大学で友達の作り方

「大学 友達 作り方」と検索している時点で、たぶんあなたは少し焦っている。入学式で周りがもう連絡先を交換している。昼食を一緒に食べる相手がいない。ガイダンスで隣の席の人に話しかけるタイミングを逃した。

結論から言う。いらない。

正確に言えば、「今すぐ作らなければならない」という前提が間違っている。大学における人間関係は、高校までとはまったく構造が違う。そしてその構造を理解すれば、焦る理由がないことがわかる。

「友達を作らなきゃ」という幻想

入学直後に友達を作れというプレッシャーは、どこから来るのだろう。

ひとつは高校までの延長だ。クラスがあり、担任がいて、席替えがあり、文化祭がある。同じ空間に長時間拘束されるから、人間関係は半ば自動的に生まれる。その感覚を引きずったまま大学に来ると、クラスがない、担任がいない、席が自由、行事への強制参加がないという環境に放り出されて途方に暮れる。

もうひとつはSNSだ。入学前から「同じ大学の人」とつながるグループが乱立し、入学式の日にはすでにグループができあがっているように見える。見えるだけだ。あの段階で形成される関係の大半は、利害や偶然の近接にもとづいた関係であり、環境が変われば静かに消える。入学式の日に交換した連絡先のうち、卒業まで残るものがいくつあるか。たぶん、片手で数えて余る。

焦る必要はない。あの熱気は蜃気楼だ。

一人でいることと孤立は違う

ここで大事な区別がある。

一人で講義を受けること、一人で昼食を食べること、一人で図書館にいること。これらは「孤独」ではない。少なくとも、問題のある状態ではない。ハンナ・アーレントはこの状態を solitude と呼んだ。一人でありながら自分自身と共にいる状態だ。思考が動き、集中が深まり、自分のペースで学べる。

問題になるのは isolation、つまり孤立だ。必要な情報が入ってこない。困ったときに相談できる相手がゼロ。助けを求める回路がどこにもない。これは確かにまずい。

しかし、孤立を防ぐために「友達」が必要かというと、そうでもない。大学には教員がいる。事務窓口がある。シラバスがある。公式サイトがある。学生支援の窓口がある。情報を得る手段は友人経由だけではない。むしろ公式の情報源に直接当たるほうが正確で早いことも多い。

孤独は治らない。それは人間の初期設定だ。しかし孤立は、仕組みで防げる。この二つを混同しないことが、大学生活の最初の知恵かもしれない。

ゼミに入るまでソロプレイで十分

大学の前半、特に1年次から2年次にかけては、大人数の講義が中心になることが多い。教室に数十人、場合によっては百人以上がいて、教員が一方向に話す。この環境で「友達を作れ」というほうが無理がある。

しかし3年次あたりになると、多くの大学ではゼミや演習が始まる。少人数で、同じテーマに関心を持つ学生が集まり、週に一度は顔を合わせ、議論し、発表し、互いの考えにコメントする。

ここで起きることは「友達を作る」ではない。同じ問いを共有する人間が、自然と会話を始める。それだけだ。意図的に距離を詰める必要はない。同じテキストを読み、同じ問題に頭を悩ませ、同じ教員から同じ指摘を受ける。その共有された経験が、関係の土台を勝手に作る。

これは入学式の日にSNSで交換した連絡先とはまったく違う種類のつながりだ。共通の利害や偶然の近接ではなく、共通の知的関心に根ざしている。だからゼミが終わった後も続きやすい。

つまり、大学における人間関係は、前半は薄く、後半に自然と濃くなる。これは大学の構造がそうなっているだけであって、あなたのコミュニケーション能力の問題ではない。

無理に作った関係のコスト

「とりあえず友達を作っておこう」という判断は、一見すると安全策に見える。しかしコストがある。

まず時間だ。大して興味のない飲み会に参加し、大して話したくない相手と会話を続け、大して行きたくない場所に同行する。その時間で何ができたかを考えると、代償は小さくない。

次に自分の輪郭だ。周囲に合わせて振る舞ううちに、自分が何に関心を持ち、何を面白いと思い、何を大事にしているのかが曖昧になる。大学は、高校までとは違い、自分で時間割を組み、自分で学ぶ内容を選び、自分でペースを決められる場所だ。その自由を、人間関係の維持コストで埋めてしまうのはもったいない。

近づくほどに遠ざかるものという厄介な構造がある。人間関係を深めようとするほど、思い通りにならない現実に直面し、かえって距離を感じるようになる。最初から深い関係を求めず、自分の学びと生活を整えることに集中したほうが、結果的に良い関係にたどり着く可能性は高い。

それでも寂しいなら

寂しさを感じること自体は、何も悪くない。進化の過程で人間に組み込まれた生存アラームの一種だ。群れからはぐれた個体は生存率が下がるから、はぐれたことを知らせる感覚が発達した。つまり寂しさは正常な反応であって、あなたの欠陥ではない。

ただし、そのアラームに従って無理に人間関係を作りにいく必要はない。寂しくなったら旧友に連絡を取ればいい。高校の友人、中学の友人、幼馴染。すでに時間を共有した相手との関係は、新しく作る関係よりもずっと低コストで再起動できる。

大学で新しい友人を作ることに価値がないと言いたいのではない。ただ、それは意図的に「作る」ものではなく、共通の経験と関心のなかから自然に「生まれる」ものだ。生まれるタイミングは人それぞれであり、入学式の翌日でなければならない理由はどこにもない。

まとめ

大学で友達を作る方法。答えは「作ろうとしないこと」だ。

前半はソロプレイで十分。講義に出て、図書館で学び、自分のペースで大学という環境に慣れればいい。後半、ゼミや演習が始まれば、同じ関心を持つ人間と自然に出会う。その出会いのほうが、入学式のSNS交換よりもずっと確かだ。

焦る必要はない。一人でいることは失敗ではない。大学は、一人でいることが許される数少ない場所だ。誰も学びを測れないように、友人の数で大学生活の価値を測ることもできない。

あなたのペースで、あなたの大学生活を。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu