永遠の素振り

あなたはいつから素振りばかりしている。

バットを構え、腰を回し、フォームを確認する。鏡の前で。壁に向かって。千回。一万回。フォームは洗練される。筋肉は覚える。あなたは確実に上手くなっている。ただ、ボールは一球も飛んでこない。打席に立つ予定もない。

上手くなることは、いつから目的になったのだろう。そしてもっと厄介なことに、その問いを誰も発しない。

手段が目的を食い殺す

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間の行為にはそれ自体が目的であるもの(それ自体のために選ばれるもの)と、何か別のもののための手段であるものがあると論じた。笛を吹く技術は笛を吹くためにあり、医術は健康のためにある。すべての技術(テクネー)は、その外部にある何かを実現するために存在する。

ところが、手段と目的の関係はしばしば反転する。

ギターを弾くのは、誰かに聴かせたいからだったはずだ。しかしいつの間にか、スケールの速弾きが何小節続くかのほうが重要になる。語学を学ぶのは、誰かと話すためだったはずだ。しかしいつの間にか、検定試験のスコアを1点でも上げることのほうが重要になる。写真を撮るのは、何かを記録したかったからだったはずだ。しかしいつの間にか、機材のスペックと設定値の最適化のほうが重要になる。

手段が目的を食い殺す。食い殺したあと、手段だけが残って、目的の空席にちゃっかり座り込む。そしてそのことに、本人は気づかない。気づかないどころか、上達し続けている自分に満足している。素振りのフォームは完璧になった。打席はどこにもないが、それは些細なことだ。

誰も学びを測れないことを示したグッドハートの法則を、ここでもう一度呼び出してみる。「ある指標が目標になると、それは良い指標ではなくなる」。GPAが学びの代理指標であるように、上達は本来、何かを為すための代理指標だったはずだ。しかし上達そのものが目標になった瞬間に、上達は上達しか測れなくなる。

テクネーの袋小路

アリストテレスは人間の知的な卓越性を五つに分類した。技術(テクネー)、学問的知識(エピステーメー)、実践的知恵(フロネーシス)、直観的知性(ヌース)、そして哲学的知恵(ソフィア)。

テクネーは制作に関わる知だ。何かを「うまく作る」能力。椅子を作る技術、船を操る技術、論証を組み立てる技術。テクネーは常に、その外部にある成果物を目指している。

フロネーシスは違う。フロネーシスは「今この場面で何をすべきか」を判断する実践的な知恵であり、その判断そのものが目的だ。正しい人に、正しい時に、正しい仕方で、正しいことを為す。テクネーが「いかに上手く作るか」を問うのに対して、フロネーシスは「そもそも何を為すべきか」を問う。

上手くなることの目的化は、テクネーの暴走と言えるかもしれない。「いかに」だけが肥大化し、「何のために」が消失する。フロネーシスが不在のまま、テクネーだけが研ぎ澄まされていく。刃は鋭くなる一方で、何を切るかは誰も知らない。

これはアリストテレスの時代には想像しにくかった事態かもしれない。古代ギリシアでは、テクネーは共同体の中で具体的な役割を持っていた。船大工は船を作る。医者は病人を治す。技術の「何のために」は自明だった。しかし現代では、技術はしばしば共同体から切り離され、個人の内部で自己目的化する。上手くなることは、もはや社会的な機能ではなく、個人的な営みになった。

永遠の初心者、永遠の中級者

上達にはある種の中毒性がある。

昨日できなかったことが今日できるようになる。その瞬間、脳は報酬を受け取る。ドーパミンが出る。もう少し練習すれば、もう少し上手くなれるかもしれない。もう少しだけ。もう少しだけ。

しかし上達曲線は直線ではない。最初の急激な成長のあと、カーブは緩やかになる。やがて同じ時間を費やしても目に見える進歩が得られなくなる。いわゆるプラトー(停滞期)だ。

ここで分岐が起きる。ある人はプラトーに耐えきれず、別のものを始める。新しい楽器、新しい言語、新しいスポーツ。初期の急成長を再び味わうために。この人は永遠の初心者だ。常に新鮮な上達の快楽を追いかけ、しかし何ひとつ深くならない。

別の人はプラトーに留まり、微小な進歩を積み重ねる。この人は永遠の中級者だ。上達は続いている。たぶん。しかしその上達が何に使われるのかは、依然として不明のままだ。

どちらの場合も、上達そのものが燃料になっている。上達の先に何があるのかは問われない。あるいは、問うことが怖いのかもしれない。問えば、答えが「何もない」である可能性と向き合わなければならないからだ。

暇が怖いだけなのだとすれば、上達は暇を埋めるための高尚な口実にすぎない。素振りをしている限り、暇ではない。暇でなければ、虚無と目を合わせなくて済む。

数値化された上達

現代は上達を数値化する仕組みに溢れている。

語学アプリは連続学習日数を表示する。ランニングアプリはペースと距離をグラフにする。ゲームはランクとレーティングをリアルタイムで更新する。楽器の練習アプリは正確さをパーセンテージで示す。プログラミング学習サイトはバッジとポイントを与える。

これらはすべて、上達の代理指標だ。そして代理指標が可視化された瞬間に、グッドハートの法則がまた起動する。連続学習日数を途切れさせないために、一日30秒だけアプリを開く。ランクを維持するために、楽しくないのに対戦を続ける。バッジを集めるために、理解していない課題をスキップする。

指標に従順な人間ほど、指標が測ろうとしていたものから遠ざかる。これは教育でも仕事でも繰り返されてきた構造だ。しかし趣味の領域でまで同じことが起きているのは、少し考えると奇妙だ。趣味とは、目的がないことが許される数少ない領域だったはずだ。ところが、目的のないはずの場所にまで指標が入り込み、目的を捏造し始める。

虚空をつかむように幸福を追いかけるのと同じ構造が、ここにもある。追いついた瞬間に消えるものを追い続ける。ランニングマシンの上で走り続ける。景色は変わらない。

完璧という名の墓

上達の終着点に「完璧」があると仮定してみよう。

完璧な演奏。完璧なフォーム。完璧な文章。仮にそれが実現したとして、その次に何があるのか。

完璧は、それ以上の変化を許さない。完璧であるとは、もうどこにも動けないということだ。上達し続けることが生きがいだった人間にとって、完璧は死に等しい。

だから本当は、上達を目的化している人間は完璧を望んでいない。望んでいるのは「もう少しで完璧になれるかもしれない」という永遠の途上だ。到着しないことが前提の旅。ゴールを設定しておきながら、到着することだけは全力で避ける。

ショーペンハウアーが看破した構造がここにもある。欲望が満たされれば退屈が来る。退屈に耐えかねてまた欲望する。上達したい、もっと上手くなりたい、まだ足りない。この「まだ足りない」が人間を動かしている。足りた瞬間に、動く理由がなくなる。

岩はまた転がり落ちる。シーシュポスの岩がいつまでも山頂に留まらないのは、呪いではなく、むしろ救済なのかもしれない。岩が留まってしまえば、彼は何をすればいいのかわからなくなる。

上手くなって、それで

ここで問いを立て直す。

上手くなることは、何のためにあるのか。

「楽しいから」。では、上手くなること自体が楽しいのか、それとも、上手くなった先で何かができるようになることが楽しいのか。もし前者なら、上達は自己完結していて、それ以上の理由を必要としない。しかしその場合、それは「楽しい」のではなく「快い」だけかもしれない。ヘドニック・トレッドミルが示すように、快は慣れによって減衰する。同じ刺激では同じ快が得られなくなる。だからもっと上手くならなければならない。もっと、もっと。

「自信がつくから」。しかし、上達による自信は条件つきだ。上手くいっている限りにおいての自信だ。上達が止まれば、自信も止まる。自信の根拠が能力に依存している限り、能力が衰える可能性への恐怖がつねにつきまとう。加齢、怪我、環境の変化。条件つきの自信は、条件が変われば崩壊する。

「成長している実感があるから」。成長の実感は、現在の自分が不十分であるという前提の上に成り立っている。成長し続けなければならないとすれば、現在の自分は常に不十分だ。自己肯定と自己否定が同時に起動している。「もっと良くなれる」という希望は、「今のままでは足りない」という否定の裏返しだ。

どの理由も、底を打つと同じ場所に落ちる。上手くなること自体は、何の問いにも答えていない。

なにかをしよう!(何のために?)。この問いは行為のあらゆる局面で頭をもたげる。何かをしている限り、何のためかを問わずに済む。上手くなっている限り、上手くなって何をするのかを問わずに済む。行為は問いの鎮痛剤だ。

目的なき精進

禅の文脈では、修行そのものが悟りであるとされることがある。道元は「修証一等」、つまり修行と悟りは別のものではないと説いた。座ること自体が目的であり、座った先に何かを得ようとする態度こそが妨げになる。

これは上達の目的化とは違う。

禅における「手段の目的化」は、目的を手放すことによって達成される。上達の目的化は、目的を見失うことによって生じる。手放すのと見失うのでは、まるで違う。前者は意識的な放棄であり、後者は無自覚な喪失だ。

道元が座禅を「何のためでもなく」座ったのと、あなたがギターを「何のためだかわからないまま」弾いているのは、外側から見れば似ているが、中身はまったく異なる。道元は目的を超えている。あなたは目的を忘れている。超えることと忘れることのあいだには、深淵がある。

もっとも、この区別は実践のなかでは曖昧になる。忘れていたつもりが超えていた、ということもあるかもしれない。超えたつもりが忘れていただけだった、ということも。しかし少なくとも、上達を目的化している大半の人間は、禅僧ではない。

素振りを止めたら

もし今日、上手くなることをやめたら、何が残るだろう。

練習をやめる。スコアを見ない。ランクを気にしない。昨日の自分より上手くなろうとしない。ただ、今の自分のままで、何かをする。あるいは、何もしない。

そのとき感じるのは解放だろうか。それとも、底が抜けたような恐怖だろうか。

おそらく後者だ。上達は足場だった。成長している限り、足元には地面がある。成長をやめた瞬間に、地面が消える。立っているのか落ちているのかわからなくなる。

意味という病は、上達という処方箋で一時的に抑えられていた。上達をやめれば、症状が戻る。何のために生きているのか。何のためにここにいるのか。上達はその問いの前に立てた衝立だった。衝立を外せば、問いがむき出しになる。

だから素振りは続く。

バットを構え、腰を回し、フォームを確認する。千回。一万回。打席には立たない。立つ必要はない。素振りをしている限り、あなたは何かをしている。何かをしている限り、何もしていない自分と向き合わなくて済む。

上手くなることは目的ではなかった。逃避だった。しかし逃避であると気づいたところで、逃げるのをやめられるかといえば、たぶんやめられない。逃げる先がないのだから。

素振りのフォームは、今日も少しだけ良くなった。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu