履修登録の風

春になると、大学のキャンパスにはある種の空気が漂う。履修登録期間だ。

掲示板の前で時間割を睨む顔。シラバスの画面をスクロールする指。「あの授業、楽単らしいよ」という囁き。数日のあいだに、半年間の学びの全体像が決まる。否、「決まってしまう」と言ったほうが正確だろう。

GPAから逆算する

結論から言う。大学では、得意な科目を選べ。

身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれない。しかしこれは精神論ではない。GPAの計算式から導かれる、構造的な結論だ。

GPAは加重平均だ。大学生は履修上限を超える意味がないで詳しく書いたが、科目を増やしても平均は上がらない。追加した科目の成績が現在の平均と同じなら、GPAは変わらない。平均以下なら下がる。上がるのは、平均以上の成績を取れたときだけだ。

つまり、GPAを守る最も確実な方法は、自分が高い成績を取れる見込みのある科目を選ぶことだ。それは多くの場合、自分が得意な科目であり、興味のある科目であり、学習の下地がある科目だ。

興味と得意は一致しないことがある

ここで正直に書いておく。興味がある科目と、得意な科目は、必ずしも重ならない。

哲学に惹かれるが論述が苦手かもしれない。統計に興味はあるが数学の基礎が弱いかもしれない。言語学が面白そうだが、その言語をまだ知らないかもしれない。

興味があるのに得意ではない科目を履修することは、博打だ。うまくいけば世界が広がる。しかしうまくいかなければ、GPAにダメージを残す。そのダメージは加重平均の分母に刻まれ、後から取り返すのに多大な労力を要する。

ではどうするか。

答えのひとつは、大学生は下手に履修するより聴講をしろで書いた聴講だ。正規の履修登録をせずに授業に出席する。単位はつかない。成績もつかない。GPAへの影響はゼロだ。興味はあるが成績に自信がない科目は、まず聴講で試してみる。合うと感じれば翌学期に正式に履修すればいい。

「楽単」の誘惑

履修登録期間になると、「楽単」という言葉が飛び交う。楽に単位が取れる科目。出席だけで単位が来る科目。レポートが簡単な科目。

楽単を選ぶこと自体は、戦略として理解できる。GPAを守るための合理的な判断だ。しかし、楽単だけで4年間を埋め尽くすと、卒業時に手元に残るのは数字だけだ。何を学んだのかと聞かれて、答えに詰まる。

問題は楽単の存在ではない。楽単しか選ばないことだ。

得意な科目で成績を確保しつつ、いくつかの科目では自分の限界を試す。そのバランスを意識するだけで、4年間の密度は変わる。挑戦的な科目で成績が振るわなかったとしても、その経験から何を学んだかは、数字の外に残る。誰も学びを測れないのだから、数字に現れない学びの価値を、自分だけは知っておいたほうがいい。

履修登録の前にやること

履修登録の前に、やっておくべきことがある。

まず、過去の成績を分析することだ。大学で成績を分析しろ、それも徹底的にで書いたように、偏差値を科目ごとに計算すれば、自分がどんな形式の授業で成績を取りやすいかが見えてくる。講義型が得意か演習型が得意か、レポート評価が得意か試験一発型が得意か。この傾向を知っているかどうかで、履修の選び方は大きく変わる。

次に、卒業要件を確認することだ。必修科目は選べない。選択必修にも枠がある。自由に選べる単位数は、思っているより少ないことが多い。その限られた枠をどう使うかが、履修登録の本質だ。

そしてシラバスを読むこと。タイトルだけで判断しない。評価方法、授業の進め方、前提知識の有無を確認する。ここを怠ると、期待と現実のギャップに苦しむことになる。

「とりあえず多めに取る」の罠

「とりあえず多めに履修登録して、合わなかったら途中でやめよう」。この発想は危険だ。

多くの大学では、履修取消の期限が設けられている。期限を過ぎれば、その科目の成績はGPAに反映される。途中で出席しなくなれば不合格になり、不合格は分母に算入される。大学生は履修上限を超える意味がないで書いたのと同じ構造で、増やした分だけリスクが増す。

「多めに取る」のではなく、「厳選して取る」。空いた時間は聴講や自主学習に充てる。この発想の転換が、履修登録の風景を変える。

まとめ

履修登録は、半年間の時間の使い方を決める行為だ。その数日間に、もう少しだけ真剣に向き合ってみてほしい。

得意な科目で土台を固める。興味がある科目は聴講で試す。過去の成績データから自分の傾向を知る。卒業要件を正確に把握する。

風に流されるのではなく、風を読んで動く。それだけで、同じ4年間の質は変わる。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

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嘘が真実を食い尽くす朝

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何でも飾れる額縁だけが残った

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