止まったように見える景色の先へ

5年前のカメラで撮っても、困らない。

これは実感だ。数年前のミラーレスカメラであっても、日常的な撮影で「このカメラでは撮れない」と感じる場面はほとんどない。画素数は十分。高感度も実用的な範囲に収まっている。AFは被写体を見失うことが減った。RAW現像のワークフローも成熟している。

「カメラの技術的進化は頭打ちだ」という言説が繰り返されるのは、この実感が広く共有されているからだろう。だが「困らない」ことと「頭打ち」は、同じことを意味しているのか。

「頭打ち」を分解する

「頭打ち」という言葉は、物理法則的な限界に到達したことを暗示する。しかし実際に何が起きているかを分解してみると、見える景色は変わる。

センサー解像度。 フルサイズセンサーでは6100万画素(ソニーα7R V)クラスが上限に近づいている。一般的な用途、つまりSNSへの投稿やA3サイズまでのプリントであれば、2400万画素で十分すぎる。ただし中判デジタルの領域では1億画素を超える製品が登場しており、科学・産業用途ではセンサーの高解像度化はまだ進んでいる。「頭打ち」に見えるのは、民生用フルサイズという特定の文脈に限った話だ。

高感度性能。 ISO感度を上げたときのノイズの少なさは、ここ数年で改善幅が明らかに縮小した。これには物理的な理由がある。センサーが捉えるのは光子であり、光子の数は光量によって決まる。暗い場所では光子が少ない。少ない光子から正確な像を再構成するには限界がある。ショットノイズと呼ばれるこの制約は、センサー技術だけでは根本的に解決できない。

AF性能。 ここは明確に進化が続いている領域だ。被写体認識AIは毎年精度を上げている。人間の瞳だけでなく、動物、鳥、車、飛行機、昆虫まで。数年前には想像できなかった精度でフォーカスが追従する。AF技術に限って言えば、「頭打ち」とは到底言えない。

動画性能。 8K内部記録、RAW動画出力、高フレームレートでのスローモーション。映像側の進化はまだ加速している。スチルカメラとしての進化は鈍化しても、動画機としての進化は別の時間軸で動いている。

つまり「頭打ち」は、スチル画質という一つの軸に限定した話であり、カメラという装置全体を見れば、進化の重心が移動しているだけだ。

「十分」と「限界」は違う

ここで区別すべきことがある。「頭打ち」と「十分」は異なる概念だ。

頭打ちとは、物理法則やエンジニアリングの制約によって、それ以上の改善が原理的に困難になった状態を指す。一方「十分」とは、大多数のユーザーにとって実用上の差が感じられなくなった状態を指す。現在のカメラに起きているのは、後者だ。

PCのCPU性能が「頭打ち」と言われた時期と構造が似ている。2000年代半ば、シングルコアのクロック周波数は熱設計の壁に当たり、伸びが鈍化した。しかしCPUの進化が止まったわけではない。マルチコア化、省電力化、特定用途向けの最適化という別の軸に進化の方向が移った。

カメラも同じパターンをたどっている。画素数の競争が落ち着いた後、進化の軸はAF精度、計算処理、ソフトウェア体験、動画性能へと移動した。進化が止まったのではなく、進化が見えにくくなっただけだ。

計算写真という新しい戦場

スマートフォンが切り拓いた領域がある。計算写真(Computational Photography)だ。

スマートフォンのカメラは物理的に小さい。センサーも小さい。レンズも小さい。光学的な性能では、専用カメラに勝てるはずがない。しかしスマートフォンは、ハードウェアの制約をソフトウェアで超える道を選んだ。

HDR合成。ナイトモード。被写界深度のシミュレーション。超解像処理。複数フレームの合成による手ブレ補正。これらはすべて、光学的には不可能なことを計算処理で実現している。

この波はミラーレスカメラにも到達しつつある。被写体認識AF、プリキャプチャー(シャッターを切る前の瞬間を遡って記録する機能)、ピクセルシフトマルチショット。現像ソフトの選択がこれほど重要になったのも、撮影後の計算処理が写真の最終品質を大きく左右するようになったからだ。

ただし、ここには別の問いが控えている。計算で生成された画像を、どこまで「写真」と呼ぶのか。複数フレームを合成して人間の目では見えない暗部を持ち上げた画像は、「その場の光景を記録したもの」と言えるのか。この問いに答えは出ていない。おそらく出ない。しかし技術がこの方向に進んでいることは間違いない。

進化が見えにくいだけ

「カメラの進化が止まった」と感じるとき、その感覚の一部はマーケティングの変化に起因している。

メーカーはこれまで、分かりやすい数字で製品を訴求してきた。画素数。連写速度。ISO感度の上限。これらは数値が大きいほど「良い」と直感的に理解できる。しかし数字の伸びが鈍化すると、「進化していない」と感じてしまう。実際にはUIの改良、メニュー構造の再設計、グリップの形状変更、ファームウェアアップデートによる後からの性能向上といった改善は続いている。ただし、これらは「画素数が2倍になりました」のような分かりやすい訴求にはならない。

ファームウェアアップデートで購入後にカメラの性能が向上するという現象は、従来のカメラにはなかったものだ。フィルムカメラは購入した瞬間が性能のピークだった。デジタルカメラは購入後にAFアルゴリズムが改善されたり、新しい被写体認識が追加されたりする。「買った時点のカメラ」と「1年後のカメラ」が同じハードウェアなのに違う性能を持つ。進化は続いている。ただ、スペックシートには現れない。

成熟は悪ではない

レンズは一本でいいと思える状況は、技術が成熟したからこそ成立する。どのレンズを選んでも一定以上の画質が保証される時代になって初めて、「画質以外の基準でレンズを選ぶ」ことが可能になった。画角、サイズ、重量、撮影体験。機材選びの基準が性能から体験に移ったのは、性能が十分になったからだ。

物撮りで遠くから撮るという技法上の判断も、カメラの解像度が十分に高いから成り立つ。トリミング耐性がなければ、遠距離からの撮影は実用にならない。技術の成熟が、表現の選択肢を広げている。

「進化が鈍化した」ことと「それが問題である」ことは、分けて考える必要がある。技術が成熟することは、悪いことではない。むしろ、技術が十分に成熟した後にこそ、技術ではなく「何を撮るか」「なぜ撮るか」に集中できる環境が整う。

カメラの技術的進化が頭打ちだという主張は、半分正しく、半分間違っている。スチル画質の向上速度は確かに鈍化した。しかしカメラという道具の進化は、画質以外の軸で続いている。そして画質が「十分」になったことで、写真という行為の重心は、機材から撮影者自身へと移りつつある。それは停滞ではない。成熟だ。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu