それでも日常を撮ろう

写真のモチベーションが尽きかけている。

ここ数ヶ月、カメラは防湿庫の中で眠っている。機材は揃った。技術的な知識もそれなりにある。それでも、自分の撮る写真がどうしようもなくつまらなく感じる。場所のせいだとか、機材のせいだとか、いろいろと理由をつけてきたが、そのどれでもないことにはもう気づいている。

写真を撮ること自体に行き詰まっている。そういう時期がある。

面白い写真とは何か

SNSを開けば、見事な写真が無限に流れてくる。構図の一ミリの違い、完璧な水平、計算されたライティング。プロの写真家たちは、自分たちの技術がいかに繊細で審美眼がいかに磨かれているかを語る。

それ自体は事実だろう。プロにはプロの技術と経験がある。

だが、私は別にルーブル美術館に飾るために写真を撮っているわけではない。誰かから報酬をもらっているわけでもない。私の写真に対する要求は、強いていうなら自分自身が課しているものだけであり、もっと正直にいえば、高い機材を買ってしまった罪悪感かもしれない。

問題はもっと素朴なところにある。日常が、平凡すぎるのだ。

北欧のような息を呑む景色があるわけでもなく、決定的瞬間を追いかけるジャーナリストでもなく、ごく普通の大学生活を送っている。見返すと花や空ばかり撮っていて、SNSで共有しようと思える写真がほとんどない。個人情報と結びつきにくい被写体を無意識に選んでしまうというのもある。

日常に美が潜んでいるということは、頭ではわかっている。だが、それを撮るのが途方もなく難しい。ウィリアム・エグルストンの写真を見ると、日常がこんなにも力を持ちうるのかと驚くが、同時に、あの写真が成立するのはアメリカ南部という場所と時代の文脈があってこそだとも思う。自分の日常をそのまま撮ったところで、ただの退屈な記録にしかならないのではないか。

記録することの価値

だが、ここで少し立ち止まって考えてみたい。

退屈な記録にしかならない、と書いた。本当にそうだろうか。

何年も前の写真が一枚、ふと出てきたとする。数年前の自分の部屋の配置。机の上に置いてあったもの。あの頃のルーティンの一部だった、当たり前の風景。それらはいつの日にか確実になくなってしまう。すでになくなっているものもあるだろう。

2400万画素で記録されたその一枚には、あなたの記憶力がどれほど優れていても再現できない情報が詰まっている。それは「面白い写真」でも「美しい写真」でもないかもしれない。だが、数年後、数十年後に、その一枚が持つ力は、撮った瞬間には想像もできなかったものになりうる。

写真の価値は、撮った瞬間に確定するとは限らない。

もちろん、代わり映えしない自室を連写モードで10万枚撮ることに意味があるとは思わない。シャッターの寿命が縮むだけだ。そうではなくて、散歩の途中で「おっ」と思ったものをパチリと撮っておく。通学路の景色を、季節が変わるたびに一枚残しておく。その程度のことでいい。

日常を撮れという言葉が圧力になるなら、旅行のときだけでもいいかもしれない。非日常だけを撮るのだって立派な写真との付き合い方だ。だが、それでもやはり、日常の記録には特別な意味があると思うのだ。

なぜなら、非日常が非日常として成立するのは、その前に日常があるからだ。日常の蓄積がなければ、何が特別で何が当たり前かという感覚そのものが存在しない。だからこそ、日常を撮ることには意味がある。

写真の物質性

ここでもうひとつ、声を大にして言いたいことがある。

写真をプリントしてほしい。

別に大げさな暗室を構えてプリントしろとか、馬鹿でかい紙に印刷して壁に飾れとか、そういうことではない。近所のプリントサービスで、月に一枚、お気に入りの写真をプリントする。それだけのことだ。コストだって大したことはない。

フィルム写真の魅力について、その独特の色味やグレイン(粒状感)が語られることが多い。もちろんそれも魅力のひとつだろう。だが、フィルムの本質的な面白さは、それが物質であるということにあると思っている。

デジタルの写真はデータだ。スマホのアルバムアプリを開けばいつでも見られるし、それはそれで便利で楽しい。だが、何かの拍子に床にぱらりと落ちた一枚の写真を拾い上げたとき、あるいは押し入れの奥から何年も忘れられていたアルバムを開いたとき、そこに生まれる感情は、画面をスクロールするだけでは得られないものだ。

物質としての写真には、偶然の出会いがある。意図せず目に入る。手に触れる。それが記憶を呼び覚ます力になる。

だから、撮った写真をプリントして、日記に挟む。手帳に入れておく。壁に貼ってもいい。デジタルのアーカイブは便利だが、物質としての写真がもたらす体験は、それとはまったく別のものだ。

何で撮ったっていい

ついでにもうひとつ言っておきたい。

RAWで撮ろうが撮って出しJPEGだろうが、派手な画像加工だろうが、スマホのフィルターだろうが、高価なプリセットだろうが、自作のプリセットだろうが、光学フィルターだろうが、何でもいい。

フルサイズだろうがマイクロフォーサーズだろうが、一億画素だろうが1200万画素だろうが、どうだっていい。

一枚にとんでもない労力をかけた写真も、どうでもいい拍子に撮れたのになんだか消していない写真も、等しくあなたの写真だ。

カメラについて詳しくなると、誰だって一度はPhase OneやLeicaやHasselbladで撮ってみたくなるものだ。高価なf/1.2のレンズで撮れば、それはそれは美しいボケが得られるのだろう。だが、写真の価値はそこで決まるわけではない。

やる気があるならこだわればいい。気分が乗らないなら適当でいい。好きにこだわって、好きに手を抜けばいい。なんてったってあなたの写真だ。あらゆるいい意味で、何をどう撮ったって、それがあなたの個性になる。

ピンボケも、構図の崩れも、手ぶれも、もちろん技術的に改善できるならした方がいい。だが、それは写真を撮るかどうかという判断とは別の次元の話だ。撮らないよりも、撮る方がいい。ほとんどの場合、それは間違いなく正しい。

SNSと日常

ここまで書いてきて、最初の問いに戻る。SNSで共有したくなるような写真が撮れない、という話だ。

考えてみれば、それは当然のことかもしれない。SNSとは本質的に非日常を共有する場だからだ。

あなたの写真はまずあなたのプライベートであって、共有はその後にくるものだ。誰かと分かち合いたいと心から思えるような特別な瞬間が訪れたときに、共有すればいい。日常の写真は、まず自分のために撮るものであって、いいねのために撮るものではない。

防湿庫からカメラを出そう。

別に傑作を撮らなくていい。誰かを感動させなくてもいい。今日の空でも、机の上の散らかりでも、帰り道の何でもない景色でも、何でもいいから一枚撮ってみる。それだけでいい。

もしかしたらその一枚を、何年か後のあなたが愛おしく思うかもしれない。あるいは思わないかもしれない。でも、撮らなければ、その可能性すら生まれない。

だからこそ、それでも日常を撮るのだ。

Read more

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu