退屈な講義が思考の実験室に変わる瞬間

90分の講義がどうしても退屈なとき、選択肢は3つある。寝る、スマートフォンを触る、あるいは頭の中で「勝手な研究」を始める。

3つ目の選択肢は、退屈な授業を「思考の実験室」に変える技術だ。真面目な研究計画ではない。知的な遊びの作法である。

反例を探す

教員が「一般にAである」と言ったら、「Aでない場合は何か」を考える。

たとえば「民主主義は合意形成のための制度である」と聞いたら、合意が形成されなかった事例を探す。多数決で少数派が常に排除される場面、投票率が低すぎて「合意」と呼べない場面。「一般に」という枕詞が出てきたら、それは反例を探すための合図だと思っていい。

反例が見つかったとき、それは教員の主張が「間違っている」証拠ではない。その主張が成り立つ範囲を明らかにする手がかりだ。

前提を崩す

どんな議論にも、暗黙の前提がある。前提崩しとは、「この議論が成り立つために、何が仮定されているか」を問うことだ。

「教育は人を成長させる」と言われたら、そこには「成長は望ましいものだ」「教育の目的は成長だ」という前提が隠れている。その前提を疑ってみる。成長しないことに価値がある場面はないか。教育が成長以外の目的で機能している場面はないか。

前提崩しは、批判ではない。議論の土台を可視化する作業だ。哲学書が読めない理由は難しさではないにも書いたが、哲学的な読解力とは、書かれていないことを読む力でもある。

歴史的条件を差し替える

「これが100年前だったらどうか」「別の国だったらどうか」と条件を入れ替えてみる。

ある制度や慣習が「当然」に見えるのは、現在の歴史的条件の中にいるからだ。条件を差し替えると、「当然」が揺らぐ。大学という制度が存在しなかった時代に、知識はどうやって伝達されていたか。今の社会で常識とされていることが、別の文化圏ではどう見えるか。

この思考法は、目の前の講義内容を相対化するための装置として機能する。

ノートの取り方を変える

「勝手な研究」をするとき、ノートの取り方も変わる。講義の内容を記録するのではなく、自分が思いついた「問い」を記録する

従来のノートは、教員が話した内容の要約だ。これは記録としては有用だが、思考の痕跡は残らない。

一方、問い中心ノートは、教員の発言に対して自分が感じた疑問、違和感、連想を書く。「Aと言っていたが、Bではないか?」、「この前提は本当か?」、「100年前にも同じことが言えるか?」

問い中心ノートは、後からレポートのテーマを探すときに使える素材になる。大学生、初めてのレポートで苦労するのは、書き方ではなくテーマ探しだ。講義中に問いをストックしておけば、その作業が楽になる。

つまらない授業にも残るものがある

授業の空きコマはなぜ無に溶けるのかで書いたように、大学の時間は意識しないとあっという間に消える。つまらない授業の90分もそうだ。だが、その90分を「勝手な研究」に使えば、少なくとも思考の訓練にはなる。

集中力が最も高い時間帯の錯覚にも書いたが、集中できないことを環境や時間帯のせいにするのは簡単だ。だが、集中の対象を変えるという選択肢もある。講義内容に集中できなくても、「その講義を素材にした思考」には集中できるかもしれない。

大事なのは、この「勝手な研究」を評価しないことだ。正しい結論に達する必要はない。論文になる必要もない。ただ、自分の頭で考える練習をしているだけだ。その練習の中から、ときどき本当に面白い問いが生まれる。

まとめ

反例を探す、前提を崩す、歴史的条件を差し替える。この3つがあれば、退屈な講義は思考の素材に変わる。ノートには内容ではなく問いを書く。正解を出す必要はない。頭の中で勝手に研究を始めること自体が、大学で最も実用的な知的習慣の一つだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu