電脳空間のハエ

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ショウジョウバエの脳がコンピュータの上で再現され、仮想の体に接続されたら、歩き始めた。強化学習で訓練されたわけでも、行動規則をプログラムされたわけでもない。ニューロンの接続パターンをコピーしただけで、ハエは動いた。

何が起きたのか

2026年3月7日、サンフランシスコに拠点を置くEon Systems PBCが、デモンストレーション映像を公開した。同社の共同創設者であるAlex Wissner-Grossによれば、世界初の「身体を持つ全脳エミュレーション(embodied whole-brain emulation)」だという。

「全脳エミュレーション」とは、生物の脳の神経回路をニューロン単位、シナプス単位でコンピュータ上に再現し、動作させることを指す。「身体を持つ」とは、その脳のシミュレーションが物理法則に従う仮想の体に接続され、感覚入力を受け取り、運動出力を返す閉じたループを構成していることを意味する。

これまでにも脳のシミュレーションや体のシミュレーションは個別に存在した。線虫(C. elegans)の神経系を再現するOpenWormプロジェクトは約302個のニューロンで身体統合を試みてきた。DeepMindとJaneliaの共同研究はMuJoCo上でハエの体を強化学習で動かした。しかし、生物学的なコネクトーム(神経配線図)から導かれた脳のシミュレーションが、物理シミュレーションされた体を介して複数の行動を生み出した事例は、今回が初めてだとされている。

コネクトームという設計図

土台になったのは、FlyWireと呼ばれる国際共同プロジェクトが構築したショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)成体脳の完全な神経配線図だ。電子顕微鏡で脳を薄くスライスして画像を撮影し、人工知能と人間の手作業を組み合わせてニューロンを一本ずつ再構成した。最終的に約13万9千個のニューロンと、約5000万のシナプス結合がマッピングされている。

2024年、Eon Systemsの上級研究員Philip Shiuらは、このFlyWireコネクトームと機械学習によるニューロトランスミッター(神経伝達物質)予測を組み合わせ、ショウジョウバエの脳全体の計算モデルを構築してNatureに発表した。モデルに使われたのは「漏れ積分発火モデル(leaky integrate-and-fire model、略称LIF)」と呼ばれる、比較的単純なニューロンモデルだ。入力信号を蓄積し、少しずつ電荷を漏らし、閾値を超えたら発火する。それだけのルールで、12万5千を超えるニューロンと5000万のシナプス結合が動く。

この段階では脳だけのシミュレーションだったが、味覚ニューロンの活性化による摂食行動や毛づくろい行動の予測において、95%の精度で運動行動を再現できたと報告されている。

そして今回、この脳モデルがNeuroMechFly v2という物理シミュレーションフレームワーク上の仮想のハエの体に接続された。物理エンジンにはMuJoCoが使われている。感覚入力がニューロンに流れ込み、神経活動がコネクトーム全体に伝播し、運動指令が出力され、物理シミュレーションされた体がそれを実行する。知覚から行動への閉じたループが、全脳エミュレーションとして初めて成立した。

ここで強調しておきたいのは、この仮想のハエの行動が機械学習で獲得されたものではないという点だ。強化学習で報酬信号を与えたわけでも、正解の動きを教示データとして学習させたわけでもない。神経回路の配線図と神経伝達物質の種別という情報だけで、複数の行動パターンが発現した。

誰も歩き方を教えていない。配線が、最初から知っていた。

配線が決めていたのか

ここで立ち止まりたい。

配線図をコピーしただけで行動が再現されたということは、そのハエの行動が神経回路の構造によって大部分が決定されていたことを意味している。もちろん生きたハエの脳には、シナプスの可塑性、神経修飾物質の変動、環境からのリアルタイムな感覚フィードバックなど、今回のモデルが捨象した要素が数多くある。それでも、配線の構造だけでここまで行動が出てくるという事実は、重い問いを残す。

自由意志の問題だ。もし行動の多くが回路のトポロジーで決まるなら、生きたハエの振る舞いも、突き詰めれば配線と入力の関数にすぎないのだろうか。ハエに「選択」と呼べるものは、どれほどあるのか。そしてこの問いは、神経回路の規模がマウスやヒトへと拡大したとき、質的に変わるのか、それとも量的な違いでしかないのか。

意識の問いも避けて通れない。この仮想のハエは「何かを経験している」のだろうか。物理的な処理は走っている。行動も出力されている。しかし内側に主観的な体験があるかどうかは、外から確かめる術がない。行動としてはハエらしいのに、内側には何もないかもしれない。これはまさに、哲学で長く論じられてきた「哲学的ゾンビ」の問いが、思考実験の外に出てきた瞬間だ。誰もまだ死んでいないで論じたモラベックのパターン仮説、つまり人間の本質は物質ではなくパターンであるという考えは、今回のハエにおいて一つの具体例を得たことになる。パターンをコピーすれば行動は再現される。では、パターンをコピーすれば存在も再現されるのか。

現時点での限界

ただし、今回のLIFモデルにはシナプス可塑性がない。シナプスの結合強度は固定されたままで、経験によって変化しない。つまりこのデジタルのハエは、新しい記憶を形成できない。何かを学ぶこともできない。凍結された配線の上で入力に反応し続ける存在であり、ある意味では永遠に「今」しか持たない。

またLIFモデルは、実際のニューロンの振る舞いを大幅に簡略化したものだ。樹状突起の複雑な計算処理、グリア細胞の役割、神経ペプチドによる調節など、省略されている生物学的要素は多い。今回の成功は、配線構造の情報量がそれだけ豊富であることを示していると同時に、現在のモデルの限界も明確にしている。

Eon Systemsは次のステップとしてマウスの脳のエミュレーションを目指している。マウスの脳はおよそ7000万個のニューロンを持ち、ハエの約560倍の規模だ。拡張顕微鏡法による配線図の作成と、数万時間にわたるカルシウムイメージングおよび電位イメージングによる神経活動の記録を組み合わせ、データ収集が進められているという。その先には、ヒトの脳という最終的な目標がある。

まとめ

ハエの脳のコピーが仮想の体で歩いた。それだけのことだ。

しかしその「それだけ」の中に、行動は配線で決まるのか、意識はどこから生まれるのか、パターンをコピーすることは存在をコピーすることなのか、という問いが凝縮されている。何十年も思考実験として論じられてきたことが、実験データとして目の前に現れ始めた。

答えはまだ出ていない。ただ、問いの場所が変わった。哲学の教室から、シミュレーションのログファイルの中へ。

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