選んだはずの手が誰かに握られていた

あなたが「自分で選んだ」と思っているもののうち、本当にあなたが選んだものはいくつあるだろう。

カフェテリアの野菜が目線の高さに並んでいるのは偶然ではない。年金の自動加入がデフォルトになっているのは親切ではない。トイレの的に蝿が描いてあるのは遊び心ではない。すべて設計されている。そして設計者は、あなたの自由を奪っていないと主張する。選択肢は残してあるのだから、と。

2008年、経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンは『Nudge』を出版し、「リバタリアン・パターナリズム」という概念を世に送り出した。自由を守りながら、人々をより良い方向へ導く。その名前自体が矛盾を抱えている。自由主義と父権主義の婚姻。しかし誰もその矛盾を気にしなかった。あまりにもうまく機能したから。

世界中に500を超えるナッジ・ユニットが設立され、世界銀行も国連もこの手法を採用した。だが、ここにひとつの問いが残されている。「より良い方向」とは、誰にとっての、何のことなのか。

中立という幻想

サンスティーンの最も重要な指摘は、中立的な選択環境は存在しないということだった。カフェテリアの食品には必ず並び順がある。何かが先頭に来て、何かが奥に引っ込む。ウェブサイトには必ずデフォルト設定がある。何かがオンになっていて、何かがオフになっている。

これは正しい。そして、だからこそ厄介だ。

「ナッジするかしないか」ではなく「誰が、何のためにナッジするか」が問われるべきだ、とサンスティーンは言う。しかしこの論理には、ひとつの飛躍がある。中立が不可能だからといって、意図的な方向づけが正当化されるわけではない。雨が降ることと、誰かに水をかけることは違う。

コンビニで買い込んでしまうとき、それは棚の配置という選択アーキテクチャの産物だ。レジ横のお菓子、目線の高さの商品、動線の設計。あなたは「自由に」選んでいる。ただし、選択肢の提示順はあなたが決めたものではない。

自由の皮膜

リバタリアン・パターナリズムが自由を侵害しないと主張する根拠は明快だ。選択肢を奪わない。強制しない。罰則もない。オプトアウトはいつでもできる。

しかし、自由とは「選択肢が残されていること」なのだろうか。

哲学者たちが長く論じてきた自律(autonomy)の概念は、単に選択肢があることではなく、自らの理性と熟慮に基づいて判断を下す能力を指す。ナッジは選択肢を残すが、判断のプロセスそのものに介入する。システム1、つまり直感的・自動的な思考に働きかけ、システム2、つまり熟慮的な思考をバイパスする。

自販機の前で私たちが行う判断の大半は、すでにシステム1に支配されている。ナッジはその回路をさらに利用する。自由の形式は保たれているが、自由の実質は侵食されているのかもしれない。

エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』(1941)で、近代人が自由の重荷に耐えきれず権威主義に逃げ込む心理を描いた。ナッジは、その重荷を軽減してくれる善意の仕組みに見える。しかし別の角度から読めば、それは「自由からの逃走」を制度的に、かつ上品に正当化する装置ともいえる。自由意志が消えた世界で私たちが恐れていたものは、もしかすると自由意志の不在そのものではなく、自由意志があると思い込まされたまま誘導されることだったのかもしれない。

見えないからこそ効く

ナッジの効果には、ある種の不可視性が必要になる。

これは技術的な問題ではなく、構造的なジレンマだ。ナッジの仕組みを完全に開示すれば、その効果は減衰する。「この選択肢がデフォルトに設定されているのは、あなたがそれを選ぶ確率を上げるためです」と告知されたとき、デフォルトの力は弱まる。効果と透明性はトレードオフの関係にある。

しかし民主主義は透明性を要求する。政策の根拠は開示されるべきだし、市民は自分がどのような影響を受けているか知る権利がある。サンスティーン自身も透明性の重要性を繰り返し強調している。にもかかわらず、透明にした瞬間に機能しなくなるものを、透明であるべき制度のなかでどう運用するのか。

選んだはずの指先が止まらない夜に。スマートフォンの無限スクロールやデフォルトでオンの通知設計は、ナッジの企業版ともいえる。あなたはスクロールをやめる自由がある。通知をオフにする自由もある。しかしやめるためにはアクションが必要で、続けるためには何もしなくていい。自由のコストが非対称に設計されている。そしてその設計は、あなたには見えにくいようにできている。

見えない操作と、見えない設計。この二つを区別する原理的な基準は、いまのところ見つかっていない。

誰のための「より良い」か

臓器提供のオプトアウト方式は、ナッジの成功例として頻繁に引用される。「何もしなければ臓器を提供する」というデフォルト設定に変えるだけで、臓器提供率は劇的に上昇する。多くの命が救われる。反対する理由があるだろうか。

ある。

オプトアウト方式の下で臓器提供者になった人の大半は、臓器提供について深く考えたことがない。デフォルトに従っただけだ。これは「同意」と呼べるのだろうか。熟慮なき同意は同意なのか。

ここに、ナッジの根底にある問題が露呈する。「合理的な選択」の定義が、設計者の価値観に依存しているという事実だ。野菜を多く食べることが「より良い」。貯蓄することが「より良い」。臓器を提供することが「より良い」。これらの判断は、多くの人が同意するかもしれない。しかし「多くの人が同意するから正しい」は、功利主義の論理であって、自由主義の論理ではない。

善意の算術がそうであるように、「最大多数の最大幸福」を追求する善意は、少数者の自律を犠牲にする可能性をつねに内包している。ナッジは、その犠牲を「選択肢は残してある」という一言で覆い隠す。

野菜と投票用紙のあいだ

「カフェテリアで野菜を目線の高さに置く」ことに反対する人は少ない。しかし同じロジックを延長すると、不穏な場所に辿り着く。

投票用紙の候補者の掲載順序が投票行動に影響を与えることは、政治学の研究で繰り返し示されてきた。もしナッジが正当化されるなら、「より良い候補者」を先頭に掲載することも正当化されうる。ナッジと操作のあいだに明確な境界線を引くことは、理論的に可能なのだろうか。

サンスティーン自身はこの問いに対して、ナッジの正当性は目的の正当性と手段の透明性に依存すると答えている。しかし、目的の正当性を誰が判断するのかという問いは、そのまま残る。そしてこれは、民主主義そのものが抱える、解かれたことのない問題でもある。

あなたの立ち位置を決めている見えない力は、社会規範であれ、選択アーキテクチャであれ、エスカレーターの暗黙のルールであれ、すべて同じ構造を持っている。誰かが設計し、多くの人がそれに従い、なぜ従っているのか誰も問わない。

Amazonの「この商品を見た人はこれも見ています」。購買行動を方向づけるナッジだが、消費者はそれを「便利な機能」と感じている。大学の履修登録で必修科目が先に表示され、自由選択科目は深い階層にある。学生は「自由に選べる」が、選択の構造は大学が設計している。ナッジは、目的が無害に見えるかぎり、操作と呼ばれることを免れる。目的が「あなたのため」であるかぎり。

最適化の果て

ナッジが仮にすべて「正しい方向」に機能したとしよう。人々は野菜を食べ、貯蓄し、臓器を提供し、環境に配慮した選択をする。合理的で、健康的で、社会的に望ましい行動をとる。

それで、何が残るのか。

右肩上がりの絶望が示しているように、物質的な進歩や最適化された選択の蓄積が、幸福の増加を保証するわけではない。リチャード・イースタリンが示したパラドックスは、ナッジにもそのまま適用できる。「より良い」選択を積み重ねた先に、「より良い」人生があるという前提そのものが、検証されていない仮説にすぎない。

最適化されつくした選択の連鎖の果てにあるのは、たぶん自由でも幸福でもない。設計者が思い描いた「あるべき人間」の鋳型にぴたりとはまった、よくできた消費者と市民の姿だ。


Netflixの「次のエピソードを15秒後に再生します」は、視聴を続けるというデフォルトを設計している。止めるためにはボタンを押す必要があり、続けるためには何もしなくていい。

あなたは今もこの記事を読んでいる。誰かに読まされているわけではないし、続きを読むことを強制されてもいない。ただ、ここまでスクロールしてきた指が、止まらなかっただけだ。

ナッジのパラドックスとは、つまるところ、こういうことなのかもしれない。自由を守ると称するものが、自由の意味を少しずつ書き換えていく。選択肢は残されている。ただ、選ぶという行為の重さだけが、静かに、確実に、軽くなっていく。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu