論理が未来を一本の線に縛る

明日、海戦は起こるか。

2300年以上前にアリストテレスがこの問いを立てた。答えは出ていない。出ないのではなく、出せない。「起こる」と答えれば未来は決定済みになる。「起こらない」と答えれば海戦は不可能になる。「どちらでもない」と答えれば、論理学の土台が割れる。

あなたは明日の予定を手帳に書き込む。アラームを設定する。友人と約束する。そのすべては、未来が開かれているという暗黙の前提の上に成り立っている。しかしその前提を論理の言葉で正当化しようとした瞬間、足元から地面が消える。

アリストテレスの罠

『命題論(De Interpretatione)』第9章。アリストテレスはここで、すべての命題は真か偽かのどちらかであるという原則、いわゆる二値原理(principle of bivalence)を未来の偶然的事象に適用したとき何が起こるかを問うた。

論理はこう要求する。「明日、海戦が起こる」という命題は、今この瞬間、真か偽かのどちらかである。もし真なら、海戦は必然的に起こる。もし偽なら、海戦は必然的に起こらない。どちらの場合も、未来はすでに確定している。偶然など存在しない。

これは「論理的決定論」あるいは「論理的宿命論」と呼ばれる立場だ。物理法則が未来を決めるのではない。因果関係が未来を決めるのでもない。論理そのものが、未来を一本の線に縛りつけてしまう。

アリストテレス自身はこの帰結を拒んだ。彼は、未来の偶然的事象に関する命題については二値原理の適用を保留すべきだと考えた(とされている。ただし、彼が正確に何を主張したかについては2300年経った今も合意がない)。排中律、つまり「海戦は起こるか、起こらないか」という選言そのものは成り立つ。しかし各選言肢がそれぞれ確定的に真であったり偽であったりするわけではない。

この区別がどれほど微妙で、どれほど危ういかは、後の歴史が証明している。

三つ目の値

1920年、ポーランドの論理学者ヤン・ルカシェヴィチ(Jan Łukasiewicz)は、アリストテレスの問題に形式的な回答を試みた。真と偽に加えて第三の値「未定(indeterminate)」を導入する三値論理の体系を構築したのだ。

未来の偶然的事象に関する命題は、真でも偽でもなく「未定」である。排中律の崩壊のように見えるが、ルカシェヴィチの体系では排中律は特殊な形で保持される。「Pまたは非P」は常に真だが、Pと非Pのそれぞれは未定でありうる。

きわめてエレガントだ。しかし代価は高い。古典論理の推論規則の一部が使えなくなる。二重否定の除去、対偶法、背理法。日常的な推論の道具が、三値の世界では信頼できなくなる。未来を救おうとして、現在の論理を傷つけた。

そしてもっと根本的な問題がある。「未定」とは何なのか。真でも偽でもない状態とは、世界の側の性質なのか、私たちの認識の限界を言い換えているだけなのか。偶然はどこにもないで問うたように、偶然性そのものが存在論的に実在するのか、それとも単に無知の別名なのか。ルカシェヴィチの体系は、この問いに答えていない。体系の外側に追い出しただけだ。

時制のなかの真理

1950年代から60年代にかけて、ニュージーランド出身の論理学者A.N.プライアー(Arthur Norman Prior)は、時間を論理の内部に組み込むという別の道を開いた。時制論理(tense logic)と呼ばれる体系だ。

プライアーの着想はこうだ。「明日、海戦が起こる」は、今この瞬間に真でも偽でもない。しかしそれは、この命題が真理値を「持たない」からではなく、この命題が指す事態がまだ存在しないからだ。未来は現在とは存在論的に異なるカテゴリーに属する。過去の事実は確定している。現在の事実は確定している。しかし未来の事実は、文字どおり「まだない」。

これはチャールズ・サンダース・パースの形而上学に遡る発想で、プライアーはこれを「パースの直観」と呼んだ。未来は、現在から分岐する可能性の束として存在する。どの枝が実現するかは、まだ決まっていない。

近年、パトリック・トッドはこの立場をさらに推し進めた。彼の主張はこうだ。未来の偶然的事象に関する命題は体系的に「偽」である。「明日、海戦が起こる」は偽。「明日、海戦が起こらない」も偽。一見すると排中律の否定に見えるが、トッドはこれを排中律と整合させる。なぜなら「明日海戦が起こるか起こらないか」という選言は、そもそも排中律のインスタンスではないと彼は論じるからだ。

大胆な提案だが、直感に反する帰結を伴う。「明日、太陽は昇る」もまた、厳密には偽であることになる。

どの道を選んでも、何かが犠牲になる。論理を守れば未来が死に、未来を守れば論理が傷つく。何も確かではないという不安は、認識の表層ではなく、実在の根底から湧き上がってくるものなのかもしれない。

神は賭けに参加しているか

アリストテレスの問いは、中世に入って神学的な爆発力を帯びた。

全知の神は未来を知っている。未来を知っているということは、未来がすでに確定しているということだ。未来が確定しているなら、人間が何を選ぼうと、その選択はすでに知られている。つまり、自由意志は幻想だ。

6世紀、ボエティウスは『哲学の慰め(Consolatio Philosophiae)』において有名な解決を提示した。神は時間の外にいる。神は未来を「予知」しているのではない。永遠の現在から、すべての時間を一望している。あなたが通りを歩く人を高い塔から見下ろすとき、あなたはその人の行動を「知っている」が、その人の自由を制限していない。神の視点はそれと同じだ、と。

エレガントだが、問題を解消したとは言いがたい。「永遠の現在」とは何なのか。時間の外から時間を見るとはどういうことなのか。その比喩は、比喩以上のものになりうるのか。

20世紀後半から21世紀にかけて、「開放的有神論(open theism)」と呼ばれる神学的立場が登場した。この立場は、神も未来の偶然的事象については知らないと主張する。神の全知は完全だが、知るべき対象がまだ存在しないのだから、知らないことは全知の欠如ではない。未来に関する可能性を可能性として知っている。それが完全な知識のあり方だ、と。

全知の退屈で問うたように、すべてを知っている存在は、何に驚くのか。開放的有神論は、この退屈から神を救おうとする試みだとも読める。もっとも、「すべてを知るはずの存在が知らないことがある」という命題そのものが、信仰の体系にどれだけの亀裂を走らせるかは、また別の問いだ。

量子力学は味方か

20世紀の物理学は、決定論に対する強力な反証を提供したように見える。

量子力学における重ね合わせの状態。観測されるまで、粒子はスピン上向きでもスピン下向きでもない。ある確率で上向きであり、ある確率で下向きである。観測した瞬間に、状態が一つに確定する。

これはアリストテレスの「未定」に驚くほど似ている。物理的な世界そのものが、二値を拒んでいるように見える。

しかし、この類比は慎重に扱う必要がある。量子力学の不確定性は、特定の物理量の測定に関するものであり、命題の真理値に関する論理的な問題とは次元が異なる。量子力学が「未来は開かれている」と証明したわけではない。量子力学が示したのは、私たちが世界を記述するために使っている枠組みが、世界の側の構造と一致しているかどうかは自明ではないということだ。

そして仮に物理学が決定論を否定したとしても、それで自由意志が救われるわけでもない。ランダムな揺らぎは、自由な選択とは別のものだ。サイコロを振るのは自由意志の行使ではない。人生に筋書きはないという直感は、決定論の否定からは導けない。因果的に決まっていないことと、自分で決めることは、同じではない。

あなたの手帳は嘘をつく

ここまでの議論を、日常の出来事に落とし込もう。

明日の午前10時にプレゼンがある。準備する。スライドを作り、原稿を見直し、早めに寝ようとする。この一連の行動は、「明日のプレゼンは起こる」という命題が少なくとも蓋然的に真であるという前提に基づいている。

しかし厳密に言えば、明日のプレゼンが起こるかどうかは知りえない。知りえないにもかかわらず、準備する。準備するのは、未来が開かれているからだ。未来が確定していたら、準備する意味がない。しかし未来が完全に不確定なら、やはり準備する意味がない。

なおも自由という夢を見るように、私たちは自分の選択が何かを変えうるという感覚のなかで生きている。しかしその感覚を論理的に正当化しようとすると、アリストテレスと同じ袋小路に入り込む。選択が未来を変えうるなら、変わる前の未来とは何だったのか。選択が未来を変えられないなら、選択とは何なのか。

天気予報は「明日80%の確率で雨」と告げる。この文は真か偽か。確率的命題の真理値という問題に踏み込めば、話はさらに複雑になる。80%の雨という予報が「真」であるためには、何が起きればいいのか。雨が降れば真なのか。降らなくても予報の時点では真だったのか。確率は世界の側にあるのか、私たちの無知の度合いを表しているだけなのか。

論理が死んだ水曜日で描いたように、「来る」と知っているはずのものが、来たとき必ず驚きになる。論理は「来ない」と証明し、現実は予告どおりに到来する。開放的未来のパラドックスもまた、論理と現実の同じ亀裂の上に立っている。

海は静かだ

パラドックスは解かれていない。2300年と数え切れない論文を経ても、解かれる見込みもない。

二値原理を守れば決定論に陥る。三値論理を導入すれば古典的推論が崩壊する。時制論理で未来を「まだない」とすれば、明日への問いはすべて意味を失う。開放的有神論は神を救うために全知を切り落とす。量子力学は不確定性を差し出すが、それは自由ではなく偶然にすぎない。

どの出口にも壁がある。

それでもあなたは明日の予定を立てる。手帳に書く。アラームを設定する。論理が未来を語れないことを知らないまま、あるいは知っていても気にしないまま、明日に向かって準備を続ける。

アリストテレスの海戦は、まだ始まっていない。始まるかどうかもわからない。しかしあなたはもう、岸辺に立っている。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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