大学発ベンチャーと技術移転

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本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。

本稿の目的

本稿では大学発ベンチャーの特徴について整理した後に、そこから考えられる大学発ベンチャーの社会的利点について考察する。

ベンチャー企業の特徴:大企業との比較

長谷川は、事業に失敗する理由について大企業と比較を行い、共通点は「未知の分野への展開」、相違点としては「ベンチャー企業は資金力、信用力が圧倒的に大企業に比べて不足しており、また、人材も一般的に集まりにくいと言われている」と整理している(1)。大学発ベンチャーでは、大学での研究を生かし、優秀な研究者などの人材の登用が期待できる。

大学発ベンチャーへの期待

大学に限らず、企業や経済のあり方、文化などですら国際化の大きな流れがある。大学にもいずれそうした流れが来ると考えられる。国際化する市場のなかで今後はベンチャーのあり方も多様化していくと考えられる。岡村、五十嵐によると、大学での研究を企業が転用するあり方は一般に技術移転(TLO: Technology Licensing Organization)と呼ばれ、活発化していると分析している(2)。さらにこのTLOの役割について「国公立・私立を問わず、大学は公共性が高いものであり、その研究成果は有効に社会で活用されるべきである。TLOは技術的な成果を効果的に社会に還元する役割を担っている」と考察を深めている(3)。

ところで、ブランド戦略・地域連携などを通して大学と地域の関わり方が変化している。TLOによって、大学発ベンチャーのあり方も変わっていくと考えられる。青山によると、米国では「大学の持つ研究成果を、産業界に技術移転させることを政策的に推進し」てきたが、日本ではそうした動きが遅れていたと論じている(4)。岡村、五十嵐らはTLOの先進国に米国を挙げ、そのあり方について具体的に考察をしている。別の視点からは、大学発ベンチャーが盛んになることで、大学の地域貢献もより大きなものになるのではないかと考えられる。また、大学発のベンチャー実績の蓄積は、後のブランド戦略などにも応用が利くようになると考えられる。

大学の研究力を生かしたベンチャーの安定性

TLOと関連することとして、大学の研究へ着目するという視点がある。大学では高度な研究を行っているため、ベンチャーなどのリスクを多く抱える事業に対して、その高度な研究を生かすことができると考えられる。大学発ベンチャー企業は技術力を備えているという点で、個人が独自に立ち上げるハイリスクな計画としてのベンチャーとは異なり、比較的安定した運営体制を望むことができる。こうした新たなベンチャーのあり方の確立は、大学と産業界の関係においても大きな転換点になりうると考えられる。

脚注

  1. 長谷川博和『ベンチャーマネジメント[事業創造]入門』日本経済新聞出版社、2010年、p. 12.
  2. 岡村公司・五十嵐伸吾「ベンチャーを取り巻く風土の変化」『ベンチャー企業の経営と支援』第9章、早稲田大学アントレプレヌール研究会 編、日本経済新聞出版社、2000年、p. 336.
  3. 同書、p. 337.
  4. 青山幸一郎「大学発ベンチャーの展開」『大学の戦略的経営手法』第8章、岩崎保道 編、大学教育出版、2016年、p. 105.

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

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優しい人から壊れる

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