努力できない仕組みの分析

「努力が足りない」と言われて、反論できなかった経験が、たぶん誰にでもある。

課題を出さなかった。締め切りを守れなかった。やると決めたことが三日で終わった。そのたびに自分を責めた。意志が弱い。根性がない。甘えている。そうやって自分を責めることで、次こそは、と思う。そして次もまた同じことが起きる。

もし「努力できない」が意志の問題なら、意志の強い人間は存在するのだろうか。それとも、ただ仕組みが違うだけなのか。

脳は未来を割り引く

行動経済学に「現在バイアス」という概念がある。人間は、将来の大きな報酬よりも、目の前の小さな報酬を好む傾向がある。1年後の15万円より、今日の10万円。来月の高評価より、今夜の動画視聴。

これは意志の弱さではなく、脳の報酬系がそう設計されているからだ。進化的に見れば、不確実な未来の報酬より確実な現在の報酬を選ぶことは、生存戦略として合理的だった。明日生きているかどうかわからない環境では、今食べることが正解だった。

問題は、現代社会の報酬構造が、この脳の設計とまるで噛み合っていないことだ。勉強の成果が出るのは数ヶ月後。キャリアが形になるのは数年後。報酬が遅延すればするほど、脳はそれを「割に合わない」と判断する。

あなたが怠けているのではない。あなたの脳が、まっとうに損得計算をした結果、今この瞬間の快楽を選んでいるのだ。

環境という見えない壁

もうひとつ、努力できない原因として見落とされがちなのが、環境設計の問題だ。

「努力できる人」と「努力できない人」の差は、しばしば意志力の差として語られる。だが実際には、環境の差であることが多い。勉強机が散らかっている。スマートフォンが手の届くところにある。部屋が寒い。あるいは暑い。周囲に同じ目標を持つ人がいない。フィードバックが返ってこない。

これらはすべて、努力の「摩擦」として機能する。摩擦が大きければ、どんなに意志が強くても行動は鈍る。逆に摩擦が小さければ、意志の力を借りなくても行動は起きる。

ゲームがわかりやすい例だ。ゲームの経験値システムは、行動と報酬の間の距離を極限まで縮めている。敵を倒せば数値が上がる。レベルが上がれば新しい能力が手に入る。進捗は常に可視化されている。「いつか」は来ないのが現実だとしても、ゲームの中では「いつか」が確実に来る。だから何時間でも没頭できる。

それは「ゲームが楽しいから」ではなく、「ゲームの報酬構造が脳の設計と一致しているから」だ。

努力信仰の暴力

この社会には、努力を美徳とする根深い信仰がある。「努力は報われる」、「石の上にも三年」、「やればできる」。これらの言葉は、努力できる人間にとっては励ましになる。だが、努力できない人間にとっては、それは糾弾だ。

努力が報われるなら、報われていない自分は努力していないことになる。努力していない自分は、怠惰で、甘えていて、価値がないことになる。

誰も何も選んでいないのだとすれば、努力「する」・「しない」もまた、選択の結果ではないのかもしれない。環境と脳の構造と報酬のタイミングが組み合わさった結果として、たまたま「努力しているように見える行動」が出力されているだけなのかもしれない。

努力できないことを責めるのは、背の低い人間に「もっと伸びろ」と言うようなものだ。構造の問題を意志の問題にすり替えているだけだ。

テクニックを知っていてもできない理由

「習慣化」のテクニックは世の中に溢れている。ポモドーロ・テクニック、if-thenプランニング、習慣スタッキング。どれも一理ある。だが、問題はそこではない。

テクニックを知っていてもできないのは、テクニックを実行すること自体が努力を要求するからだ。「毎朝5時に起きてランニングする」ための習慣化テクニックを実行するには、まず「毎朝5時に起きてテクニックを実行する」という努力が必要になる。これは無限後退だ。

努力できないことへの処方箋が努力を前提としている。この構造に気づいたとき、人はもう一段深い無力感に沈む。

永遠の素振りのように、手段が目的化する逆説もある。習慣化のテクニックを調べること自体が、実際の行動の代替物になってしまう。準備し続けることで、本番を永遠に先延ばしにする。

何もしなかった日の重さ

結局のところ、努力できないという状態は、意志でも性格でもなく、人間という生き物の設計と、現代社会の要求との構造的な不一致から生まれている。

それがわかったところで、何も解決しない。

明日もまた、やるべきことを前にして動けない自分がいるだろう。理由がわかっても、構造が変わるわけではない。何も起きなかった日が積み重なっていく。あなたが怠惰だからではなく、世界がそうできているからだ。

それでも、明日の自分に「もうちょっとがんばれ」と言ってしまうのだろう。その言葉が何の役にも立たないと知りながら。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu