正直は美徳ではない

あなたは今日、何回嘘をついた?

数えられたとしたら、それ自体が嘘だ。数えられなかったなら、それが答えだ。

私たちは嘘をつく。朝起きて「元気です」と言い、興味のない話に「へえ」と頷き、鏡の前で「まあ悪くない」と自分を騙す。息をするように嘘をつく。そしてそのことに罪悪感を覚えない。覚えてしまったら生きていけないからだ。

この文章は、嘘をつくなという説教ではない。正直であれという美談でもない。嘘と正直について私たちが語るとき、その言葉がどれほど曖昧で、どれほど頼りなく、どれほど何も解決しないかを、静かに、絶望的に、確かめるだけだ。

答えはない。最初から。

沈黙は嘘より静かに刺す

「嘘をつかない」ことと「本当のことを言う」ことは同じではない。

友人の髪型が似合わないと思ったとき、「似合わないよ」と言わなかったとする。嘘はついていない。でも、本当のことも言っていない。この沈黙は正直だろうか。

私たちの日常は、この種の沈黙で満ちている。言わないことで守られる関係。触れないことで維持される平和。それは優しさかもしれない。でもそれは同時に、真実を意図的に隠しているという点で、嘘の親戚だ。

「嘘をついていない」という自己弁護ほど巧妙な嘘もない。何も言わなかったことは、何かを言ったことと同じだけの重さを持つことがある。そしてたちが悪いことに、沈黙した本人だけがそれを知っている。誰にも見られていなければ、その沈黙すら必要なくなる。

正直と不正直のあいだには広大なグレーゾーンが広がっている。私たちのほとんどはそこに住んでいる。そしてそこに住んでいることすら認めたがらない。

殺人者の前でも正直であれ

1797年、カントはひとつの極端な問いに答えた。

友人があなたの家に逃げ込んでくる。直後、殺意を持った人間が戸口に立ち、「あなたの友人はここにいるか」と尋ねる。友人は奥の部屋にいる。

カントの答えは明快だった。嘘をついてはならない。

「人間愛からする嘘をつく権利と称されるものについて」と題されたこの論文で、カントはこう論じた。嘘は、たとえ善意からであっても、真実を語るという義務そのものを掘り崩す。嘘をつくとき、人は相手を目的ではなく手段として扱い、理性の法則に背く。ひとつの嘘が許されれば、あらゆる嘘に道が開かれる。それは個人の道徳にとどまらず、契約に基づく権利の基盤そのものを掘り崩す、と。

フランスの政治思想家バンジャマン・コンスタンはこれに異を唱えた。真実を聞く権利は、すべての人間に無条件に与えられるものではない。殺意を持ってやってきた人間にその権利はない。したがって、嘘をつくことが常に道徳的に禁じられるとは限らない、と。

論理としては一貫している。厳格で、美しいとすら言える。でも、目の前で友人が殺されようとしているとき、殺人者に正直に答えることが道徳的だと、心の底から信じられるだろうか。

最も厳密な道徳哲学でさえ、たった一つの具体的な場面で、私たちの直観と真正面からぶつかる。そもそも善も正義もないのだとすれば、ぶつかる相手すらいなかったのかもしれないが。二百年以上、この論争に決着はついていない。つかないまま、私たちは毎日嘘をつき続けている。

優しさと欺瞞は見分けがつかない

「似合うね」

そう言ったとき、本当にそう思っていただろうか。思っていなかったとして、それは悪いことだっただろうか。

社交辞令、お世辞、場の空気を読んだ発言。私たちはそれを「マナー」や「気遣い」と呼ぶ。でも構造的に見れば、事実と異なることを意図的に伝えている点で、それは嘘と地続きだ。

功利主義の観点に立てば、結果として相手が喜び、関係が円滑になるなら、その嘘には正当性がある。嘘によって幸福の総量が増えるなら、道徳的にむしろ正しい行為だ、と。

しかしこの論理は、ある問いに何も答えていない。幸福のために嘘が許されるなら、どこまでの嘘が許されるのか。小さな嘘は許される。大きな嘘は許されない。その境界線はどこにある? 誰が引く? そしてその線引き自体が恣意的な嘘ではないと、誰が保証する?

映画はこの問いを、笑いと皮肉で包んで何度か描いてきた。『ライアーライアー』(1997年)では、一日だけ嘘がつけなくなった弁護士の口から真実が容赦なく漏れ出す。『The Invention of Lying』(2009年)は、そもそも嘘という概念が存在しない世界を描く。デートの相手に「魅力を感じない」と言い、老人ホームで「もうすぐ死にます、その先には何もありません」と平然と告げる世界。どちらの映画も、嘘のない世界をユートピアとしては描かなかった。完璧な幸福が全部嘘だったとして、あなたはその幸福を手放すか。たぶん、手放さない。

もしすべての社交辞令が消えたら。すべてのお世辞が消えたら。すべての「空気を読む」行為が消えたら。残るのは、効率的で、合理的で、そしてどうしようもなく居心地の悪い世界だ。

優しさのために嘘をつく。でも優しさのための嘘が許されるなら、優しさと嘘の区別はどこにあるのだろう。その境界で優しい人から壊れていく。あるいは、最初から区別などなかったのかもしれない。

自分だけが観客の芝居

他人につく嘘には、少なくとも相手がいる。ばれる可能性がある。指摘される可能性がある。

でも、自分自身につく嘘は、誰にも見破られない。だからこそ、最もたちが悪い。

サルトルは『存在と無』(1943年)で、自己欺瞞(mauvaise foi)の構造を描いた。人間は根源的に自由な存在である。何を選び、何をするかは、究極的には自分に委ねられている。でもその自由はあまりに重い。だから人は、自分が自由であることを自分に対して隠す。

「仕方がなかった」「選択の余地がなかった」「自分はそういう人間だから」

サルトルに言わせれば、これらはすべて自己欺瞞だ。自由から逃げるために、自分自身に向けてつく嘘。自分で仕掛けた罠に自分ではまり、はまっていることに気づかない。あるいは気づいていながら、気づいていないふりをする。嘘をついている自分と、騙されている自分が同一人物だという、奇妙で完璧な構造。もっとも、その「自分」が本当に何かを選んでいるのかどうかは、また別の深淵だ。

でも、こう問いたくなる。自分に嘘をつかずに生きることは、本当に可能だろうか。自分の弱さ、ずるさ、醜さをすべて直視して、それでも平然としていられる人間が、この世にどれだけいるだろう。

自己欺瞞は、壊れないための最後の防衛線なのかもしれない。

だとすれば、自分に正直であることは、美徳ではなく、破壊だ。

正直な世界は三日で沈む

もし明日から、すべての人間が一切嘘をつけなくなったとしたら。

最初の数時間で、無数の関係が壊れる。「本当は好きじゃなかった」「ずっと退屈だと思っていた」「あのとき許したと言ったけど、許していない」。言わなかったことが一斉にあふれ出す。

数日もすれば、人は会話そのものを避けるようになるだろう。本当のことしか言えないなら、何も言わない方がましだ。沈黙が世界を覆う。でも、最初に書いたように、沈黙もまた嘘の一形態だとしたら、結局、嘘のない世界にはたどり着けないことになる。

嘘をつけない世界は、正直な世界ではない。ただ、静かで、冷たくて、誰もが孤立した世界だ。

嘘が人間関係を壊すのではない。嘘がなくなることが、人間関係を壊す。そもそも私たちは隣にいる人間を知りえないのだから、壊れるものが最初からあったのかすら怪しいが。

誰も正直には生きられない

嘘をついてはいけないのか。正直に生きるべきなのか。どちらが誠実で、どちらが欺瞞なのか。

カントに聞いても、功利主義に聞いても、サルトルに聞いても、返ってくるのは別の問いだけだ。哲学はこの問いに二千年以上取り組んできて、出した答えは「もっと複雑だ」という一言に要約できる。

私たちは嘘をつく。嘘をつきながら愛し、嘘をつきながら信頼し、嘘をつきながら「正直でありたい」と願う。その矛盾を抱えたまま、明日もまた「元気です」と答える。

もしこの文章を読んで、少しでも居心地が悪くなったのだとしたら、それはたぶん正直さに最も近い感覚だ。

でも、それすらも嘘かもしれない。

あなたがいちばん頻繁に嘘をついている相手は、誰だろう?

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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