聞いただけの美しさを抱いて眠った

「この映画は傑作だ」と、あなたが信頼する人間が言った。あなたはそれを信じた。でも、あなたはまだ観ていない。

信じたことと、観て震えたことは、同じだろうか。

たぶん違う。でも、何が違うのかを説明しようとすると、言葉が足りなくなる。足りないのは言葉だけではないのかもしれない。

「傑作だ」と言われた

「水はH₂Oである」と教えられて信じること。これには何の問題もない。自分で確かめなくても、証言による知識は十分に機能する。化学の教科書に書かれていることを、全員が実験室で再現する必要はない。

ところが、「あの映画は傑作だ」と教えられて信じることには、どこか奇妙な引っかかりがある。

この引っかかりについて、哲学者たちは驚くほど長いあいだ議論してきた。美的証言(aesthetic testimony)をめぐる論争だ。

2007年にロバート・ホプキンスが「悲観主義(pessimism)」と「楽観主義(optimism)」という用語で整理したこの問題の核心は、見かけ上は単純に見える。科学的事実は証言で伝達できるのに、なぜ美的判断は証言だけでは不十分に感じられるのか。

悲観主義者はこう主張する。美的判断は、証言に基づいて正当に形成することができない。「良い映画だ」と信頼できる人に言われて「良い映画だ」と信じたとしても、その信念は何かが欠けている。正当化されていないというよりも、そもそも美的判断として成立していない。

楽観主義者はこう返す。条件さえ整えば、美的証言によって知識を得ることは十分に可能だ。科学的証言と美的証言のあいだに、原理的な壁はない。

どちらが正しいかは、ここでは問わない。問いたいのは、なぜこの議論がそもそも成立してしまうのか、ということだ。科学の領域では「証言を信じるべきか」という議論はほとんど起きない。美的領域でだけ、この問いが繰り返し噴出する。何かが根本的に違う。

部屋を出たメアリーが見たもの

1982年、フランク・ジャクソンがひとつの思考実験を発表した。メアリーの部屋。白黒の部屋で育った天才科学者メアリーは、色覚に関するあらゆる物理的事実を知り尽くしている。波長、神経発火のパターン、人が「赤い」と口にするまでの因果連鎖。すべてを。ただし彼女は、色を一度も見たことがない。

メアリーが部屋を出て初めて赤いトマトを見たとき、彼女は何か新しいことを学ぶだろうか。

赤を知らないし、何もわからない。で詳しく書いたこの思考実験は、知識と経験のあいだに還元不可能な隙間があることを示唆する。美的証言のパラドックスも、まったく同じ構造をしている。

映画について批評家が語れるすべてを聞いたとしよう。ストーリーの構造、撮影技法、俳優の演技の質、音楽の使い方、文化的な位置づけ。命題的知識としては完璧だ。でも、あなたはまだ観ていない。観たとき、何か新しいものが生まれる。それは情報の追加ではない。種類の異なる何かだ。

メアリーが赤を「知っていた」のに赤を「知らなかった」ように、あなたは映画を「知っている」のに映画を「知らない」。知識の量が問題なのではない。知識の種類が違う。

伝達できないもの

なぜ美的領域だけが、証言による知識の伝達に抵抗するのか。

ひとつの答えは、クオリアにある。

あなたには何も見えていないで論じたように、主観的体験が持つ質感、赤の赤さ、痛みの痛さ、コーヒーの苦みといった「それを体験しているとはどのようなことか」は、原理的に他者に伝達できない。

「この曲は美しい」という判断は、その曲を聴いたときの質的経験に根ざしている。旋律が身体を通過していくあの感覚。胸が締めつけられるあの瞬間。それらは、言葉では掬い取れない。証言が運べるのは命題的な内容だけだ。「美しい」という述語。「傑作だ」という評価。しかし、その評価を支えている経験の質感そのものは、言葉のコンテナに入らない。

2022年、アリソン・ヒルズは論文 "Aesthetic testimony, understanding and virtue" のなかで、この問題を別の角度から照射した。美的判断が証言に基づいてはならないのは、美的理解(aesthetic understanding)が美的徳(aesthetic virtue)の不可欠な要素だからだ、と。理想的な美的判断は、証言ではなく美的理解に基づいてなされるべきものであり、その理解は一人称の経験なしには形成されない。

つまり、証言は美的判断の「正解」を教えてくれるかもしれない。でも、正解を知っていることと、その正解に至る理解を持っていることは、別の話だ。カンニングで百点を取った生徒は、正解を知っているが理解はしていない。美的証言は、ある種のカンニングペーパーのようなものかもしれない。

批評は何をしているのか

では、美的証言が不完全なものだとして、批評は何のために存在するのか。

ここでひとつの転回がある。批評は美的経験を「伝達」しているのではない。「準備」しているのだ。

批評を読んでから映画を観ると、読まずに観た場合とは異なる経験が生まれることがある。美術館で何を見ればいいか分からない理由で触れたように、作品の背景、技法、歴史的文脈についての知識は、鑑賞体験を「代替」するのではなく「変容」させる。音声ガイドを聞いてから絵を見ると、聞く前とは異なるものが目に映る。情報が知覚を組み替える。

音声ガイドは、あなたの代わりに感動することはできない。でも、あなたが感動する準備を整えることはできる。批評もおそらく同じだ。批評家の言葉は、あなたの経験の代替品ではなく、あなたの経験を耕す鋤のようなものだろう。

ただし、ここには別の問題が潜んでいる。

批評が経験を「変容」させるなら、あなたの経験はもう純粋にあなただけのものではない。他者の言葉によって耕された土壌から生まれた感動は、他者の言葉がなければ生まれなかった感動だ。あなたの美的経験は、どこまでがあなた自身のもので、どこからが借り物なのか。

その線を引くことは、「主観でしょ」という沈黙の刃で論じた問いと地続きだろう。主観的経験の中にも構造と層がある。そしてその構造は、他者の言葉によって絶えず組み替えられている。

スコアで測る感動

SNSの時代、美的判断はどうなっているか。レビューサイトのスコア。いいねの数。リツイートの回数。「みんなが良いと言っているから良い」。これは美的証言のパラドックスが大規模に実現した風景かもしれない。

一人の信頼できる批評家の言葉を信じることと、一万人の匿名レビュアーの平均点を信じることのあいだに、本質的な違いはあるのか。あるとすれば、それは何か。

いいねの海に沈めなかった眼で書いたように、数値化された評価は美的判断を統計的な集計に置き換える。そこでは個人の一人称的な美的経験が、三人称的な集合知に圧倒される。「自分の目で見て判断する」という行為のコストは、レビュースコアをチェックするコストに比べて途方もなく高い。そしてコストの高い行為は、いずれ淘汰される傾向にある。

グッドハートの法則がここでも顔を出す。「良い映画は高い評価を得る」という相関が観測されると、やがて「高い評価を得ている映画が良い映画だ」という転倒が起きる。評価が美的経験の指標であったものが、いつの間にか美的経験の代替品になる。4.5点の映画を観に行くのは、4.5点という情報に自分の経験を合わせに行くことなのかもしれない。

「人それぞれ」が静かに殺すもので論じたように、すべてが等価だと宣言した瞬間、判断そのものが意味を失う。しかしスコアの世界はその反対の問題を抱えている。すべてが序列化された瞬間、一人称の判断が居場所を失う。等価も序列も、美的経験にとっては同じくらい致命的かもしれない。

おいしいと言われたレストラン

「このレストランは美味しい」と言われて行くことには、ほとんど抵抗がない。「おすすめされたから行ってみた」は日常の自然な行為だ。しかし「この映画は傑作だ」と言われて「傑作だ」と信じることには、どこか引っかかりがある。

味覚的判断も美的判断も、クオリアに基づいているという点では同じ構造を持つ。「美味しい」という判断は、舌の上で起きている質的経験に根ざしている。その経験は他者には伝達できない。にもかかわらず、味覚の証言については美的証言ほどの抵抗感がない。

なぜだろうか。

ひとつの仮説は、美的判断が「自己」と深く結びついているからだ、というものだ。何を美しいと感じるかは、あなたがどういう人間であるかの表明でもある。映画の趣味、音楽の好み、絵画への感性。それらは自己のアイデンティティの一部を構成している。だからこそ、他者の判断を借りることに抵抗がある。それは自己の一部を他者に明け渡すことに等しいから。

一方、何を美味しいと感じるかは、アイデンティティとの結びつきが相対的に弱い。もちろんゼロではない。「ワイン通」であることがアイデンティティの人もいる。しかし一般的に、「あの人はラーメンが好き」という情報は、「あの人はタルコフスキーが好き」という情報ほどには、その人の内面を語らない。

だとすると、美的証言の問題は、知識の問題であると同時に、自己の問題でもある。他者の証言に基づいて美的判断を形成することへの抵抗は、知識の不完全さへの不満であると同時に、自己の希薄化への恐怖でもあるのかもしれない。

借り物の感動

映画のネタバレが「映画体験を台無しにする」と感じるとき、私たちは暗黙のうちに認めている。映画の価値はストーリーの情報に還元されない、と。情報と経験は同じものではない。

書評で「この小説は人生を変える」と書かれていても、読む前にはその意味がわからない。読んだ後に初めて、書評の言葉が意味を持ち始める。理解は経験の後にしか来ない。しかし経験は、理解なしには同じ深さに達しない。

批評は経験を準備する。経験は批評を理解させる。そしてそのどちらも、隣の人の内側で起きていることについては、何も教えてくれない。あなたが涙を流した映画のあの場面で、隣の席の人間が何を感じていたかは、永遠にわからない。そこにいなかった人たちで書いたように、他者の経験は記録されたとしても、あのどうしようもない隙間を抱えたまま漂い続ける。

美しいと聞いた。信じた。でもまだ、何も見ていない。

そしてたぶん、見たあとでも、あなたが見たものを誰かに渡すことはできない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu