京都一日ぶらり旅

京都一日ぶらり旅

大阪に向かう用事があったので、前日を利用して京都を一日観光します!

京都には新幹線で!

始発に乗り込むために、朝はやい!
品川で乗り換えです
のぞみ99号!乗り換え時間は、5分!
乗ってしまえば、あとは快適
びゅーん
あっという間に京都!
ワクワク!
修学旅行ぶりに見たぞ!このサイン!
新幹線、たのしかった!
とはいえ、もう8時。
駅構内に観光案内所があるのね
8:30からのオープン

観光案内所が開くまでは、京都駅をぶらぶら。

朝日が入る様子がかっこいいなあ
幾何学的な美しさを感じるね
パキっと、モダンな感じ

観光案内所ではパンフレットや地図、一日券を手に入れて、いざ京都を遊ぶぞ!

清水寺

スカイツリーとはまた違う。にゅっとした感じね
市内を遊びに地下鉄へ
この電光掲示板見やすい~
きょうと
センスのある車内広告( *´艸`)
烏丸御池へ
ここからはバスで
清水寺を目指す

長ーい坂を上って、ようやく清水寺へ。

お~!修学旅行の集合写真の思い出が。
何もかもが綺麗な雰囲気を帯びてるね
朱色が実にキレイ
世界文化遺産なだけある
赤・青・緑
なんと涼やかな道なんだろう
音羽の瀧
百鬼夜行、魑魅魍魎

八坂神社

京都は自販機もオシャレ
チルいファミリーマート

哲学の道

哲学専攻としてね。

銀閣寺

貴船神社行くぞ~!

交差点わきにあった入り口にビビった。
8番出口ってなるほど、たしかに。
こんなかわいい電車に乗ります
片道470円
ガタゴト揺られながら貴船神社へ
おしゃれな路線図
途中から大自然の中へと入っていく
貴船口
私が乗ったのはこの車両
自販機も同じデザインでかわいい
駅舎もとっても風情な感じ
シャトルバスがあった
熊?!
徒歩27分だそう、行きは歩いちゃうよ~
この小川に沿って歩いていく
左手を見れば、大自然
下ってくるバス
なにも、ない!
もう、あと少し
この景色が見たかった!
なんかアニメっぽい街灯
夜に、雰囲気がありそうだよね
帰りはバスに乗ります。片道200円
来た道。
駅がなんか道路に浮いているみたい。
帰りはおーいお茶みたいなデザインの車両に。
有斐閣?!びっくりした一枚
さーてどこへ行こうか。

天下一品総本店

天下一品総本店へ
おいしかった

岡崎神社

かわいいうさぎで有名な神社
いたるところにうさぎが

帰路につく

百均も控えめなデザインね
もう5時だ
はるかで帰ります
京都
はるか

お疲れ様でした

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu