本棚だけが豊かになり思考が動かないあなたへ

「年間100冊読んでいます」。この一文がプロフィールに書いてあると、なんとなく知的な人に見える。だが冷静に考えると、100冊読んだという事実は行動量の記述であって、知性の指標ではない。100キロ走った人が健康かどうかわからないのと同じだ。

「読む」と「使う」の断絶

読書が知性に接続されないのは、意志の問題ではない。「読む」と「使う」の間に構造的な断絶がある。

本を読んでいる最中、あなたの脳は活発に動いている。新しい概念を理解し、著者の論理を追い、時に感動する。だがその活発さは、本を閉じた瞬間に急速に減衰する。3日後、あなたは本の内容をほとんど覚えていない。1ヶ月後には、タイトルと「面白かった」という印象だけが残る。

これは記憶力の問題ではない。読書という行為の構造上、当然のことだ。本は著者の問いに対する著者の答えで構成されている。あなたは著者の思考を追体験しているだけで、自分の思考を動かしていない。他人の筋トレを見ているようなもので、見ているだけでは筋肉はつかない。

読書を「インプット」と呼ぶ問題

読書を「インプット」と呼ぶこと自体が誤解を生んでいる。

「インプット」という言葉には、「入れたものは蓄積される」という暗黙の前提がある。食事のように、食べれば栄養になる。だが読書はそうならない。読んだ内容は自動的に蓄積されない。記憶の仕組み上、使わなかった情報は消えていく。入れただけでは何も残らない。

それなのに「インプットが足りない」「もっとインプットしなければ」と焦る人がいる。足りないのはインプットではなく、インプットした情報を使う回路だ。

読書ノートの罠

「本の内容をメモしましょう」というアドバイスがある。読書ノート、ハイライト、要約。これらは読書を行動に接続する手段として広く勧められている。

だが、要約をメモしても行動には接続されない。なぜなら、要約は著者の言葉を短くしたものにすぎないからだ。著者の主張を3行にまとめたところで、それはあなたの思考ではない。きれいなノートが増えていく満足感はあるが、それは読書が行動に接続された証拠ではなく、「まとめる」という別の行動をしただけだ。

メモすべきは要約ではなく、問いだ。「この本を読んで、自分は何が気になったか」「著者の主張に対して、自分はどこに引っかかるか」。この引っかかりこそが、読書を自分の思考に接続する接点になる。

読書が行動に接続される3つのパターン

読書が実際に「使える」ものになるパターンは、少なくとも3つある。

問いを作る。 読んだ内容から、自分の問いを立てる。たとえば行動経済学の本を読んで「なぜ人は損失を過大評価するのか」と理解するのではなく、「自分の生活で、損失回避がどこに効いているか」と問いを変換する。著者の問いを自分の問いに翻訳する作業だ。これをやると、本の内容があなたの日常に侵入してくる。

反証を探す。 著者の主張に対して、反例を考える。「この本はこう言っているが、逆のケースはないか」と考えるだけでいい。反証を探す過程で、著者の論理の前提が見えてくる。前提が見えると、その主張がどこまで有効でどこから無効かがわかる。これは批判ではなく、理解の深化だ。

他領域に移植する。 本の内容を、全く別の文脈に適用する。経営学の本で読んだフレームワークを大学のサークル運営に適用する。進化生物学の概念を人間関係の分析に使う。文脈が変わると、概念の本質的な部分と文脈依存的な部分が見分けられるようになる。

この3つに共通するのは、本の内容を受動的に受け取るのではなく、能動的に加工していることだ。モーティマー・アドラーが『本を読む本』で述べた「能動的読書」とはまさにこのことだ。読書は受動的な消費ではなく、著者との対話であるべきだ、と。

消費としての読書と生産としての読書

ここで一つの区別を入れておきたい。すべての読書が行動に接続される必要はない。

小説を読んで感動する。エッセイを読んで笑う。漫画を読んでリラックスする。これらは消費としての読書であり、それ自体に価値がある。映画を観るのと同じで、行動に接続されなくても、体験として完結している。

問題が生じるのは、消費としての読書に「自己啓発」の期待を載せたときだ。「読めば賢くなる」「読めば成長する」という信仰が、読書を苦行に変える。そして苦行の見返りとして「年間100冊」という数字を誇示する。

冊数が指標になるのは、読書の中身を評価する基準がないからだ。何冊読んだかは数えられるが、何を考えたかは数えられない。計測可能な指標が目的化する。グッドハートの法則そのものだ。

読書は趣味でいい

「読書で賢くなる」という信仰には、教養主義の残滓がある。「良い本を読めば良い人間になる」という、近代以降の教養概念の名残だ。

だが現実には、読書は賢さへの近道ではない。賢さへの近道など、そもそもない。読書は素材を提供するだけで、その素材を使って考える作業は、読書とは別の行為だ。

読んだ本から問いを立て、反証を探し、他領域に移植する。この作業をやるかどうかが、読書が行動に接続されるかどうかを決める。そしてこの作業は、正直に言って面倒だ。本を読むだけのほうがずっと楽だし、楽しい。

だから、読書は趣味として楽しめばいい。賢くなるための手段として読書を位置づけると、読む楽しさも失われるし、賢くもならない。どちらも手に入らない。

ただし、もし本を読んで「何か引っかかる」ことがあったら、その引っかかりだけは書き留めておくといい。要約ではなく、引っかかり。それが、読書があなた自身の思考に接続される、ほとんど唯一の入り口だ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu