存在するものは何もなかった

あなたの目の前に机がある。

そう思っている。木の板と四本の脚。引き出しの中には文房具。表面にはコーヒーの染み。それを「机」と呼ぶことに、誰も疑問を持たない。

だが、メレオロジカル・ニヒリズムはこう言う。机は存在しない。

板も脚も引き出しも存在しない。あるのは素粒子の配列だけだ。「机」とは、ある特定のパターンで並んだシンプルズ(それ以上分割できない最小単位)に、人間が貼りつけたラベルにすぎない。複合的な物体は存在しない。部分が集まって「一つのもの」を構成することは、決してない。

これはメタファーではない。文学的な誇張でもない。分析哲学の中で真剣に擁護されている存在論的立場だ。そしてこの立場を受け入れると、哲学の古典的パラドックスのいくつかが、問いとして成立しなくなる。

問いは最初から壊れていた

メレオロジカル・ニヒリズムが応答しようとしている問いがある。特殊構成問題(Special Composition Question)と呼ばれるものだ。

ピーター・ヴァン・インワーゲンが1990年の Material Beings で定式化したこの問いは、こう尋ねる。「二つ以上のものが集まって、一つの複合的な物体を構成するのは、いつか」。原子が集まって「机」を構成するのはいつか。細胞が集まって「人間」を構成するのはいつか。どこに線を引けるのか。

この問いに対して、いくつかの立場がある。

普遍主義は、任意の物体の集まりが常に一つの複合体を構成すると答える。あなたの左手とエッフェル塔は、一つの物体を構成している。論理的には一貫しているが、存在論が爆発する。

ヴァン・インワーゲン自身は有機体論を提案した。部分が「一つの生命」を構成するときに限り、複合体が存在する。机は存在しないが、あなたは存在する。だが、なぜ生命だけが特権的な構成条件なのか。その線引きの根拠は、結局のところ恣意的に見える。

境界を引こうとするあらゆる試みが、同じ問題にぶつかる。どこに引いても、「なぜそこなのか」という問いが残る。線はどこにもなかった。最初からなかった。

ニヒリストの答えは単純だ。「決して」。部分が集まって一つのものを構成することは、決してない。シンプルズだけが存在する。この答えは直感に反するが、線引きの問題を根本から消去する。

船は最初からなかった

テセウスの船を考える。すべての板を一枚ずつ交換していったとき、それは「同じ船」か。取り外した板で別の船を組み立てたら、どちらが「テセウスの船」か。

ニヒリストにとって、この問いは成立しない。「船」は存在しないからだ。存在するのは、ある時点では特定のパターンで配列されたシンプルズであり、別の時点では別のパターンで配列されたシンプルズだ。「同じ船か」と問うことは、最初から存在しないものの同一性を問うことであり、答えがないのではなく、問いそのものが空虚だ。

同じことがソリテスのパラドックスにも当てはまる。砂粒を一粒ずつ取り除いていったとき、「砂山」はいつ砂山でなくなるか。ニヒリストの答えは明快だ。砂山は最初から存在しなかった。あったのは砂粒の集まりだけで、「砂山」という複合体はどの時点でも存在していなかった。だから「いつ砂山でなくなるか」という問いは、砂を数える以前に崩壊している。

彫像と粘土の問題も同様だ。粘土で彫像を作ったとき、彫像と粘土は同じ物体か、異なる物体か。ニヒリストにとって、彫像も粘土の塊も存在しない。あるのはシンプルズの配列だけだ。二つの「物体」の関係を問う必要がない。一つも存在しないのだから。

テッド・サイダーやコディ・ドーアは、この「問題解消」の力をニヒリズムの主要な利点として挙げてきた。ニヒリズムは問題を解くのではない。問題が存在しなかったことを示す。

嘘をつき続ける言語

ここで当然の反論が来る。「でも、目の前に机があるだろう」。

ニヒリストはこれを否定しない。正確に言えば、日常的な発話としての「机がある」を否定しない。ニヒリストが提案するのは、パラフレーズ戦略だ。「机がある」という文は、厳密には「シンプルズが机状に配列されている(there are simples arranged tablewise)」の省略形として理解される。日常言語は便利な短縮表現として使い続けることができる。ただし、その言語が指し示す「もの」は存在しない。

この戦略は一見うまくいくように見える。だが、アンドリュー・ブレナーが2015年の論文で指摘したように、パラフレーズには限界がある。「机状に配列されている」という表現自体が、「机」という概念を前提としている。「机」が何であるかを知らなければ、何が「机状」であるかもわからない。ニヒリストは存在しないものの概念を使って、存在しないものの不在を記述しなければならない。

言語そのものが複合体の存在を前提として構築されている。主語と述語の構造が、「もの」が「ある」ことを暗黙に要求する。ニヒリストは、自分の立場を表現するために、自分の立場が否定する前提に依存した言語を使わなければならない。

これは致命的な矛盾か。ニヒリストはおそらくこう答えるだろう。言語の構造は存在論的コミットメントを含まない、と。「太陽が昇る」と言うことは、太陽が地球の周りを回っていることへのコミットメントではない。同様に、「机がある」と言うことは、机の存在へのコミットメントではない。だが、この防衛線がどこまで持ちこたえるかは、明らかではない。

あなたという配列

ニヒリズムを物体に適用することは、まだ受け入れられるかもしれない。机が存在しなくても、日常生活に支障はない。だが、ニヒリズムは物体に限定されない。

あなたも複合体だ。

細胞の集合、器官の集合、原子の配列。ニヒリズムに従えば、「あなた」は存在しない。あるのはシンプルズが人間状に配列されたパターンだけだ。どこが私なのかという問いは、問いとして成立しない。「私」が存在しないのだから。

これはデレク・パーフィットの還元主義的な人格同一性論と共鳴する。パーフィットは Reasons and Persons(1984)で、人格の同一性は「さらなる事実」ではないと論じた。存在するのは身体的・心理的連続性であり、それらの連続性の上に「人格」という追加的な実体が乗っているわけではない。ニヒリズムはこの見方をさらに推し進める。身体的連続性を担う「身体」自体が存在しない。

意識はどうか。ニューロンを一つずつシリコンチップに置換していったとき、意識は気づかないまま消えるのか、それとも保たれるのか。この問いもまた、「脳」という複合体の存在を前提としている。ニヒリストにとって脳は存在しない。ニューロンも、厳密にはニューロンとして存在しない。あるのはシンプルズの配列であり、その配列パターンが変化するだけだ。

では意識は存在するのか。灯っているのか消えているのか。ニヒリストは意識を必ずしも否定しない。デイヴィッド・コーネルは2017年の論文で、ニヒリストであっても創発的性質を認めうると論じた。シンプルズの配列が十分に複雑になったとき、個々のシンプルズには還元できない性質が生じる可能性がある。ただし、その性質の「担い手」となる複合体は存在しない。誰のものでもない意識。所有者のいない経験。これがニヒリズムの帰結だとすれば、ニヒリストは存在論をすっきりさせる代わりに、意識の問題をさらに奇妙な場所に押しやっている。

二千年早かった空

ここまでの議論は、すべて西洋の分析哲学の枠組みの中で行われてきた。だが、驚くほど類似した思索が、約二千年前にすでに展開されていた。

ナーガールジュナ(龍樹、2世紀頃)の中観派(マーディヤマカ)は、すべての存在は空(シューニヤター)であると説いた。「空」とは、いかなるものも独立した自性(スヴァバーヴァ)を持たないということだ。机は空である。人間は空である。空それ自体も空である。

これは単なる表面的な類似ではない。ナーガールジュナの議論の構造は、メレオロジカル・ニヒリズムと驚くほど重なる。車は部品の集合か。部品を全部取り除いたとき、車はどこにあるか。部品の中にも、部品の外にも、部品の総体としても、車は見つからない。これは Mūlamadhyamakakārikā(中論)における分析の典型的なパターンであり、ヴァン・インワーゲンの特殊構成問題と本質的に同じ問いを立てている。

ただし、重要な違いもある。ナーガールジュナにとって、空の洞察は苦からの解放につながる。執着の対象が実体を持たないと悟ることが、執着そのものを解体する。西洋のニヒリズムにはこの解放の契機がない。ニヒリストは複合体の不在を主張するが、その不在から何が帰結するかについては沈黙している。存在論的な主張にとどまり、倫理的・実践的な含意に踏み込まない。

あるいは、踏み込めないのかもしれない。踏み込むためには、「誰が」解放されるのかを問わなければならず、その「誰か」は存在しないのだから。

配列だけが残る

メレオロジカル・ニヒリズムは、存在論を極限まで切り詰める試みだ。複合体を認めないことで、構成の問題を消去し、同一性のパラドックスを解消し、存在するものの目録をシンプルズだけに限定する。

その代償は小さくない。日常言語の全面的な再解釈。人格概念の放棄。「もの」が「ある」という最も基本的な直感の否定。コディ・ドーアはかつてこう書いた。「厳密に言えば、私はキッチンに皿があると信じてはいない」。哲学者がキッチンに立って、皿の不在を真顔で主張する。これがニヒリズムの風景だ。

だが、ニヒリストの主張を反駁することは、見かけほど容易ではない。「でも机はあるだろう」と指差すことは、反論にならない。それは地動説に対して「でも太陽は動いているだろう」と言うのと同じだ。直感は証拠ではない。

あなたが今読んでいるこのテキストも存在しない。ピクセルの配列、電子の流れ、シンプルズのパターン。そこに「記事」という実体はない。あなたがこのテキストを理解しているとしても、理解している「あなた」は存在しない。

底が抜けたのは集合論だけではなかった。世界のほうだった。残ったのは、並んでいるだけの、黒い点の列だ。

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