壊れた時計が正しい時刻を指す偶然

あなたは時計を見た。3時だった。そして実際に3時だった。あなたは時刻を知っていた。

ただし、その時計は12時間前に止まっていた。

あなたの信念は正しかった。根拠もあった。時計を見るという、これ以上ないほど日常的で合理的な行為に基づいていた。そして偶然、ちょうどその瞬間だけ、壊れた時計が正しい時刻を指していた。

あなたは時刻を「知っていた」のか。

たった3ページで崩れたもの

2400年ほど前、プラトンは『テアイテトス』のなかで知識の条件を整理した。知識とは「正当化された真なる信念」(Justified True Belief) である。すなわち、それを信じていて、それが真であり、その信念に正当な根拠がある。この三条件が揃えば、それは知識だ。

2000年以上、この定義はほぼ疑われなかった。

1963年、エドマンド・ゲティアという哲学者が、学術誌 Analysis にわずか3ページの論文を発表した。タイトルは "Is Justified True Belief Knowledge?"。何も確かではないことを示すのに、3ページあれば十分だった。

ゲティアが示したのは単純なことだ。三条件をすべて満たしながら、直感的には「知識」とは呼べないケースが存在する。正当化された真なる信念は、知識の十分条件ではない。

原典の反例は少し抽象的なので、よく引かれる翻案を見てみよう。スミスとジョーンズが同じポストに応募している。面接官がスミスに「ジョーンズが採用される」と伝え、スミスはジョーンズのポケットに10枚のコインがあるのを目撃した。スミスは「ポケットに10枚のコインを持っている人物が採用される」と推論する。正当な推論だ。ところが実際にはスミス自身が採用され、しかも偶然スミスのポケットにも10枚のコインが入っていた。「ポケットに10枚のコインを持っている人物が採用される」は真であり、スミスはそれを信じており、正当な根拠もあった。

だが、スミスはそれを「知っていた」のか。

知っていたとは言いたくない。何かが決定的にずれている。

修理を試みた人々

ゲティアの論文以降、認識論者たちは「第四条件」を見つけようとした。JTBに何かを付け足せば、偶然性を排除できるはずだと。終わらない議論の果てに立つということで書いたように、定義を求めることが哲学の宿命なのだとすれば、ゲティア以降の認識論はその宿命に最も忠実な分野のひとつかもしれない。

ロバート・ノージックは「追跡条件」を提案した。知識であるためには、もしそれが偽であったなら信じていなかっただろう、という反事実的条件が必要だと。壊れた時計の例では、実際の時刻が3時でなかったとしても、あなたは壊れた時計を見て3時だと信じていただろう。だからこれは知識ではない。一見うまくいく。しかしノージックの条件にも反例が見つかった。

アルヴィン・ゴールドマンは「信頼可能主義」を提唱した。信念が知識であるためには、信頼できるプロセスを通じて形成されなければならない。壊れた時計は信頼できないプロセスだ。だが「信頼できる」とは何か。どの程度の信頼性で十分なのか。線はどこにもなかった。ここにも境界は見つからない。

アーネスト・ソーサは「安全性条件」を提案し、ティモシー・ウィリアムソンは発想そのものを転換した。知識を信念から組み立てるのをやめ、知識をそれ以上分析不可能な基礎概念として扱う「知識第一」アプローチを『Knowledge and its Limits』(2000) で展開した。

60年以上にわたって、あらゆる修正案に新たな反例が発見されてきた。パッチを当てるたびに、別の場所から水が漏れる。

知っていることと正しいこと

なんだかおかしな話になってきた。知識と「たまたま正しかった信念」の間に、実践的な違いはあるのだろうか。

道に迷って誰かに聞く。教えられた通りに歩いたら目的地に着いた。その人がでたらめを言っていて、偶然正しかっただけだとしても、あなたは目的地に着いている。結果は同じだ。

プラトンは『メノン』(97a-98b) でまさにこの問いを扱っている。ラリッサへの道を知っている人と、正しく推測した人とでは、目的地に着くという点で差がない。しかしプラトンは、知識のほうが「繋ぎ止められている」と答えた。正しい信念は風に吹かれて消えるが、知識は理由によって固定されている、と。

だがゲティアが示したのは、その「理由による固定」すら偶然に支えられている場合があるということだった。繋ぎ止めたはずの鎖が、別のものに繋がっている。

あなたは赤を知らない。フランク・ジャクソンのメアリーの部屋が問うたように、命題的知識がすべてを尽くしているのかどうかすら定かではない。知識の「中身」が何であるかについて、哲学は未だに合意に達していない。

文化が揺らす直感

2000年代に入って、実験哲学 (experimental philosophy) と呼ばれる潮流が、ゲティア問題に新しい角度から光を当てた。

ジョナサン・ワインバーグ、ショーン・ニコルズ、スティーヴン・スティッチらの研究 (2001) は、ゲティア・ケースに対する直感が文化的背景によって異なりうることを示唆した。西洋的な教育を受けた被験者は「これは知識ではない」と判断する傾向が強いが、東アジア的な背景を持つ被験者ではそうとも限らないという。

この研究には方法論上の批判もある。質問の仕方や翻訳が結果を左右するという指摘があり、追試で差異が再現されないケースも報告されている。だが問い自体は残る。「知識とは何か」は普遍的な問いなのか、それとも特定の伝統のなかで育まれた概念的直感に依存した問いなのか。

もし後者なら、ゲティアが揺らしたのは知識の定義だけではない。「知識とは何かを問うこと」そのものの普遍性が揺らいでいる。

「知っている」と言うとき

日常生活であなたが「知っている」と言うとき、ゲティアのことなど考えていない。明日の天気を「知っている」、友人の名前を「知っている」、パスワードを「知っている」。これらの「知っている」は、哲学的に厳密な意味での知識でなくとも、十分に機能している。

だが本当にそうだろうか。

天気予報の根拠データにエラーがあった。偶然明日は晴れた。あなたは天気を「知っていた」のか。試験でヤマを張った。正解した。それは知識か、運か。あなたの日常は、どれだけの「偶然正しかっただけ」で支えられているのだろう。

灯りと不在で意識の存在が問われたように、「知る」という行為の輪郭もまた、近づくほどにぼやけていく。知識は意識と同じくらい身近で、同じくらい不可解なものかもしれない。

問いが壊したもの

ゲティアの論文は3ページしかない。脚注もほとんどない。しかしあの3ページは、「知っている」という言葉の重みを永久に変えてしまった。

知識の定義を修正しようとする試みは60年以上続いている。どの修正案にも反例が見つかる。あなたのそばに誰もいないように、他者の心の存在すら確かめようがないのだとしたら、「知っている」と自信を持って言えるものなど、はじめからなかったのかもしれない。

あなたがこの文章を読んで「ゲティア問題を理解した」と感じたとする。その理解は正当化された真なる信念だろうか。あるいは、偶然この文章がそれなりに正しいことを書いていただけかもしれない。確かめる術はない。

壊れた時計は、一日に二度だけ正しい。

あなたの知識が正しいのも、たぶん、それくらいの頻度だ。

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