まぶたの裏に残る灰色の光

今すぐ目を閉じてみてほしい。

真っ暗になるはずだ。少なくとも、そう期待する。ところが実際に見えるのは、完全な黒ではない。うっすらとした灰色。ちらちらと揺れる微細な光の粒。ときどき、色のついた模様のようなものが浮かんでは消える。

これは故障ではない。あなたの目は、正常に動作している。正常に動作しているからこそ、暗闇の中でも「何か」を生み出してしまう。人間の視覚には、常にノイズがある。そしてそのノイズを完全にオフにする方法は、存在しない。

あなたは黒を見たことがない

完全な暗闇で目を閉じたとき知覚されるあの暗灰色には、名前がある。ドイツ語でEigengrau(アイゲングラウ)。「固有の灰色」という意味だ。19世紀のドイツの生理学者エヴァルト・ヘリングがこの語を用いたとされる。

Eigengrauは、外部からの光がまったくない状態でも網膜の視細胞が自発的に発火することで生じる。光受容体である錐体細胞や桿体細胞の中にある視物質(ロドプシンなど)は、光を受けなくても熱エネルギーによってごくまれに異性化を起こす。これが「熱ノイズ」と呼ばれる現象で、脳はこの微弱な信号を「光が来た」と解釈してしまう。

つまり、人間は物理的な意味での「純粋な黒」を見ることができない。網膜が存在する限り、そこには常にわずかな信号が流れている。あなたが「真っ暗」だと思っているあの色は、黒ではなくEigengrauだ。

ノイズの種類を分解する

目を閉じたときに見えるものは、Eigengrauだけではない。視覚系が生み出すノイズにはいくつかの種類がある。

光視症(Phosphene) は、目を指で押したときに見える光の模様だ。外から光が入っているわけではない。物理的な圧力が視細胞を刺激し、電気信号が発生する。それを脳が「光」として処理する。暗い部屋で目のあたりをそっと押してみれば、すぐに確認できる。

ブルーフィールド内視現象 は、晴れた青空を見上げたときに視界を飛び交う白い小さな点だ。これは網膜の毛細血管を通過する白血球の影である。赤血球は青い短波長の光を吸収するが、白血球は吸収しない。白血球が通過する瞬間だけ光が網膜に届き、明るい点として知覚される。飛蚊症と混同されることがあるが、メカニズムは異なる。

飛蚊症 は、硝子体(眼球内部を満たすゲル状の物質)の中に浮遊するタンパク質や細胞の残骸が影を落とす現象だ。これはノイズというよりも光学的な障害物であり、加齢とともに増える傾向がある。

暗順応時の光点 は、暗闘に目が慣れていく過程で見える微細な明滅だ。桿体細胞の感度が上がるにつれて、熱ノイズも増幅される。暗いところでよく見えるようになるということは、同時にノイズも拾いやすくなるということだ。感度とノイズはトレードオフの関係にある。

カメラも同じ問題を抱えている

ここで写真をやっている人間として、カメラの話をしたい。

デジタルカメラのイメージセンサーにも、暗電流ノイズ(ダークカレント)がある。シャッターを閉じた状態でも、センサーの各ピクセルは熱によって微弱な電荷を蓄積する。これが「ダークフレーム」と呼ばれるもので、長時間露光やISO感度を上げた撮影で顕著になる。

構造的に、人間の目とカメラセンサーは同じ問題に直面している。信号を受け取る素子がある限り、ノイズはゼロにならない。ISO感度を上げれば暗い場所でも撮れるが、ノイズも増える。人間の暗順応もまったく同じだ。桿体細胞の感度が上がれば暗所でも見えるが、熱ノイズも増幅される。

ただし、両者の「その後」は異なる。カメラはノイズリダクション処理によってノイズを抑制する。統計的な手法でノイズと信号を分離し、ノイズだけを削る。一方、脳はノイズを削るのではなく、ノイズの中からパターンを見出そうとする。暗闘の中に顔を見たり、雲の中に動物を見たりするパレイドリアがその典型だ。

カメラがノイズを消そうとするのに対して、脳はノイズに意味を与えようとする。この違いは大きい。

見えていないものを見ている

脳は入力が不足すると、自分で映像を作り出す。

感覚遮断実験がそれを示している。1950年代にマギル大学で行われた実験では、被験者を光と音が遮断された環境に長時間置くと、多くが幻覚を報告した。外部からの入力がなくなっても、脳は視覚情報の「生産」をやめない。むしろ、入力が途絶えたことで内部のノイズを素材にして映像を構成し始める。

盲点もこの原理で説明できる。人間の網膜には視神経が束になって眼球を貫通する部分があり、そこには視細胞がない。物理的に「見えない領域」が常に存在する。にもかかわらず、視野に穴が空いて見えることはない。脳が周囲の情報から推測して、その領域を「塗りつぶしている」からだ。

つまり「見る」という行為は、外界の忠実な記録ではない。網膜が受け取った信号を材料にして、脳が能動的に構成する作業だ。足りない部分は補い、ノイズからはパターンを抽出し、矛盾があれば辻褄を合わせる。私たちが「見ている」と思っているものの一部は、脳が作った創作物だ。

静寂のない感覚器

耳にも同じことが言える。完全な無音環境(無響室)に入ると、多くの人が自分の血流の音や神経系のノイズを聴き始める。完全な静寂は、聴覚系が正常に機能している限り訪れない。

視覚も同様だ。目を閉じても暗闇は来ない。Eigengrauがあり、光視症があり、ノイズがある。感覚器は「オフ」にできない。電源を切れないラジオのようなもので、チャンネルを合わせなくても、砂嵐のような信号が常に流れている。

このことは、私たちが現実をそのまま受け取っているわけではないという事実を、もっとも身近なかたちで教えてくれる。世界は光と色でできているように見える。しかしその光と色の一部は、あなたの神経系が勝手に作り出したものだ。

目を閉じたとき見えるあのちらつきは、視覚システムの欠陥ではない。あなたの脳が、何もないところからでも世界を構成しようとする、その営みの痕跡だ。ノイズは意識という現象の副産物であり、それを完全に除去することは、見ることそのものをやめることと同義かもしれない。

まとめ

人間の目には常にノイズがある。Eigengrauという固有の灰色、光視症、ブルーフィールド内視現象、暗順応時の熱ノイズ。カメラのセンサーにも暗電流ノイズがあるように、信号を受け取る装置がある限り、ノイズはゼロにならない。

そして脳は、そのノイズを消すのではなく、意味に変換しようとする。見えないところは補完し、ノイズからはパターンを探す。私たちが見ている世界は、外界の忠実なコピーではなく、脳が能動的に構成した映像だ。

目を閉じてみてほしい。あの灰色の揺らぎが、あなたの視覚システムが今も動き続けている証拠だ。

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