感想文に何を書けばいいかわからない君たちへ
読書感想文を書けと言われて、一冊の推薦図書を読み終えたとする。読んでいるあいだは、まあ眠くならない程度には面白かった。でも本を閉じた瞬間に出てくる感想は「ふーん」だ。そこから800字を埋めろと言われて、途方に暮れる。
その気持ちは、よくわかる。
でも、ここでひとつだけ伝えたいことがある。感想文は、本当に何を書いてもいい。好き放題、何を書いたっていい。
少し昔の話をさせてほしい。
AIがまだ身近ではなかった頃、自分の思ったことを「それっぽく」見せるために、ちょっとした変換リストのようなものを持っていた。「なんかすげえな」と思ったら「感銘を受けた」と書く。「よく知らないけど、どうやらすごいらしい」は「心の琴線に触れた」になる。そうやって書き換えるだけで、まるで自分の感覚の解像度が上がったような気がしてくる。文筆家でもなんでもないし、自分の文章が上手いとも思っていない。ある種の処世術だ。下手くそで何が悪い、と開き直ってやっていた。
今なら、このくらいのことはAIがやってくれる。思いつくままにぽんぽんと言葉を並べて、あとはいい感じの体裁に仕上げてもらえばいい。
ただ、ここでちょっと面白いことが起きる。AIがこの「変換」を自動でこなすようになったことで、ずっと見えにくかったものが浮かび上がってきた。僕らがやっていたのは、翻訳ではなかったのだ。翻訳というのは、元の意味をそのまま別の器に移すこと。でも「なんかすげえ」と「感銘を受けた」のあいだに、意味の保存なんて成り立っていない。元の感覚をそっと脇に置いて、既製品の感覚に乗り換えていただけだ。着せ替えというより、すり替えに近い。
手作業でやっていた頃は、辞書を引く手間や表現を覚える努力があった。その労力のおかげで「自分の感性が深まった」と錯覚しやすかった。それが自動化されたとたんに、幻想がするりと剥がれ落ちる。
もちろん、学校の宿題を丸ごとAIに任せてしまったら、それはまた別の話だ。英語の勉強でAIに全部訳させたら、そもそも勉強にならない。ここで言いたいのはそういう実用的な話ではなくて、もう少しだけ奥にあること。
難しい言葉のすべてがただの飾りかといえば、もちろんそんなことはない。修飾ではなく、本当にぴったりの表現というものがある。言葉と自分の感覚がぴたりと重なる瞬間。それは着せ替えとはまるで違う手触りがする。
ここから、少しだけ込み入った話になるがついてきてほしい。
「ふーん」としか感想が出てこないとき、それは感覚が貧しいせいだろうか。僕はそうは思わない。むしろ「ふーん」という言葉そのものが、感覚をそこで止めてしまっている可能性がある。「ふーん」で片づけた瞬間に、それ以上感じることを自分で打ち切ってしまう。
逆に、もし誰かに「その『ふーん』の中身を200字で書いてみろ」と言われたとする。不思議なもので、書いているうちに、自分でも知らなかった何かがするすると出てくることがある。これは言葉が感覚を「表現」しているのではなく、「発見」しているということだ。
つまり、まず感じて、それから言葉にする、という順番がいつも正しいとは限らない。感覚と言葉は互いを掘り起こし合っている。書くことによって初めて、自分が何を感じていたのかに気づく。そういうことが、実際にある。
だからこそ、本を読んでほしい。文学に触れてほしい。辞書を丹念に引いてみてほしい。こんなにも繊細に言葉を選べるのかと驚く経験を、ぜひ一度してほしい。そしてそのうちに、AIの出してきた文章を見て「あれ、これは自分の言いたいこととちょっと違う」と感じる瞬間が来たなら、それはとても大切な感覚だ。大事にしてほしい。
感想文の切り口は、本当に自由だ。
主人公がちょっと強すぎないかと思ったなら、そう書けばいい。学校でそんな出来事は聞いたことがない、大人の想像にすぎないのではないかと感じたなら、それを書けばいい。時間が止まるなんてありえない、異世界なんてどんな設定だ、と笑ったなら、それだって立派な感想だ。主人公は冒険しているけれど、そのあいだ親御さんは心配しなかったのだろうか。捜索願は出なかったのだろうか。そう気になったなら、堂々と書いていい。
気に食わないこと。なんだか面白かったこと。すごいなと素直に思ったこと。そういうものを好きなだけ並べていけば、数百字なんて案外あっさり埋まってしまう。そしてそのどれもが、突き詰めれば一つの研究になりうるほど奥深い問いを秘めている。
要するに、好きに点を打てばいい。線でつなぐのは、あとからでいい。
ただ、この「点を打つ」という行為について、もう少しだけ考えてみよう。
何かを「おかしい」と感じるとき、その感覚は白紙の状態からいきなり湧いてくるわけではない。自分の中のどこかにある期待や基準からのずれとして感じ取られている。つまり、どんな「点」にも潜在的な「線」がすでに埋め込まれているのかもしれない。
でも、だから先に線を引かなければならない、ということにはならない。大切なのは、まだ線にならない点を恐れずに打つことだ。つながるかどうかわからない。意味があるかもわからない。それでも、打つ。意味は事後的に生まれるものだと信じて。
これが、大人にはなかなかできない。線の引き方を知りすぎていて、線にならなそうな点を打つことの「無駄」が先に見えてしまう。ばかばかしいと思ったアイデアを、形になる前にかき消してしまう癖が骨の髄まで染みついている。
若い人たちが自由に、まだ何にもならない点を遠慮なく打てるということ。それ自体が、いつの間にか大人が手放してしまった力なのだと思う。
最後にひとつだけ、言葉について思うことがある。
世の中には、似た言葉のわずかな違いにこだわることを知的な営みのように語る文章がある。たとえば「良い」と「好い」の使い分けだとか、ほとんど同義に見える表現の差を延々と論じてみせるような文章だ。国語的に意味の違いがあること自体はもちろん確かだし、繊細な使い分けが生きる場面もある。ただ、それがいつしか「違いに気づいている自分」を誇示するための道具になると、少し景色が変わってくる。既にある言葉の体系を先に持っていて、その体系にきれいに乗る点だけを選んで並べている。自分で敷いた線の上に点がきれいに配置されていくことへの快感。それはもう、表現というより自己確認に近い。
できることなら、言葉の違いに自分の感覚を揺さぶられるのではなく、自分の感覚の側から言葉をすくいとってほしいと思う。
どうすればそれができるのかと聞かれたら、正直なところ、はっきりした答えを持ち合わせていない。感性の奥に属するものだから、手順を示せるようなものではないのだろう。本を読むことかもしれない。漫画やアニメや映画かもしれない。日々の何気ない瞬間の気づきかもしれない。あるいは、どれだけ探しても見つからないかもしれない。それでも、探し続けてほしい。
感想文の審査員なんて偉そうに構えている大人たちが本当のところ何をしているかといえば、若い人たちの言葉を一つひとつ真剣に読んでいるだけだ。できばえがどうとか、構成がどうとか、そういうことの前に、ただそこにある声を聞きたいのだと思う。つたなくても、不格好でも、お行儀の良い言い回しに包まれたものよりも、まっすぐな言葉のほうがずっと遠くまで届く。
大人は、その不器用な声に、本当に心を動かされるのだ。
だから、好きに書いていい。自分の言葉で、好きなだけ。点を打つことを恐れなくていい。
線は、あとからいくらでもつなげられるのだから。