Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

生きること

努力できない仕組みの分析

「努力が足りない」と言われて、反論できなかった経験が、たぶん誰にでもある。 課題を出さなかった。締め切りを守れなかった。やると決めたことが三日で終わった。そのたびに自分を責めた。意志が弱い。根性がない。甘えている。そうやって自分を責めることで、次こそは、と思う。そして次もまた同じことが起きる。 もし「努力できない」が意志の問題なら、意志の強い人間は存在するのだろうか。それとも、ただ仕組みが違うだけなのか。 脳は未来を割り引く 行動経済学に「現在バイアス」という概念がある。人間は、将来の大きな報酬よりも、目の前の小さな報酬を好む傾向がある。1年後の15万円より、今日の10万円。来月の高評価より、今夜の動画視聴。 これは意志の弱さではなく、脳の報酬系がそう設計されているからだ。進化的に見れば、不確実な未来の報酬より確実な現在の報酬を選ぶことは、生存戦略として合理的だった。明日生きているかどうかわからない環境では、今食べることが正解だった。 問題は、現代社会の報酬構造が、この脳の設計とまるで噛み合っていないことだ。勉強の成果が出るのは数ヶ月後。キャリアが形になるのは数年後。報酬

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哲学を読む

境界のない砂の上を歩く

砂山から砂を一粒取り除く。まだ砂山だ。もう一粒。まだ砂山だ。これを一万回繰り返す。手元には数粒の砂が残っている。それはもう砂山ではない。 では、いつ砂山でなくなったのだろう。 一粒の論証 紀元前4世紀、メガラ学派のエウブリデスはこの問いを最初に定式化した。ギリシャ語で「砂山(σωρός, soros)」に由来するこのパラドックスは、単純な二つの前提から出発する。 前提1. 一粒の砂は砂山ではない。 前提2. 砂山から一粒を取り除いても、それは依然として砂山である。 前提2は「寛容原則(tolerance principle)」と呼ばれる。一粒ごとの差は無視できるほど小さい。だから隣り合う二つのケースに質的な違いはない。これは直感的にまったく正しく聞こえる。そしてこの直感的に正しい前提を数千回適用すると、百万粒の砂も砂山ではないという結論に辿り着く。 論理的には完全に有効な推論だ。前提も妥当に見える。しかし結論は明らかに偽だ。これがパラドックスと呼ばれる所以であり、二千年以上にわたって哲学者たちを苛立たせ続けている理由でもある。 言葉が世界を裏切るとき ソリテスのパ

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大学生活

誰も決めていないのに決まっている席についての考察

教室に入る。席は空いている。どこに座ってもいい。 その「どこでもいい」はずの選択に、妙な緊張が走ることがある。前列に座れば真面目だと思われるかもしれない。最後列に座れば、やる気がないと思われるかもしれない。中段のやや端、誰の視界にも入りにくい場所に、気がつけば足が向いている。 意識しているかどうかにかかわらず、教室には座席をめぐる暗黙の秩序がある。 前列の重力 教室の最前列に座る学生には、ある傾向が見られる。教員の声がよく聞こえる。板書が見やすい。質問がしやすい。物理的な距離の近さが、授業への関与度を高める。 座席位置と学業成績の間に正の相関があることは、複数の研究で示されている。前方に座る学生ほどGPAが高い傾向がある。しかし、ここで因果関係を読み取るのは早い。 前に座るから成績が上がるのか。成績が高い学生が前に座る傾向があるのか。この区別は重要だ。ベネディクトとホーキンスの2010年の研究では、座席をランダムに割り当てた場合、座席位置と成績の相関は大幅に弱まった。つまり、前列に座ること自体が成績を押し上げるのではなく、前列を選ぶ学生と高い成績を出す学生が、もともと同じ

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大学生活

大学で友達の作り方

「大学 友達 作り方」と検索している時点で、たぶんあなたは少し焦っている。入学式で周りがもう連絡先を交換している。昼食を一緒に食べる相手がいない。ガイダンスで隣の席の人に話しかけるタイミングを逃した。 結論から言う。いらない。 正確に言えば、「今すぐ作らなければならない」という前提が間違っている。大学における人間関係は、高校までとはまったく構造が違う。そしてその構造を理解すれば、焦る理由がないことがわかる。 「友達を作らなきゃ」という幻想 入学直後に友達を作れというプレッシャーは、どこから来るのだろう。 ひとつは高校までの延長だ。クラスがあり、担任がいて、席替えがあり、文化祭がある。同じ空間に長時間拘束されるから、人間関係は半ば自動的に生まれる。その感覚を引きずったまま大学に来ると、クラスがない、担任がいない、席が自由、行事への強制参加がないという環境に放り出されて途方に暮れる。 もうひとつはSNSだ。入学前から「同じ大学の人」とつながるグループが乱立し、入学式の日にはすでにグループができあがっているように見える。見えるだけだ。あの段階で形成される関係の大半は、利害や偶然

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日常の構造

調べ終わった朝は来なかった

情報が足りないと嘆いていた時代があった。図書館に通い、人に尋ね、それでも知り得ないことを「仕方がない」と受け入れていた。少なくともあの時代は、「足りない」という診断だけは正しかった。 いまは違う。情報はある。検索ひとつで論文が降ってくる。動画が解説してくれる。SNSが意見を並べてくれる。そしてあなたは、その情報の洪水の前で、かつてより正確に間違えるようになった。 もう少しだけ調べよう、と思う。もう少しだけ。その「もう少し」が判断を永遠に先送りにしていることに気づく頃には、決めるべき時間はとうに過ぎている。 閾値を超えた情報 バリー・シュワルツが「選択のパラドックス」で示したのは、選択肢が増えるほど人は選べなくなるという逆説だった。ジャムの試食実験は有名だろう。24種類のジャムを並べると試食する人は増えるが、実際に購入する人は6種類のときの10分の1に落ちる。 この構図は、選択肢だけでなく情報にもそのまま適用できるかもしれない。情報が少ない時代、人はそれを「不足」と呼んだ。情報が増えれば判断の質は上がるはずだった。実際、ある地点まではそうだろう。しかし一定の閾値を超えると、情

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日常の構造

右肩上がりの絶望

あなたの祖父母の世代より、あなたは豊かだ。冷蔵庫がある。エアコンがある。ポケットの中に世界中の情報へアクセスできる端末がある。100年前の王侯貴族が夢にも見なかった水準の医療を、保険証一枚で受けられる。 それで、あなたは幸せだろうか。 1974年、経済学者リチャード・イースタリンがひとつの事実を突きつけた。国の所得が上がっても、国民の幸福度は上がらない。半世紀たった今も、この知見は消えていない。GDPのグラフは右肩上がりを続けている。幸福度のグラフは、ほぼ水平線のままだ。 発見 イースタリンはペンシルベニア大学の経済学者だった。1974年の論文で、彼は幸福度データを体系的に分析した最初の経済学者となる。 発見は奇妙だった。ある時点で切り取れば、裕福な人ほど幸せだ。国際比較でも、豊かな国の国民のほうが概ね幸せだ。ここまでは直感に合う。 ところが時系列で追うと、状況が反転する。アメリカの一人当たり実質GDPは1946年から1974年の間にほぼ倍増した。同じ期間の幸福度は、ほとんど動いていなかった。 のちにイースタリンは南カリフォルニア大学に移り、データを拡充した。発展途上国

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日常の構造

裏を返さない

4枚のカードがテーブルに置かれている。A、K、4、7。それぞれ片面にアルファベット、もう片面に数字が書かれている。 ルールはひとつ。「母音の裏には偶数がある」。このルールが正しいかどうかを確かめるために、あなたはどのカードを裏返すか。 1966年、心理学者ピーター・ウェイソンがこの課題を大学生に出した。正答率は10%に届かなかった。大半の被験者はAと4を選んだ。Aを裏返すのは正しい。母音の裏に偶数がなければルール違反だ。しかし4を裏返しても何もわからない。偶数の裏に母音がなくても、ルールは破られていない。ルールは「母音の裏は偶数」であって、「偶数の裏は母音」ではないからだ。 本当に裏返すべきは7だ。奇数の裏に母音があれば、ルールは崩壊する。しかし7を選んだ被験者はほとんどいなかった。 人は確認する。反証しない。ルールが正しいことを示すカードには手を伸ばし、ルールが間違っていることを示しうるカードには触れない。そしてそのことに、気づかない。 確認は快い なぜ人は確認ばかりするのか。 ひとつの答えは、確認が気持ちいいからだ。自分の予想が当たったとき、脳の報酬系が反応する。「

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ことばと文学

自由意志が消えた世界で私たちが恐れていたもの

「自由意志は存在しない」。この言葉を聞いて平静でいられる人は少ない。「じゃあ犯罪者を罰する意味がないのか」「努力しても無駄なのか」「全部決まっているなら生きる意味がない」。こうした反応は自然だが、いずれも勘違いに基づいている。 勘違い1:「決まっている」と「強制されている」の混同 「自由意志がない」と聞いて最初に浮かぶイメージは、自分の行動が何かに強制されているというものだろう。しかし、因果決定論が主張しているのはそういうことではない。 因果決定論は、「宇宙のすべての出来事は先行する原因の結果である」という主張である。あなたが今この記事を読んでいるのも、朝コーヒーを飲んだのも、過去の原因の連鎖の結果であるという考え方だ。 しかし、「原因がある」ことと「強制されている」ことは別である。明日の天気は物理法則によって因果的に決定されているが、天気が「強制されている」とは言わない。同様に、あなたの選択が因果的に決定されているとしても、それは誰かに強制されているのとは異なる。 脅迫されて行動するのと、自分の欲求や信念に基づいて行動するのは、たとえ両方が因果的に決定されていたとしても、

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倫理と思考実験

星だけが増えていく沈黙の宇宙

1950年、ロスアラモスの食堂。物理学者エンリコ・フェルミが同僚たちの雑談に割って入った。 "Where is everybody?" みんなはどこにいるんだ。76年が経った。返事は来ていない。 宇宙には観測可能な範囲だけでおよそ2兆の銀河がある。天の川銀河だけで数千億の恒星がひしめき、そのうち相当数が居住可能領域に惑星を持つ。確率的に考えれば、どこかに知的生命がいてもおかしくない。いてもおかしくないどころか、いないほうが不自然に見える。 なのに、何も見つからない。信号も、痕跡も、残骸すらない。 科学者たちはこの矛盾をフェルミのパラドックスと名づけた。だが、矛盾しているのは宇宙のほうだろうか。それとも「いるはずだ」と期待してしまう、こちらの推論のほうだろうか。 食堂で生まれた問い フェルミの問いが厄介なのは、それが直感的に正しく聞こえるからだ。 宇宙は約138億年前に始まった。地球は約46億年前に形成され、生命は少なくとも38億年前には出現していたとされる。宇宙の年齢からすれば、地球の生命はかなり早い段階で生まれたことになる。ならば、地球より数十億年早くできた惑星で、

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大学生活

退屈な講義が思考の実験室に変わる瞬間

90分の講義がどうしても退屈なとき、選択肢は3つある。寝る、スマートフォンを触る、あるいは頭の中で「勝手な研究」を始める。 3つ目の選択肢は、退屈な授業を「思考の実験室」に変える技術だ。真面目な研究計画ではない。知的な遊びの作法である。 反例を探す 教員が「一般にAである」と言ったら、「Aでない場合は何か」を考える。 たとえば「民主主義は合意形成のための制度である」と聞いたら、合意が形成されなかった事例を探す。多数決で少数派が常に排除される場面、投票率が低すぎて「合意」と呼べない場面。「一般に」という枕詞が出てきたら、それは反例を探すための合図だと思っていい。 反例が見つかったとき、それは教員の主張が「間違っている」証拠ではない。その主張が成り立つ範囲を明らかにする手がかりだ。 前提を崩す どんな議論にも、暗黙の前提がある。前提崩しとは、「この議論が成り立つために、何が仮定されているか」を問うことだ。 「教育は人を成長させる」と言われたら、そこには「成長は望ましいものだ」「教育の目的は成長だ」という前提が隠れている。その前提を疑ってみる。成長しないことに価値がある場

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大学生活

ぼっちで過ごす大学生活が本当に詰むパターン・詰まないパターン

詰むパターン。 なし。 以上。 …と言い切りたいところだが、さすがに乱暴なので少し補足する。 「ぼっち=詰む」は思い込み 「大学でぼっちだと詰む」という言説はネット上に溢れている。友達がいないと過去問が手に入らない。グループワークで孤立する。就活の情報が入ってこない。飲み会に呼ばれない。 このうち、本当に大学生活を脅かすものがいくつあるか、冷静に数えてみてほしい。 飲み会に呼ばれないことは、大学生活が「詰む」こととは関係がない。過去問がなくても試験は受けられる。むしろ過去問に頼らずに自分で教科書とノートを読み込んだほうが、理解は確実に深まる。 「ぼっち=詰む」という図式は、大学の構造を理解していないことから生まれる誤解だ。大学は高校とは違う。クラスがなく、担任がおらず、同じメンバーと毎日顔を合わせる仕組みになっていない。一人でいることは、この環境ではまったく自然な状態だ。 詰まないパターン(ほとんど全部) 具体的に見ていこう。 講義。大学の講義は基本的に個人で受けるものだ。隣に友達がいようがいまいが、教員の話を聞き、ノートを取り、課題を提出するという流れは変わ

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生きること

幸せを追う手がすべてを遠ざける

幸せになりたいと思った瞬間、幸せは一歩遠ざかる。もう一歩近づこうとすると、もう一歩逃げる。これは比喩ではない。哲学が二百年かけてたどり着いた、ほとんど冗談のような構造的事実かもしれない。 快楽を目的にすると快楽が手に入らない。ヘンリー・シジウィックは『倫理学の方法』でこの構造を「快楽主義のパラドックス」と名づけた。そしてこのパラドックスは、いまだに解かれていない。解かれていないどころか、あなたの生活の中で、毎日、静かに作動している。 ミルが崩れた朝 ジョン・スチュアート・ミルは20歳で壊れた。 ベンサム流の功利主義を幼少期から叩き込まれ、「最大多数の最大幸福」を人生の座標にしていた青年が、ある朝ふと自問する。「すべての改革が実現したとして、それは自分にとって大きな喜びだろうか?」。答えは、Noだった。 ミルはこの経験を『自伝』第5章「わが精神の危機」に記している。目標がすべて達成されても幸福にならないのなら、その目標の追求とはいったい何だったのか。目的地にたどり着いたはずなのに、そこには何もなかった。彼が直面したのは、快楽主義のパラドックスの個人版だったのかもしれない。

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