現代音楽が理解不能に感じる理由

1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場でストラヴィンスキーの「春の祭典」が初演されたとき、客席は騒然となった。不協和な和声、変拍子のリズム、原始的な振付。観客は賛否に分かれ、怒号と拍手が入り乱れた。警察が呼ばれたという証言もある。

一世紀後の今、同じ曲はクラシック音楽の定番レパートリーとしてどのコンサートホールでも演奏されている。曲は一音たりとも変わっていない。変わったのは、聴く側の耳だ。

あなたの耳は訓練済みである

ドレミファソラシド。この音の並びが「自然」に聞こえるなら、それはあなたの耳がすでに調性音楽のプロトコルに最適化されているからだ。

調性音楽とは、特定の音(主音)を中心に据え、そこからの距離と関係で他の音を組織する体系である。西洋音楽はおよそ四世紀にわたってこの体系を発展させてきた。バロック、古典派、ロマン派。バッハからモーツァルトを経てベートーヴェンに至る巨大な伝統だ。

あなたが「美しいメロディ」「心地よいハーモニー」と感じるものは、この伝統の中で繰り返し刷り込まれた期待のパターンにほかならない。ポップスもロックもジャズも、根本的にはこの調性の体系の上に成り立っている。CMのジングル、映画のサウンドトラック、駅の発車メロディ。日常のあらゆる場所で調性音楽が鳴っている。生まれてから何万時間もそれを聴き続けた耳は、調性の文法を「自然の秩序」と錯覚するほど深く内面化している。

しかし調性は自然の秩序ではない。文化的な約束事だ。インドのラーガは西洋の長音階とも短音階とも異なる音の配列を持つ。ガムランのスレンドロ音階は五音からなり、西洋の平均律とは異なる音程幅で構成されている。アラブ音楽は西洋の半音よりもさらに細かい微分音を用いる。それぞれの音楽文化に育った人にとって、それぞれの音の並びが「自然」に聞こえる。

世界はそこで終わっているで、言語のフィルターが世界の見え方を変えることについて書いた。音楽もまったく同じだ。あなたの耳は、ある特定のフィルターを通して音を聞いている。そのフィルターの外にある音楽は「理解不能」に聞こえるのではなく、フィルターが対応していないだけだ。

ポップスだって「不協和」を使う。ブルースのブルーノートは理論上は不協和音だ。ジャズの複雑な和声は、19世紀のクラシック音楽の聴衆にはおそらく不快に響いただろう。ロックのディストーションは、文字通り音を歪ませている。あなたはこれらを「普通の音楽」として受け入れている。かつて不協和だったものが耳に馴染み、やがて「自然」に聞こえるようになる。音楽の歴史はその連続だ。

調性を壊した人たち

19世紀末、調性の体系は限界に達しつつあった。

ワーグナーが「トリスタンとイゾルデ」(1865)の冒頭で提示した「トリスタン和音」は、調性の枠組みの中で最大限に曖昧な響きを作り出した。この和音がどの調に属するのか、いまだに音楽理論家のあいだで議論が続いている。ワーグナーはまだ調性の中にいたが、調性の壁にぶつかっていた。

アルノルト・シェーンベルクは、その壁を越えた。1908年頃から無調の作品を書き始め、1923年には「十二音技法」を確立した。一オクターヴの中の十二の音すべてを平等に扱い、どの音も中心にならない体系だ。主音がない。帰るべき「家」がない。調性音楽に慣れた耳にとって、これは不安以外の何ものでもない。

ただし、シェーンベルク自身は十二音技法を調性の「廃止」ではなく「拡張」と考えていた。実際、彼の初期作品「浄められた夜」(1899)は後期ロマン派の豊かな調性で書かれており、無調への移行は突然の断絶ではなく、漸進的な探究の結果だった。

しかし聴衆の多くにとって、それは断絶に聞こえた。「美しくない」「不快だ」「音楽ではない」。こうした反応は、現代音楽に対して今もなお繰り返されている。

ここで一つ問いたい。「不快だ」と「理解できない」は、同じことだろうか。

おそらく、違う。ホラー映画のサウンドトラックは不快だが、あなたはその不快さを「理解」している。恐怖を煽るための音だと分かっている。不快さが意図的であることを知っているとき、あなたはその不快さを受け入れることができる。現代音楽が困難なのは、不快だからではない。不快さの意図が見えないからだ。

メロディを追うのをやめる

現代音楽の聴き方のヒントがあるとすれば、こうだ。メロディを追うのをやめてみる。

調性音楽では、メロディが音楽の「主役」であることが多い。歌える旋律、口ずさめるフレーズ。しかし現代音楽の多くは、メロディを中心に構成されていない。代わりに前面に出てくるのは、音色、テクスチャ、密度、空間だ。

リゲティ・ジェルジュの「アトモスフェール」(1961)を聴いてみてほしい。この曲にはメロディがない。リズムもない。あるのは、数十のパートが微妙にずれながら重なり合うことで生まれる、巨大な音の塊だ。一つ一つの音を追う必要はない。全体の色合い、密度の変化、明暗のうつろいに身を任せればいい。それはメロディを聴くのとは異なる体験だが、正当な音楽体験だ。

スティーヴ・ライヒのミニマル・ミュージックは、また別の入り口を提供する。「ピアノ・フェイズ」(1967)では、二台のピアノが同じフレーズを弾きながら、わずかにテンポをずらしていく。最初は同じに聞こえていた二つのパートが、徐々にずれ、干渉し、新しいパターンを生み出す。一つ一つの変化は微細だが、その蓄積が全体の響きを劇的に変えていく。何も起きなかった日に通じる感覚かもしれない。反復の中に微細な差異を聴き取る耳さえあれば、ミニマル・ミュージックは驚くほど豊かだ。

沈黙を聴く

ジョン・ケージの「4分33秒」(1952)は、現代音楽の話になると必ず名前が挙がる作品だ。そしてたいていの場合、「ふざけている」と片付けられる。

演奏者がピアノの前に座り、一音も弾かずに三楽章ぶんの時間を過ごす。しかし会場が沈黙することはない。咳払い、衣擦れ、空調の音、外の車の音。ケージが聴かせようとしたのは「沈黙」ではない。沈黙など存在しないということだ。

ケージはハーバード大学の無響室を訪れた際、完全な静寂の中で自分の神経系の高い音と血液循環の低い音を聞いたと語っている。完全な沈黙は、少なくとも生きている人間には到達できない状態だ。「4分33秒」は、普段あなたが「音楽」と呼んでいるものの外側にある音に耳を向ける装置だった。

余白が語りはじめるで、ケージの「4分33秒」を「意図された音の不在が、普段は聞こえなかった音を前景化させる」装置として触れた。この文脈で言えば、現代音楽の多くは、調性音楽が「音楽」として前景化してきたものとは異なる音の側面を前景化する試みだと捉えることができる。メロディの代わりに音色を。和声の代わりにテクスチャを。拍子の代わりに持続時間そのものを。

橋を渡る

現代音楽とポップスのあいだには、実はすでに橋が架かっている。

Aphex Twinのエレクトロニック・ミュージックは、ポップスの文脈で聴かれているが、その音響設計は現代音楽の手法と地続きだ。複雑に加工された音色、予測を裏切るリズムの構造、不安と快感の境界を行き来する響き。Autechreはさらにその先を行き、拍子もメロディもほぼ解体した電子音響を作り出している。彼らの音楽は、クラブミュージックの棚に置かれているが、リゲティやクセナキスの作品と並べてもまったく違和感がない。

逆方向の橋もある。レナード・バーンスタインは1958年から1972年までCBSで「ヤング・ピープルズ・コンサート」を放映し、子どもたちに向けてクラシック音楽や現代音楽を平易な言葉で解説した。音楽の「仕組み」を知ることが、聴く体験をどれほど変えるかを示した先駆的な試みだった。

「好き」でなくていい

ここまで読んで、「それで、現代音楽を好きになれと言うのか」と思ったかもしれない。

そうは言っていない。好きになる必要はない。理解する必要すら、もしかするとない。ただ、「理解不能」というラベルを貼る前に、あなたの耳が特定のプロトコルに最適化されているという事実に自覚的であれば、それで十分かもしれない。

ポップスのサビで涙が出る仕組みについて、嘘に泣くで考えた。あの涙が「設計された反応」であるように、現代音楽への困惑もまた「設計された反応」かもしれない。調性音楽に最適化された耳が、異なるプロトコルに出会ったときの自動応答にすぎないのかもしれない。

現代音楽が要求しているのは、新しい知識ではなく、新しい耳だ。それは「正しい聴き方」があるという意味ではない。あなたが無自覚に採用している聴き方以外にも聴き方がある、と知ることだ。

シェーンベルクの「浄められた夜」から聴いてみるといい。調性の世界から無調の世界への過渡期にある曲であり、両方の響きを一つの作品の中で体験できる。リゲティのピアノ練習曲(1985年から2001年にかけて作曲)は、複雑だが直感的に面白い。ライヒの「18人の音楽家のための音楽」(1976)も勧めたい。反復の中で移ろう音色の変化に身を浸しているうちに、一時間が驚くほど速く過ぎる。

あなたの耳が「理解不能」と判定したその先に、まだ聴いたことのない音がある。聴くかどうかは、あなたが決めればいい。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

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