感覚は面白い。図書館が「答えのある場所」として意識されること自体に、静かな意味がある。

問いの内容は幅広くていい。文学でも、科学でも、歴史でも。出題を利用者から募ることもできるだろう。出題する側は答えを知っているわけで、つまりその本を読んだ人だ。ここでもまた、小さな循環が生まれる。

そういう場所であること

どのアイデアも、それ単体で図書館の利用を劇的に変えるものではないだろう。

ただ、こうした小さな仕掛けの積み重ねが、図書館という場所の空気を少しだけ変える可能性はある。通りすがりに引用を読む。知らない誰かのおすすめに目が留まる。掲示された問いの答えがふと気になる。

そういう些細な出来事が、「あの棚にちょっと寄ってみようか」という気持ちにつながることがある。

大事なのは、これらの仕掛けがどれも「本を読め」とは言っていないことだ。一行の引用を眺めること、誰かの感想を読むこと、クイズの答えを探すこと。そのどれもが、本そのものを読むよりずっと気軽だ。でも、そうした気軽な接点の先に、ふと本を手に取る瞬間が生まれることがある。

図書館が、勉強するための場所であると同時に、何かにふと出会う場所でもあること。そのために必要なのは、大きな予算でも高度なシステムでもなく、「ここにはちょっと面白いものがあるらしい」と思ってもらえるような、ささやかな仕掛けなのかもしれない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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