Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

日常の構造

椅子に座ると耳が遠くなる

あなたが信頼されるのは、共感する能力があるからだ。あなたが慕われるのは、耳を傾けることができるからだ。そしてあなたが権力を手にしたとき、その能力は静かに劣化し始める。本人はそれに気づかない。気づく必要がないからだ。誰もそれを指摘しなくなるからだ。 これは道徳の話ではない。「権力者は悪い人間だ」という素朴な糾弾でもない。共感という能力が、権力という構造のなかで構造的に朽ちていく、そのメカニズムの話だ。 共感で手に入れた椅子 UCバークレーの心理学者ダッカー・ケルトナーは、20年以上にわたって「権力」の心理学を研究してきた。その知見をまとめた著書 The Power Paradox(2016)が示す結論は、直感に反している。 権力を獲得するために最も重要な能力は、冷酷さでも、政治的手腕でも、カリスマでもない。共感だ。 ケルトナーの実験では、大学の寮生活においてどの学生が影響力を獲得するかを追跡した。最初の一週間で周囲から信頼を得た学生が持っていた特性は、熱意、親切さ、傾聴力、落ち着き、そして開放性だった。権力は、他者の生活を向上させる能力を通じて与えられる。優しい人から壊れるの

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

繰り返されてなお残る言葉たちへ

「使い古された表現を避けろ」という助言は、表現を巡る議論のなかで最も使い古された表現の一つだ。 クリシェ(cliché)はフランス語の印刷用語に由来する。活版印刷で繰り返し使う鋳型のことで、同じ型から同じ文字が何度でも刷り出される。そこから転じて「型にはまった独創性のない表現」を指すようになった。ステレオタイプも同じ語源を持つ。型から作られる量産品。 だが型が繰り返されるのには理由がある。何百年、何千年と反復されてなお生き残っている構造は、その持続性自体が何かを証明している。淘汰を生き延びた表現。では何が、それを生き延びさせたのか。 型はプロトコルである 起承転結。序破急。三幕構成。英雄の旅。 物語の「型」は、退屈の原因ではない。書き手と読み手が情報を受け渡すためのプロトコルだ。 ジョーゼフ・キャンベルは『千の顔を持つ英雄』(1949年)で、世界中の神話に共通する物語構造を抽出した。出発、イニシエーション、帰還。この「モノミス」と名づけられた型は、ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』の脚本に直接応用したことで広く知られている。しかしルーカスが借りたのは構造であって、物

By Sakashita Yasunobu

大学生活

授業の空きコマはなぜ無に溶けるのか

時間割にぽっかりと空いた90分。次の授業まで自由だ。何でもできるはずだ。 課題を進めることもできる。図書館で本を読むこともできる。友達と話すこともできる。 しかし、実際に起きることは、たいていこうだ。スマートフォンを開く。SNSを眺める。何となく食堂でぼんやりする。気がつけば、次の授業の5分前になっている。90分が、文字通り無に溶けている。 なぜ、自由な時間が何も生まないのか。 中途半端な時間の罠 90分は、何かを始めるには短い。しかし、何もしないには長い。 この「中途半端さ」が、空きコマの最大の敵だ。レポートに取り組もうとすると、「あと90分しかないのに今から始めても中途半端に終わる」という判断が働く。読書を始めようとすると、「途中で切り上げなければならない」という見通しが、没入を妨げる。 結果として、何かに本腰を入れるには不十分だが、完全に休息するには長すぎる時間が宙に浮く。そして宙に浮いた時間は、もっとも抵抗の少ない行動に吸い込まれる。スマートフォンだ。 パーキンソンの法則では、「仕事は与えられた時間を満たすまで膨張する」とされる。しかし空きコマでは逆のことが起

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哲学を読む

選んだはずの手が誰かに握られていた

あなたが「自分で選んだ」と思っているもののうち、本当にあなたが選んだものはいくつあるだろう。 カフェテリアの野菜が目線の高さに並んでいるのは偶然ではない。年金の自動加入がデフォルトになっているのは親切ではない。トイレの的に蝿が描いてあるのは遊び心ではない。すべて設計されている。そして設計者は、あなたの自由を奪っていないと主張する。選択肢は残してあるのだから、と。 2008年、経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンは『Nudge』を出版し、「リバタリアン・パターナリズム」という概念を世に送り出した。自由を守りながら、人々をより良い方向へ導く。その名前自体が矛盾を抱えている。自由主義と父権主義の婚姻。しかし誰もその矛盾を気にしなかった。あまりにもうまく機能したから。 世界中に500を超えるナッジ・ユニットが設立され、世界銀行も国連もこの手法を採用した。だが、ここにひとつの問いが残されている。「より良い方向」とは、誰にとっての、何のことなのか。 中立という幻想 サンスティーンの最も重要な指摘は、中立的な選択環境は存在しないということだった。カフェテリアの食品に

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大学生活

本棚だけが豊かになり思考が動かないあなたへ

「年間100冊読んでいます」。この一文がプロフィールに書いてあると、なんとなく知的な人に見える。だが冷静に考えると、100冊読んだという事実は行動量の記述であって、知性の指標ではない。100キロ走った人が健康かどうかわからないのと同じだ。 「読む」と「使う」の断絶 読書が知性に接続されないのは、意志の問題ではない。「読む」と「使う」の間に構造的な断絶がある。 本を読んでいる最中、あなたの脳は活発に動いている。新しい概念を理解し、著者の論理を追い、時に感動する。だがその活発さは、本を閉じた瞬間に急速に減衰する。3日後、あなたは本の内容をほとんど覚えていない。1ヶ月後には、タイトルと「面白かった」という印象だけが残る。 これは記憶力の問題ではない。読書という行為の構造上、当然のことだ。本は著者の問いに対する著者の答えで構成されている。あなたは著者の思考を追体験しているだけで、自分の思考を動かしていない。他人の筋トレを見ているようなもので、見ているだけでは筋肉はつかない。 読書を「インプット」と呼ぶ問題 読書を「インプット」と呼ぶこと自体が誤解を生んでいる。 「インプット」

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日常の構造

あなたの立ち位置を決めている見えない力

エスカレーターに乗るとき、あなたは一瞬で判断を下している。左に立つか、右に立つか。その判断にかかる時間は、ほぼゼロだ。考えていない。周囲と同じ側に立っている。 片側空けの始まり エスカレーターの片側を歩行用に空ける慣習は、1944年のロンドン地下鉄に起源があるとされる。混雑緩和のために「右側に立ち、左側を空けてください」という案内が始まった。この慣習はやがて世界各地に広がった。 日本では、1967年に大阪の阪急梅田駅で長いエスカレーターが設置された際、「お急ぎの方のために左側をお空けください」というアナウンスが行われたのが、片側空けの始まりとされることが多い。大阪では右に立ち左を空ける。東京では左に立ち右を空ける。この左右の違いが生まれた経緯には諸説あり、定説はない。 注目すべきは、この慣習を誰かが命令したわけではないということだ。鉄道会社のアナウンスがきっかけであったとしても、全国的な社会規範として定着したのは、無数の人が互いの行動を観察し、模倣し、暗黙の了解として共有した結果にほかならない。 協調ゲームとナッシュ均衡 ゲーム理論の枠組みで見ると、エスカレーターの片側

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ことばと文学

現代音楽が理解不能に感じる理由

1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場でストラヴィンスキーの「春の祭典」が初演されたとき、客席は騒然となった。不協和な和声、変拍子のリズム、原始的な振付。観客は賛否に分かれ、怒号と拍手が入り乱れた。警察が呼ばれたという証言もある。 一世紀後の今、同じ曲はクラシック音楽の定番レパートリーとしてどのコンサートホールでも演奏されている。曲は一音たりとも変わっていない。変わったのは、聴く側の耳だ。 あなたの耳は訓練済みである ドレミファソラシド。この音の並びが「自然」に聞こえるなら、それはあなたの耳がすでに調性音楽のプロトコルに最適化されているからだ。 調性音楽とは、特定の音(主音)を中心に据え、そこからの距離と関係で他の音を組織する体系である。西洋音楽はおよそ四世紀にわたってこの体系を発展させてきた。バロック、古典派、ロマン派。バッハからモーツァルトを経てベートーヴェンに至る巨大な伝統だ。 あなたが「美しいメロディ」「心地よいハーモニー」と感じるものは、この伝統の中で繰り返し刷り込まれた期待のパターンにほかならない。ポップスもロックもジャズも、根本的にはこの調性の体系の上に

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生きること

努力できない仕組みの分析

「努力が足りない」と言われて、反論できなかった経験が、たぶん誰にでもある。 課題を出さなかった。締め切りを守れなかった。やると決めたことが三日で終わった。そのたびに自分を責めた。意志が弱い。根性がない。甘えている。そうやって自分を責めることで、次こそは、と思う。そして次もまた同じことが起きる。 もし「努力できない」が意志の問題なら、意志の強い人間は存在するのだろうか。それとも、ただ仕組みが違うだけなのか。 脳は未来を割り引く 行動経済学に「現在バイアス」という概念がある。人間は、将来の大きな報酬よりも、目の前の小さな報酬を好む傾向がある。1年後の15万円より、今日の10万円。来月の高評価より、今夜の動画視聴。 これは意志の弱さではなく、脳の報酬系がそう設計されているからだ。進化的に見れば、不確実な未来の報酬より確実な現在の報酬を選ぶことは、生存戦略として合理的だった。明日生きているかどうかわからない環境では、今食べることが正解だった。 問題は、現代社会の報酬構造が、この脳の設計とまるで噛み合っていないことだ。勉強の成果が出るのは数ヶ月後。キャリアが形になるのは数年後。報酬

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哲学を読む

境界のない砂の上を歩く

砂山から砂を一粒取り除く。まだ砂山だ。もう一粒。まだ砂山だ。これを一万回繰り返す。手元には数粒の砂が残っている。それはもう砂山ではない。 では、いつ砂山でなくなったのだろう。 一粒の論証 紀元前4世紀、メガラ学派のエウブリデスはこの問いを最初に定式化した。ギリシャ語で「砂山(σωρός, soros)」に由来するこのパラドックスは、単純な二つの前提から出発する。 前提1. 一粒の砂は砂山ではない。 前提2. 砂山から一粒を取り除いても、それは依然として砂山である。 前提2は「寛容原則(tolerance principle)」と呼ばれる。一粒ごとの差は無視できるほど小さい。だから隣り合う二つのケースに質的な違いはない。これは直感的にまったく正しく聞こえる。そしてこの直感的に正しい前提を数千回適用すると、百万粒の砂も砂山ではないという結論に辿り着く。 論理的には完全に有効な推論だ。前提も妥当に見える。しかし結論は明らかに偽だ。これがパラドックスと呼ばれる所以であり、二千年以上にわたって哲学者たちを苛立たせ続けている理由でもある。 言葉が世界を裏切るとき ソリテスのパ

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大学生活

誰も決めていないのに決まっている席についての考察

教室に入る。席は空いている。どこに座ってもいい。 その「どこでもいい」はずの選択に、妙な緊張が走ることがある。前列に座れば真面目だと思われるかもしれない。最後列に座れば、やる気がないと思われるかもしれない。中段のやや端、誰の視界にも入りにくい場所に、気がつけば足が向いている。 意識しているかどうかにかかわらず、教室には座席をめぐる暗黙の秩序がある。 前列の重力 教室の最前列に座る学生には、ある傾向が見られる。教員の声がよく聞こえる。板書が見やすい。質問がしやすい。物理的な距離の近さが、授業への関与度を高める。 座席位置と学業成績の間に正の相関があることは、複数の研究で示されている。前方に座る学生ほどGPAが高い傾向がある。しかし、ここで因果関係を読み取るのは早い。 前に座るから成績が上がるのか。成績が高い学生が前に座る傾向があるのか。この区別は重要だ。ベネディクトとホーキンスの2010年の研究では、座席をランダムに割り当てた場合、座席位置と成績の相関は大幅に弱まった。つまり、前列に座ること自体が成績を押し上げるのではなく、前列を選ぶ学生と高い成績を出す学生が、もともと同じ

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大学生活

大学で友達の作り方

「大学 友達 作り方」と検索している時点で、たぶんあなたは少し焦っている。入学式で周りがもう連絡先を交換している。昼食を一緒に食べる相手がいない。ガイダンスで隣の席の人に話しかけるタイミングを逃した。 結論から言う。いらない。 正確に言えば、「今すぐ作らなければならない」という前提が間違っている。大学における人間関係は、高校までとはまったく構造が違う。そしてその構造を理解すれば、焦る理由がないことがわかる。 「友達を作らなきゃ」という幻想 入学直後に友達を作れというプレッシャーは、どこから来るのだろう。 ひとつは高校までの延長だ。クラスがあり、担任がいて、席替えがあり、文化祭がある。同じ空間に長時間拘束されるから、人間関係は半ば自動的に生まれる。その感覚を引きずったまま大学に来ると、クラスがない、担任がいない、席が自由、行事への強制参加がないという環境に放り出されて途方に暮れる。 もうひとつはSNSだ。入学前から「同じ大学の人」とつながるグループが乱立し、入学式の日にはすでにグループができあがっているように見える。見えるだけだ。あの段階で形成される関係の大半は、利害や偶然

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日常の構造

調べ終わった朝は来なかった

情報が足りないと嘆いていた時代があった。図書館に通い、人に尋ね、それでも知り得ないことを「仕方がない」と受け入れていた。少なくともあの時代は、「足りない」という診断だけは正しかった。 いまは違う。情報はある。検索ひとつで論文が降ってくる。動画が解説してくれる。SNSが意見を並べてくれる。そしてあなたは、その情報の洪水の前で、かつてより正確に間違えるようになった。 もう少しだけ調べよう、と思う。もう少しだけ。その「もう少し」が判断を永遠に先送りにしていることに気づく頃には、決めるべき時間はとうに過ぎている。 閾値を超えた情報 バリー・シュワルツが「選択のパラドックス」で示したのは、選択肢が増えるほど人は選べなくなるという逆説だった。ジャムの試食実験は有名だろう。24種類のジャムを並べると試食する人は増えるが、実際に購入する人は6種類のときの10分の1に落ちる。 この構図は、選択肢だけでなく情報にもそのまま適用できるかもしれない。情報が少ない時代、人はそれを「不足」と呼んだ。情報が増えれば判断の質は上がるはずだった。実際、ある地点まではそうだろう。しかし一定の閾値を超えると、情

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