古典文学に挫折する構造
何度も挑戦して、何度も挫折する。読むべきだと分かっている。教養として、あるいは純粋な興味から。しかし開いてみると、最初の数ページで手が止まる。
古典文学に挫折する経験は広く共有されているのに、その原因が正確に分析されることは少ない。「難しいから」で片付けられることがほとんどだ。しかし「難しい」という一語は、まったく異なる複数の障壁を一つにまとめてしまっている。
挫折の構造を分解してみたい。
言葉の壁は、実は一番低い
古語の壁。これが最初に思いつく原因だろう。
「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。」
源氏物語の冒頭だ。現代の日本語話者にとって、これは外国語に近い。文法も語彙も、日常の言葉とかけ離れている。辞書を引けば一語一語の意味は取れるが、文全体の流れが掴めない。リズムが身体に入ってこない。
しかし古語の壁は、実はもっとも対処しやすい壁でもある。現代語訳がある。
角田光代による源氏物語の現代語訳(河出書房新社「日本文学全集」、2020年完結)は、原文の世界観を保ちながら現代の読者が抵抗なく読める日本語に仕上がっている。光文社古典新訳文庫のシリーズは、ドストエフスキーやカフカといった海外の古典を読みやすい新訳で提供している。
ただし現代語訳には功罪がある。意味は伝わるが、原文の文体が持つ味は失われる。紫式部の文章のリズム、鉤括弧なしに地の文と心内語が溶け合う独特の語り口。それらは現代語訳では別の何かに置き換えられている。翻訳にはつねに損失がある。
だからこそ、同じ作品の異なる訳を比較してみることには価値がある。与謝野晶子訳、谷崎潤一郎訳、瀬戸内寂聴訳、角田光代訳。同じ物語が、訳者の手を通してまったく異なる印象を帯びる。翻訳の選び方が体験を大きく左右するということは、もっと知られてよい。
言葉の壁は高いが、迂回路がある。本当の壁はその先にある。
テンポの壁
源氏物語の序盤を読み始めると、何が起きているのかよく分からないまま、ゆっくりとした描写が続く。「退屈」だと感じるのは無理もない。
しかしこの「退屈さ」の正体は、作品の欠陥ではない。読者と作品のあいだの時間感覚のずれだ。
平安時代の貴族にとって、物語は娯楽の中心だった。テレビもスマートフォンもない時代に、物語は声に出して読まれ、夜ごと少しずつ語られた。急ぐ理由がない。季節の移ろい、衣装の色合い、香の薫り。そうした細部の描写こそが楽しみだった。
現代の読者は異なる時間感覚の中で生きている。映像メディアのカット割りに慣れた目は、数秒ごとに新しい刺激を求める。小説にもスピード感を期待する。プロットが動かない場面は「何も起きていない」と判断される。
トルストイの「戦争と平和」(1869)の冒頭も似た構造を持つ。アンナ・パーヴロヴナのサロンでの会話から始まるが、19世紀ロシア貴族社会の人間関係の網の目が、ほぼ説明なしに展開される。トルストイは読者がこの世界にすでに慣れていることを前提としている。
このテンポのずれは、作品が「古い」から生じているのではない。作品が書かれた時代の読書のプロトコルと、あなたのプロトコルが異なるから生じている。ゆっくりと紡がれる物語に身を委ねることは、意識的な態度の切り替えを必要とする。
前提の壁
言葉が分かり、テンポに慣れたとしても、もう一つの壁が残る。文化的前提の壁だ。
源氏物語を読むには、平安貴族の恋愛作法、官位制度、季節感の表現体系、手紙の作法、色の象徴体系といった前提知識が要る。注釈なしでは意味が通じない場面が無数にある。「藤壺」がなぜ禁忌の対象なのかを理解するには、天皇の後宮の構造を知らなければならない。
海外の古典も同じだ。シェイクスピアの戯曲にはエリザベス朝イングランドの政治構造と社会的慣習が織り込まれている。ダンテの「神曲」は、中世キリスト教の宇宙観と当時のフィレンツェの政治状況を知らなければ、寓意の層が見えてこない。
これは現代の作品では起きにくい問題だ。現代の小説は、読者と同時代を生きているから、多くの文化的前提が暗黙に共有されている。古典はその共有が切れている。数百年分の文化的断層を、読者が自力で埋めなければならない。
通読しなくていい
「では古典は注釈付きの専門書で勉強してから読めというのか」と思ったかもしれない。そうは言わない。
ポーから読むアメリカ文学で、一人の作家を起点に文学の全体像を見渡すアプローチを紹介した。古典文学に対しても、似た戦略が使える。全体を通読することを最初から目標にしない。
源氏物語の五十四帖をすべて読む必要はない。「若紫」の巻だけ読んでもいい。「夕顔」の巻だけ読んでもいい。それぞれの巻は独立した物語としても読める。全体を通して読むのは、個々の巻を楽しめるようになった後でいい。
好きな章だけ読む。途中から読む。気になるエピソードだけ拾い読みする。「最初から最後まで順番に読まなければならない」という義務感こそが、挫折の最大の原因かもしれない。
マンガや映画などの翻案から入る道もある。大和和紀の「あさきゆめみし」は、源氏物語をマンガとして圧倒的な完成度で翻案した作品だ。翻案を「本物ではない」と退ける必要はない。翻案は原典への地図だ。地図を見てから土地を歩けばいい。
挫折は前提であって結論ではない
夏目漱石は古典だろうか。芥川龍之介はどうか。
漱石の「坊っちゃん」(1906)は、現代の読者がほとんど抵抗なく読める。百年以上前の小説だが、言葉の壁はほぼない。テンポも速い。文化的前提もさほど遠くない。しかしこれを「古典ではない」と言う人はいない。
古典とは、時間の中で生き延びてきたテキストのことだ。生き延びたということは、時代ごとに新しい読者を見つけてきたということであり、それは作品の中に、時代を超える何かがあることを示している。
あなたが今日挫折した古典は、あなたの準備が整っていなかっただけかもしれない。三年後、十年後に開いてみたら、まったく違う体験になっているかもしれない。嘘に泣くで触れたように、同じ作品を繰り返し体験するたびに異なる何かが見えるのだとすれば、古典を読む体験もまた、あなたの側の変化に応じて変わり続ける。
挫折は失敗ではない。前提だ。古典は一度で読めるように作られていない。何度も手に取り、何度も置き、やがていつか、そのテキストがあなたに語りかけてくる瞬間が来るかもしれない。
来ないかもしれない。どちらでも、構わない。