サークルに入らない学生はどこに居場所を作るのか

4月。キャンパスのあちこちで新歓ビラが配られる。「一緒にやりませんか」、「見学だけでもどうぞ」。大学生活の最初の数週間は、どこかに所属することへの圧力で満ちている。

しかし、サークルに入らない学生は決して少数派ではない。入らない理由も様々だ。興味のあるサークルがなかった。時間がなかった。人間関係が面倒だった。たまたまタイミングを逃した。いずれにせよ、新歓期を過ぎた後、サークルに入らなかった学生は一つの問いに直面する。

自分の居場所を、どこに作るのか。

居場所は所属先ではない

「居場所がない」と言うとき、多くの場合、それは「所属するグループがない」という意味で使われている。しかし、居場所と所属先は同じものではない。

所属先は、名前のある組織だ。サークル、部活、学生団体。入会届を出し、定例の活動に参加し、メンバーとして認知される。一方、居場所はもっと曖昧なものだ。図書館のいつもの席。学食の隅の静かなテーブル。毎週同じ時間に顔を合わせるゼミの仲間。名前がなくても、そこに「いていい」と感じられる場所は居場所になりうる。

所属先がなくても居場所はある。逆に、所属先があっても居場所がないこともある。サークルに入ったものの馴染めず、活動に行くたびに疎外感を覚えるなら、それは居場所とは呼べない。

サークル以外の選択肢

サークルに入らない学生が実際に居場所にしている空間は、いくつかの類型がある。

ゼミ。3年生以降に所属する少人数のゼミは、最も居場所になりやすい環境の一つだ。週に一度、同じテーマについて議論する。指導教員との距離も近い。サークルのように大人数で活動するのが苦手な人にとって、ゼミの規模感はちょうどいい。

バイト先。アルバイトは、大学の外に居場所を作る最も一般的な方法だ。年齢も学部も異なる人たちと、共通の業務を通じてつながる。大学内の人間関係とは異なる文脈の中で、自分の役割を持てるという安心感がある。

図書館の定位置。毎日同じ時間に同じ席に座っていると、隣に座る人も自然と固定化してくる。言葉を交わすわけではないが、「いつもの人」として互いに認知し合う。それだけで、空間に対する帰属感が生まれる。

オンラインのコミュニティ。趣味や関心を共有するSNS上のグループは、物理的な制約を超えた居場所になりうる。ぼっちで過ごす大学生活が本当に詰むパターン・詰まないパターンで書いたように、情報の孤立さえ避ければ、オンラインのつながりは実用的にも精神的にも機能する。

弱い紐帯の価値

1973年、社会学者マーク・グラノヴェッターは「弱い紐帯の強さ」という論文を発表した。親しい友人(強い紐帯)よりも、顔見知り程度の関係(弱い紐帯)のほうが、新しい情報や機会へのアクセスにおいて重要な役割を果たすという発見だ。

親しい友人は、自分と似た情報圏にいることが多い。同じサークルに所属し、同じ授業を取り、同じSNSを見ている。新しい情報が入ってくる余地は限られている。一方、たまに会う顔見知りは、自分とは異なるネットワークに属している。その人を通じて、まったく別の情報圏にアクセスできる。

サークルに入らない学生は、強い紐帯を作る機会が限られる代わりに、弱い紐帯を広く持てる可能性がある。ゼミの先輩、バイト先の同僚、図書館で顔を合わせる別学部の学生。一つの組織に深くコミットしていない分、多様な接点を持ちやすい。

もちろん、弱い紐帯だけでは満たされない欲求もある。悩みを相談できる相手、何もしなくても一緒にいられる相手。そうした関係は、弱い紐帯からは生まれにくい。しかし、強い紐帯はサークルでなくても作れる。ゼミの仲間、長く続けたバイト先の同僚、偶然知り合った一人の友人。居場所は数ではなく、質の問題だ。

大学の設計が前提にしているもの

新歓期の設計は、暗黙のうちにサークル所属を「正常」とし、非所属を「異常」として扱っている。新入生にビラを配り、体験入部を促し、「どこに入った?」と聞く。このプロセス全体が、「どこかに入るべきだ」というメッセージを発している。

近年、大学はこの前提を見直し始めている。ラーニングコモンズ、ピアサポート、フリースペースといった施設は、特定の組織に所属していなくても利用できる居場所として設計されている。サークルに入らない学生の存在を、設計に織り込もうとする動きだ。

しかし、こうした施設が本当に居場所として機能するかどうかは、設計だけでは決まらない。利用者同士の緩やかな関係性が生まれて初めて、空間は居場所になる。箱を用意するだけでは足りない。

一人でいるということ

孤独は治らないで書いたように、孤独と一人でいることは別の現象だ。大勢の中にいても孤独は感じうるし、一人でいても孤独を感じないこともある。

「ぼっち」という言葉には、一人でいることを不当に貶める力がある。サークルに入らず、昼食を一人で食べ、空きコマを図書館で過ごす。これは「ぼっち」なのだろうか。それとも、自分にとって最も快適な大学生活の形なのだろうか。

ソリチュードSolitude(積極的孤独)という概念がある。一人でいることを、欠落としてではなく、選択として肯定的に捉える考え方だ。創造的な作業、内省、集中した学習。これらは一人でいる時間にこそ可能になる。サークル活動が週に何回もあれば、こうした時間は必然的に削られる。

すべての人にとってサークルが最適解であるはずがない。自分にとっての居場所がどこにあるかは、自分で見つけるしかない。それがサークルの部室であれ、図書館の角であれ、自室のデスクであれ、バイト先の控室であれ。

居場所は見つけるものではなく

居場所は、探して見つかるものではないのかもしれない。

毎日通ううちに、いつのまにかそこが自分の場所になっている。最初は誰も知らなかった図書館の席が、半年後には「自分の席」になっている。バイト先の休憩室が、気がつけば一番リラックスできる場所になっている。

居場所は、時間が作るものだ。サークルに入らなかったことを後悔する必要はない。ただ、どこかに定期的に足を運ぶこと。それだけで、場所は少しずつ、あなたの居場所になっていく。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

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綱を引く手が一本ずつ消えていく

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

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