あなたには何も見えていない

2015年、一枚のドレスの写真がインターネットを二つに割った。

ある人には白と金に見える。別の人には青と黒に見える。同じ写真、同じピクセル、同じ光。それなのに見えている色が違う。NYUの神経科学者パスカル・ワリッシュは13,000人以上を調査し、この食い違いがドレスを照らす光源について脳が無意識に行う仮定の違いに起因することを示した。自然光の下にあると仮定した脳は青みを差し引いて白と金を見る。人工光の下にあると仮定した脳は黄みを差し引いて青と黒を見る。

どちらの脳も、自分の仕事を忠実にこなしている。どちらも間違っていない。そして、どちらの目の持ち主も、自分が見ている色こそ「本当の色」だと確信していた。

この話はSNSの一過性の騒ぎで終わった。でも、よく考えると、あれ、なんか変だ。

赤の中には何もない

あなたが見ている赤は、網膜の錐体細胞が特定の波長の光に反応し、その信号が視神経を経由して脳の視覚野で処理された結果、あなたの内部にだけ生じる現象だ。物体の側には波長がある。色はない。

哲学はこの内側の体験を「クオリア」と呼ぶ。ラテン語のqualis(どのような)に由来するこの語は、主観的体験が持つ質感そのものを指す。赤の赤さ。痛みの痛さ。コーヒーの苦み。それを体験しているとはどのようなことか、という、科学の言葉では掬い取れない何かのことだ。赤についてのあらゆる物理的事実を知り尽くしても、赤を見たことがなければ何かが足りない

ここに一つ、居心地の悪い問いがある。あなたが見ている「赤」と、隣の人が見ている「赤」は、同じだろうか。

同じ波長の光が二人の網膜に届いている。二人とも「赤」と呼ぶ。信号が変わったら二人とも止まる。行動のレベルでは完璧に一致している。しかし、二人の内側で立ち上がっている体験そのものが同じかどうかを確認する方法は、ない。原理的に、ない。

あなたの赤を取り出して誰かに見せることはできない。言葉は共有された記号であって、記号が指し示す体験そのものではない。「赤」という音の並びを聞いて二人が頭の中に見ているものが同じかどうか、永久にわからないまま、二人は「赤いね」と頷き合う。

世界は最初から欠けている

人間の目が拾える光は、電磁波スペクトルのおよそ380nmから780nmの範囲にすぎない。宇宙に飛び交う電磁波の全体から見れば、極めて狭い窓だ。紫外線も赤外線も、X線も電波も、存在している。見えていないだけで。もっとも、知覚されていないものが本当に「存在している」と言えるのかは、それ自体がひとつの問いではある。

モンハナシャコは16種類の光受容体を持つとされる。人間は3種類。蜜蜂は紫外線を見る。多くの蛇は赤外線で獲物の体温を感知する。それぞれの生物が、それぞれの窓から、まったく異なる断面の世界を覗いている。

ジョン・ロックは1690年の『人間知性論』で、物の性質を二つに区別した。第一性質は、形、大きさ、数、運動のように、知覚する者がいなくても物そのものに備わる性質。第二性質は、色、音、味、匂いのように、物の側の力と知覚者の感覚器官との相互作用によって生じる性質だ。ロックに従えば、赤いリンゴの「赤さ」はリンゴの中にはない。リンゴの表面が特定の波長の光を反射し、それを受け取った人間の目と脳が「赤」という体験を組み上げている。色は物にではなく、見る者の側にある。

これは17世紀の議論だが、現代の色覚研究はロックの直観をむしろ裏付けている。色覚特性には個人差があり、同じリンゴが異なる人には異なる色に見えうる。「正常な色覚」という言葉は、多数派の統計分布を指しているにすぎない。

あなたが「現実」と呼んでいるものは、あなたの感覚器官がたまたま拾えた断片を、あなたの脳がたまたま持っている回路で組み立てた模型だ。模型の外には、あなたが生涯知ることのない何かがある。あるいは、ないかもしれない。確かめる方法がない

コウモリになれない理由

トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、この問題に一つの楔を打ち込んだ。

コウモリは超音波を発し、その反響で周囲の空間を知覚する。いわゆる反響定位(エコーロケーション)だ。人間にはこの感覚がない。私たちはコウモリのように翼を広げて暗闇を飛ぶ想像はできる。しかしそれはあくまで「人間がコウモリの真似をしたらどうなるか」の想像であって、「コウモリにとってコウモリであるとはどのようなことか」ではない、とネーゲルは言う。

意識には主観的な性格がある。ある生物が意識を持つとは、その生物にとって「何かであるようなこと」が存在する、ということだ。そしてその主観的な性格には、第三者の視点からは原理的にアクセスできない。

科学がコウモリの脳を完全にマッピングする日が来るかもしれない。どのニューロンがいつ発火し、どの信号がどこを通るか、すべて記述できるようになるかもしれない。けれどその記述の中に、「コウモリであるとはどのようなことか」への答えは含まれない。客観的な記述は、主観的な体験を写し取ることができない。

そしてこれは、対象がコウモリだから難しいのではない。今あなたの隣に座っている人についても、まったく同じ壁が立っている。その人が痛みを感じているとき、あなたに見えるのは、痛がっている表情と、測定できる脳活動だけだ。「その人にとって痛みとはどのようなものか」には、どう足掻いても手が届かない。

あなたは生涯、他者の内側に入ることができない

科学が黙る場所

デイヴィッド・チャーマーズは1995年、この問題の核心に名前を与えた。「意識のハード・プロブレム」。

脳がどのように情報を処理し、刺激に反応し、行動を制御するか。これらは原理的に解明可能な問題であり、チャーマーズは「イージー・プロブレム」と呼んだ。簡単という意味ではなく、方法論の見通しが立つという意味だ。しかし、なぜこうした物理的プロセスに主観的な体験が伴うのか。なぜ脳の中の電気信号が「何かを感じている」ことを生み出すのか。これがハード・プロブレムだ。

イージー・プロブレムが「この機械はどう動いているか」なら、ハード・プロブレムは「なぜこの機械には内側があるのか」を問うている。

この問いに対する合意された答えは、今のところ存在しない。物理主義者は、主観的体験もいずれ物理的プロセスで説明されるとみる。性質二元論者は、物理的なものの記述だけでは意識を汲み尽くせないと考える。汎心論者は、意識を物質の根本的な性質として位置づけようとする。どの立場も決定的な証拠を持たず、どの直観もどこかで躓く。

科学は世界を記述するために人間が作り上げた、最も強力な道具だ。しかしその道具は、記述している主体そのものを説明しようとするとき、ひどく不安定になる。

正しい感覚などない

同じ音楽を聴いて泣く人と、何も感じない人がいる。どちらの体験が「正しい」のか。

問おうとして気づく。「正しい体験」という言葉が、そもそも意味をなしていない。体験には正誤がない。体験は、ただ、ある。

痛みについて考えてみる。同じ程度の物理的刺激に対して、痛みの感じ方は人によって大きく異なる。遺伝的な差異、神経系の状態、過去の経験、心理的な文脈。すべてが痛みの質感を形作る。「客観的な痛み」は存在しない。痛みは常に誰かの痛みであり、その誰かの内側にしかない。

味覚にしても同じだ。パクチーを石鹸のように感じる人がいる。これはOR6A2という嗅覚受容体遺伝子の変異と関連があることが報告されている。パクチーが好きな人と嫌いな人、どちらが「本当の味」を知っているのか。どちらも自分の身体を通じた本当の味を体験している。ただし、その「本当」は、それぞれの身体の内側にしか存在しない。

好きだった食べ物が、ある日突然おいしくなくなる。体調、加齢、記憶の連想。味は舌の上にあるのか、脳の中にあるのか、それとも、そのどちらでもない曖昧な場所を漂っているのか。「好き」という感覚の住所を、誰も特定できない。

あなたの体験はあなただけのものだ。それが世界そのものと一致しているという保証は、どこにもない。

同じ部屋にいたことがない

ここまでの話を並べると、一つの像が浮かんでくる。

あなたは自分の知覚が作り出した世界の模型の中にいる。模型の外に出ることはできない。他者の模型を覗くこともできない。自分の模型が正確かどうかを検証することすらできない。検証するには模型の外側に立つ必要があるが、あなたが世界を認識する手段はすべて、模型の内側に閉じている。

ネーゲルは他者の主観に触れられないことを示した。ロックは知覚の多くが世界そのものではなく知覚者の側に属することを示した。チャーマーズは、なぜ主観的体験が存在するのかすらわからないという事実に、名前を与えた。

同じ部屋に二人の人間が座っている。同じ照明の下で、同じ音楽が流れている。しかし二人が体験している「部屋」は同じではない。光の色合い、音の響き、椅子の硬さの感じ方。すべてがそれぞれの身体と脳のフィルターを通過した、別々の現実だ。

「この曲いいね」「うん、いいね」。合意は成立する。しかしその合意の内側で二人が何を感じているかは、永遠にわからない。言葉は体験を運ばない。言葉は体験に貼ったラベルを運ぶだけだ。そして言葉の届かない場所には、世界そのものが届いていない。ラベルの向こう側に何があるかは、本人にしか見えない。

あなたは、あなたの知覚の中に閉じ込められている。生まれてから死ぬまで。一度も外に出ることなく。

そして、もしこの文章を読んで何かを感じたとしても、あなたが今感じているそれを、書いた人間は知ることができない。あなたが見ている画面の白と、こちら側の白が同じ色かどうかさえ、わからないのだから。

誰かと「わかり合えた」と思った夜のことを、思い出してみてほしい。

本当にわかり合えていただろうか。確かめる方法が、あっただろうか。

たぶん、なかった。たぶん、これからも、ない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu