自由意志を手放せない
あなたの意志で読み始めたと思っているこの文章は、138億年前にすでに決まっていたのかもしれない。
問いの形をした罠
「自由意志は存在するのか」。
この問いには不思議な性質がある。考えれば考えるほど、自由意志の存在を否定する方向に議論が傾いていく。物理法則は決定論的に振る舞い、脳は化学反応の連鎖であり、「選択」と呼んでいるものはニューロンの発火パターンにすぎない。論理的に突き詰めれば、自由意志が入り込む余地はどこにもないように見える。
それなのに、大多数の人間はいまだに自由意志を信じている。哲学者ですらそうだ。PhilPapersの大規模調査(2020年)によれば、哲学者の約59%が両立論(コンパティビリズム)を支持している。つまり、決定論が真であっても自由意志は成立しうると考えている。
なぜか。
「証拠があるから」ではない。「論証が強いから」でもない。おそらく、信じたいからだ。
そしてここに、この問いの本当の罠がある。「自由意志は存在するか」という問いは、いつの間にか「なぜ私たちは自由意志を信じたいのか」という、まったく別の問いにすり替わっている。
決定論の冷たい論理
決定論の主張はシンプルだ。
すべての物理的事象は、先行する事象と自然法則によって完全に決定される。ビッグバンの瞬間に宇宙の全歴史はすでに確定していた。あなたが今朝コーヒーを選んだことも、紅茶を選ばなかったことも、138億年前の初期条件から一意に導かれる帰結にすぎない。
この議論に対して、量子力学を持ち出す人がいる。量子レベルでは事象が確率的に振る舞うのだから、厳密な決定論は成立しないのではないか、と。
しかし、これは自由意志の救済にはならない。量子的な不確定性は「ランダムさ」を導入するだけであって、「意志による制御」を導入するわけではない。サイコロの目が物理法則で決まっていなかったとしても、サイコロが自分の目を「選んでいる」とは誰も言わない。
ランダムか、決定済みか。どちらに転んでも、「私が選んだ」という感覚が入り込む場所は見当たらない。
リベットの実験と「0.5秒の裏切り」
1983年、神経生理学者ベンジャミン・リベットが行った実験は、自由意志をめぐる議論に一つの衝撃を与えた。
被験者に好きなタイミングで手首を動かしてもらい、「動かそうと意識した瞬間」を報告させる。同時に脳波を測定する。結果、脳の準備電位(Bereitschaftspotential)は、被験者が「動かそう」と意識するおよそ0.5秒前にすでに立ち上がっていた。
つまり、「私が決めた」と感じる前に、脳はすでに動き始めていた。
この実験には多くの批判がある。「意識した瞬間」の自己報告が正確かどうか。準備電位が本当に「決定」を意味するのかどうか。実験の設計自体が自由意志の概念を適切に捉えているのかどうか。リベット自身も、意識的な「拒否権」の可能性は残ると述べていた。
だが、批判の妥当性とは別に、この実験が突きつけた不快な問いは消えない。「意識が決定する」のではなく「決定が意識される」のだとしたら、私たちが「意志」と呼んでいるものは何なのか。
後から届く通知のようなものかもしれない。決定はすでに下されていて、意識はその報告を受け取っているだけ。だとすれば、「私が選んだ」という感覚は、壮大な事後報告にすぎない。
カントの綱渡り
イマヌエル・カントは、この問いに対して哲学史上もっとも精巧な回答を試みた人物の一人だ。
カントは世界を二つの側面に分けた。私たちが経験する世界(現象界)と、経験の背後にある世界そのもの(物自体の世界)。現象界は因果法則に完全に支配されている。すべての出来事には原因があり、例外はない。ここでは決定論が全面的に正しい。
しかし、とカントは言う。人間は現象界の住人であると同時に、理性的存在として物自体の世界にも属している。自由は現象界には存在しないが、物自体の領域においては可能である。道徳法則に従って行為する能力、つまり実践理性こそが、自由の根拠だ。
見事な論理構成だと思う。決定論を否定せずに自由意志の余地を確保する。しかもそれを、認識の限界という根本的な問題に接続している。
だが、正直に言おう。
この議論は、あまりにきれいすぎる。現象界と物自体という区分自体が、自由意志を救うために設計されたのではないかという疑念が拭えない。結論が先にあって、それを正当化するための枠組みが後から構築されたのではないか。もちろん、カント自身の思考の順序がそうであったかどうかは別の問題だが、完成された体系を眺めるとき、その疑念は消えない。
カントの哲学は美しさに応えることの中でも触れたが、美的判断においても認識の構造においても、カントは常に「主体の側の条件」に議論を引き戻す。自由意志もまた、カントにとっては世界の側の事実ではなく、理性的主体であることの条件だった。
その構え自体は誠実だと思う。ただ、誠実であることと正しいことは、別の話だ。
両立論という「大人の妥協」
現代の哲学者の多数派が支持する両立論(コンパティビリズム)は、もっと穏当な立場を取る。
自由意志を「あらゆる因果から独立した選択能力」と定義するのではなく、「外的な強制なく、自分の欲求や理由に基づいて行為できること」として再定義する。銃を突きつけられて金を渡すのは自由ではない。しかし、カフェでコーヒーを注文するのは、たとえその選択が究極的には脳の化学反応で決まっていたとしても、「自由な行為」と呼んでよい。
ハリー・フランクファートは「二階の欲求」という概念でこの立場を洗練させた。薬物依存者が薬物を欲している(一階の欲求)としても、その欲求を持ちたくないと思っている(二階の欲求)のであれば、その人は一階の欲求において自由ではない。自由意志とは、自分の欲求について反省し、どの欲求に基づいて行為するかを選べることだ、と。
賢い。実に賢い。
しかし、と思う。
これは「自由意志」の定義を変えることで問題を解消しているのではないか。元の問いが問うていたのは、「この宇宙で本当に別の選択が可能だったのか」ということだったはずだ。両立論はその問いに答えず、問いの方を取り替えている。
r/askphilosophyで何年も両立論を理解しようと努力し、それでも納得できないという投稿を見かける。「脳は化学反応の連鎖なのだから、すべての決定は生化学と遺伝で決まっている。どこに自由があるのか」。この直感的な抵抗は、両立論の再定義が何かを取りこぼしている証拠かもしれない。
あるいは、取りこぼしているのではなく、最初から存在しなかったものを求めているだけかもしれないが。
道徳の足場が崩れる
自由意志の問題が単なる形而上学のパズルにとどまらないのは、道徳の根幹に直結しているからだ。
「あの人は悪いことをした、だから罰を受けるべきだ」。この文は、「あの人は別の行動を選ぶことができたのに、あえて悪い方を選んだ」という前提に支えられている。しかし決定論が正しいなら、その人は別の行動を選ぶことができなかった。ビッグバンからの因果の連鎖が、その行動を不可避にしていた。
罰に値するとは、どういうことか。選べなかったのに。
トマス・ホッブズは、この問題に対して帰結主義的な応答を用意していた。罰の正当化は「別の選択ができたのに悪を選んだ」ことにあるのではなく、罰が将来の有害な行動を抑止し、犯罪者の更生に寄与することにある、と。罰の目的を応報から予防へと移すことで、自由意志の問題を迂回する。
スマートだ。しかし、迂回は解決ではない。
被害者が「あいつは罰を受けて当然だ」と感じるとき、その感情は帰結主義では拾いきれない。応報感情は、相手が「選べたのに悪を選んだ」という信念に根ざしている。その信念を取り除いたとき、被害者の怒りや悲しみにどう応えるのか。「社会的に有益だから罰しますね」で、人は納得するだろうか。
AIの文章に価値はあるかで「書き手にとっての価値」と「読者にとっての価値」を区別したことがある。同じような区別がここにも潜んでいる。「社会にとっての罰の機能」と「個人にとっての正義の感覚」は、別の次元の話だ。前者で後者を代替することはできない。
「信じたい」の正体
結局のところ、自由意志を信じたい理由は、論理的なものではない。
自分の人生が自分のものであるという感覚。努力には意味があるという信念。過去の選択に対する責任と、未来を変えられるという希望。これらはすべて、自由意志の存在を前提にしている。
自由意志を本気で手放したらどうなるか。
努力は無意味になる。なぜなら、努力するかしないかはすでに決まっているから。後悔も無意味になる。別の選択肢は最初から存在しなかったのだから。誇りも無意味になる。あなたの成功は、あなたの功績ではなく、因果の連鎖の産物だから。
電子のゴミで、自分が生み出すものをすべて「電子のゴミ」と呼んだことがある。あの文章で書いたのは、価値の不確かさの中でなお何かをつくり続けることの手触りだった。自由意志の問題は、あの感覚をさらに深いところから揺さぶる。そもそも「つくる」という行為自体が幻想なのだとしたら、手触りすら信用できない。
それは耐えがたい。だから信じたい。
「信じたい」という欲求があること自体は、信じる理由にならない。しかし、この欲求の強さは何かを語っている。自由意志という概念が、人間の自己理解にとってどれほど根深いものであるかを。
欲求もまた決定されている
ここで、もう一段深い穴に落ちる。
「自由意志を信じたい」という欲求。その欲求自体は、自由に生じたものなのか。
決定論が正しいなら、「信じたい」という欲求もまた、先行する因果の連鎖の産物だ。あなたが自由意志を手放せないのは、あなたの脳がそのように配線されているからにすぎない。進化心理学の観点から言えば、行為の主体感(sense of agency)を持つ個体の方が生存と繁殖において有利だった、という説明も成り立つ。
自由意志を信じたいという欲求が、自由意志なしに発生している。この再帰的な構造のグロテスクさを、どう受け止めればいいのか。
フランクファートの二階の欲求で言えば、「自由意志を信じたい(一階)」という欲求を「信じたくない(二階)」と思っている状態こそが、この問いに誠実に向き合っている姿なのかもしれない。しかし、その二階の欲求もまた決定されているなら、誠実さとは何なのか。
比喩の美しさと危うさで、言語化という行為自体が経験を変質させるというベルクソンの洞察に触れたことがある。同じことがここにも言える。自由意志について「考える」こと自体が、自由意志の問題を変質させる。考えれば考えるほど、問いの形が歪んでいく。言葉にした瞬間に、生きた経験が別のものになってしまう。
信じないことの実験
思考実験をしてみよう。
明日の朝、目が覚めたとき、自由意志は完全な幻想だと心の底から確信しているとする。あなたのすべての行為、思考、感情は、ビッグバンから連綿と続く因果の連鎖の必然的な帰結である。
その確信のもとで、一日を過ごす。
朝食に何を食べるか。どの服を着るか。仕事に行くか、さぼるか。これらの「選択」は、すべて事前に決定済みの出力だ。あなたは自分の人生を眺める観客にすぎない。
興味深いのは、おそらくほとんど何も変わらないということだ。朝食を食べ、服を着て、仕事に行く。「選択の余地がない」と信じていても、行動のパターンはほぼ同じだろう。なぜなら、行動を変えようとする意志もまた決定されているから。
だが、何かが変わる。雰囲気が変わる。世界の手触りが変わる。すべてが少しだけ他人事になる。自分の人生が、自分のものではなくなる感覚。
その感覚に耐えられる人は、思ったより少ないかもしれない。
問いの向こう側
自由意志について書いていて、一つだけはっきりしたことがある。
この問いには答えがない。
決定論は論理的に強力だが、自由意志の不在を「証明」することはできない。両立論は実用的だが、元の問いを取り替えている。形而上学的自由意志論(リバタリアニズム)は直感に合うが、物理法則との整合性を示せない。
どの立場を取っても、何かが取りこぼされる。
そして「答えがない」ということ自体が、すでに一つの答えかもしれない。人間の認識能力では原理的に到達できない問いが存在するのだとしたら、自由意志の有無はその一つだ。
カントが「物自体は認識できない」と言ったのは、まさにこの種の限界を指し示していた。自由意志が物自体の領域に属するなら、それについて確定的なことは何も言えない。言えないことについては沈黙すべきだ、とウィトゲンシュタインなら言うだろう。
だが、沈黙できない。それもまた、人間の性質だ。
美しさに応えることで、根拠がないまま「美しい」と応え続けることを一つの誠実さの形として書いた。自由意志についても、似た構造があるのかもしれない。根拠がないまま「私が選んだ」と言い続けること。それは自己欺瞞なのか、それとも、答えのない問いの前で立ち続けるための唯一の姿勢なのか。
手放せないまま
この文章を書いている「私」は、自由意志を信じていない。少なくとも、信じるに足る根拠を持っていない。
それでも、次の一文をどう書くか「選んでいる」という感覚は消えない。この文章を「書いた」のは自分だという感覚も消えない。
信じていないのに手放せない。根拠がないのに離れられない。
それが自由意志の一番残酷なところだと思う。存在しないかもしれないのに、存在しないと信じることすらできない。幻想だとわかっていても、幻想の外に出る方法がない。
自由意志を信じたい理由は、結局のところ、「信じないことに耐えられないから」でしかないのかもしれない。それは理由なのか。それとも、理由のない衝動を理由と呼び直しているだけなのか。
わからない。
わからないまま、次の一文を書く。自分の意志で。あるいは、そう思い込んで。