宿題にAIを使ったのはばれますか
はい、ばれる。
これで終わりにしてもいいのだが、もう少しだけ続ける。なぜばれるのか。どうばれるのか。そしてばれた先に何があるのか。
なぜばれるのか
AIが生成した文章には、いくつかの特徴がある。読み慣れた人間には、それが透けて見える。
まず、文体の均一性だ。人間が書く文章には癖がある。語彙の偏り、接続詞の選び方、句読点の打ち方。同じ人間でも、文章の前半と後半で調子が微妙に変わる。考えがまとまっている部分は流暢になり、自信のない部分はぎこちなくなる。そのムラこそが「その人が書いた」証拠だ。
AIの文章にはこのムラがない。最初から最後まで同じトーンで、同じ精度で、同じリズムで書かれている。一見すると「上手い文章」に見えるが、実際には「誰の文章でもない文章」だ。読み手はそこに人間の思考の痕跡を見つけられず、違和感を覚える。
次に、具体性の欠如だ。AIは一般論を生成するのが得意だが、特定の文脈に根ざした具体的な観察を持っていない。「この講義で扱われた議論」、「先週の発表で指摘された論点」といった、その場にいた人間にしか書けない記述が、AI生成文にはない。抽象的に正しいことが並んでいるのに、地に足がついていない。その浮遊感が、読む側にはわかる。
そして、論理展開の整いすぎだ。人間のレポートには、論理の飛躍や回り道がある。それは未熟さの表れでもあるが、同時に「考えながら書いた」痕跡でもある。AIの文章は最短経路で結論にたどり着く。効率的ではあるが、思考のプロセスが見えない。
読む側の視点
レポートを読む教員は、その科目の専門家だ。そして同時に、何十人、何百人ぶんのレポートを毎学期読んでいる。
同じテーマについて大量のレポートを読んでいると、似たような構成、似たような言い回しが出てきたときに気づく。AIに同じ問いを投げれば、似たような回答が返ってくる。ひとりの学生がAIを使えば気づかれないかもしれないが、複数の学生が同じことをすれば、類似性が際立つ。
加えて、教員はその学生の普段の発言や文章を知っている。授業中の応答やディスカッションでの振る舞いと、レポートの文章力が著しく乖離していれば、疑問を持たれる。普段の語彙力からは出てこないような表現が突然現れれば、違和感は決定的になる。
AI検出ツールの存在にも触れておく。完璧ではないが、AI生成テキストを判定するツールは存在し、教育機関での導入は進んでいる。ツール単体での判定精度には限界があるものの、教員の直感とツールの結果が組み合わされば、確度は上がる。
ばれた先にあるもの
多くの大学では、学則や履修規程の中に不正行為に関する規定がある。AIを利用したレポート作成が不正行為にあたるかどうかの明文規定は大学によって異なるが、「自分の力で作成していないレポート」を自分のものとして提出する行為は、剽窃の一形態として扱われうる。
処分の内容も大学によるが、一般的には当該科目の不合格から、重い場合には停学に至ることもある。大学生がレポートでどう引用すればいいか迷ったらで書いたように、他者の文章を出典なしに使うことが剽窃にあたるのと同じ構造だ。AIが生成した文章を、自分が書いたものとして提出すれば、それは「出典を示さない引用」と同じ問題を抱える。
使うことと丸投げすることは違う
ここで誤解を避けておきたい。AIを使うこと自体が悪いわけではない。
調べものの入口としてAIに質問する。アイデアの壁打ち相手として使う。自分が書いた文章の推敲に使う。こうした使い方は、道具としてのAIの妥当な活用だ。
問題は丸投げだ。問いを投げて、返ってきた文章をそのまま提出する。考える過程を省略し、出力だけを自分のものとして差し出す。この行為が問題なのは、不正行為に該当するからだけではない。
AIの文章に価値はあるかで書いたことと重なるが、書くことの価値は完成したテキストだけにあるのではない。書く過程で思考が整理され、自分が何をわかっていて何をわかっていないかが明らかになる。その過程をAIに委ねるということは、学びそのものを手放すということだ。
レポートは考える訓練だ
大学生、初めてのレポートで書いたように、レポートとは問いに対して根拠を示しながら答える文書であり、高校までの感想文とはまったく別の技術が求められる。
その技術は、自分で書くことでしか身につかない。AIが代わりに書いてくれたレポートは、見た目には完成品に見えるかもしれない。しかしそこに、自分の思考は一文字も含まれていない。
大学の課題は、成績をつけるためだけにあるのではない。考える力を鍛える場だ。その場を自ら放棄して、何を得ようというのか。
まとめ
宿題にAIを使ったのはばれるか。ばれる。
文体の均一性、具体性の欠如、論理の整いすぎ。読む側には見える。そしてばれた場合の処分は、割に合わない。
AIは道具として使えばいい。ただし、考える部分を丸投げした瞬間、それは道具の使用ではなく、学びの放棄だ。