高知周遊 I 柏島&四万十川

高知周遊 I 柏島&四万十川
海辺をエンジョイ!

大学の友人の勧めで柏島に行ってきました。

東京湾に見慣れた身なので、ちょっと信じられないぐらいきれいでした。

とりあえず目の前にあった船を撮ってみた

わお!浮いてるだけの船すらも絵になる!

足もとをのぞき込んで撮ってみる
野生のイルカを初めて見ました。

野生のイルカっているんですねえ、かわいい。

緑がかった青色がいいですねえ。
斜めから撮ると透明なのがよくわかる
斜めから見る感じが一番海水の青っぽさが感じられていいですね。
水底が見えるほど透明な海水ってすごい。
至近距離で見たらほんとに透明な水です。

てか、透明しか言ってないな、おい。

「アロハロメオ」、ナイスな名前。
海岸なので当然水遊びに来ている家族もいました。

海底がきれいなので澄んで見えるだと友人は言ってました。
なるほどぉ。

四万十川へ

せっかくなので、四万十川によって帰ります。

スローシャッターって楽しいよね

道が狭い!友人のハンドルさばきを信じて。

水辺でよく見る感じのかわいい花

ちょうど梅雨明けしたぐらいにいったのですが、なんか花が咲いててきれいでした。

沈下橋で有名なので、一番有名なところに行きたく、佐田沈下橋(今成橋)という橋に向かいました。四万十川の最下流にある沈下橋ですが、最長とのことで290メートルあるそうです。

佐田沈下橋(今成橋)。290メートルあるらしい、へ~。
とりあえず撮るけど、なんか違うんだよなあ
四万十川の沈下橋とは、増水時に川に沈んでしまうように設計された欄干のない橋のことです。
四万十川の沈下橋について - 四万十市公式ホームページ

たしかに欄干がない。橋というより、なんか川の上にある道って感じね。

焦点距離を変えてみるけど……

市のWebサイトを見る限り、四万十川にはずいぶんたくさんの橋があるので、また暇な時にでも見に行ってみたいナ。

四万十川の沈下橋について - 四万十市公式ホームページ
どう?この清流!
河は海と違った雰囲気でいいね
はじっこにも寄りかかる部分がありませんから、ずるっと落ちそうで怖い

行ったときは水位が低くてこんなもんです。

正直増水しても川に沈むなんてことがあるのか。

水の流れが緩やかな場所
キラッて感じを撮りたかった
反射を避ければこんな感じ

やっぱり、川の雰囲気というか感じも違っていいね。活力ある感じ。いいわ。

とはいえども江戸川や利根川と比べ物にならないぐらいきれいで、こちらまで清らかになりそう。

向こう岸にはなんか絵になる船が。
水面が緑っぽいのがいいねぇ
ちょっと風情ある感じに。
その手前には文明が。
パノラマ風
梅雨明け、というより爽やかな夏?

夏とかに来たら緑とのコントラストで雰囲気が変わるのかな。
秋に来ても紅葉できれいに見えそう。

たしかに水底が暗いからですかね、水は透明なのですが、海みたいなきらびやかな綺麗さが感じられませんね。

よく見ると、謎のペットボトル製のわなが。

綺麗な河原っていいね~。

帰路につく

四万十川を出発する助手席から。
夕日と映り込みたそうにしている某マスコット

お家に帰るまでが遠足。

やっぱりこっちは水辺がきれいだね!

季節を変えて、また行きたい!

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu