あなたの立ち位置を決めている見えない力

エスカレーターに乗るとき、あなたは一瞬で判断を下している。左に立つか、右に立つか。その判断にかかる時間は、ほぼゼロだ。考えていない。周囲と同じ側に立っている。

片側空けの始まり

エスカレーターの片側を歩行用に空ける慣習は、1944年のロンドン地下鉄に起源があるとされる。混雑緩和のために「右側に立ち、左側を空けてください」という案内が始まった。この慣習はやがて世界各地に広がった。

日本では、1967年に大阪の阪急梅田駅で長いエスカレーターが設置された際、「お急ぎの方のために左側をお空けください」というアナウンスが行われたのが、片側空けの始まりとされることが多い。大阪では右に立ち左を空ける。東京では左に立ち右を空ける。この左右の違いが生まれた経緯には諸説あり、定説はない。

注目すべきは、この慣習を誰かが命令したわけではないということだ。鉄道会社のアナウンスがきっかけであったとしても、全国的な社会規範として定着したのは、無数の人が互いの行動を観察し、模倣し、暗黙の了解として共有した結果にほかならない。

協調ゲームとナッシュ均衡

ゲーム理論の枠組みで見ると、エスカレーターの片側空けは「協調ゲーム」の典型例だ。全員が同じ側に立てば秩序が生まれ、全員の利益になる。どちらの側に立つかは本質的にどちらでもよい。重要なのは、全員が同じ選択をすることだ。

いったん「左立ち・右歩き」が定着すると、一人だけ右に立つことは合理的でなくなる。後ろから歩いてくる人の流れを塞ぎ、舌打ちをされ、時には肩をぶつけられる。個人が慣習を破るコストは高く、慣習を維持するコストはほぼゼロだ。この非対称があるかぎり、均衡は動かない。

暗黙のルールが破られたときに生じる不快感は、パーソナルスペースの侵害と同じ構造を持っている。ルールそのものに合理的な根拠があるかどうかは、実はあまり関係がない。「そうするものだ」という期待が裏切られること自体が、不快感の原因になる。

「歩かないで」が届かない構造

近年、日本の鉄道各社は「エスカレーターでは歩かないでください」というキャンペーンを展開している。JR東日本、東京メトロ、大阪メトロなど、主要な事業者が足並みを揃えている。2021年には埼玉県が全国に先駆けて「エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」を施行し、立ち止まっての利用を呼びかけた。

それでも片側空けの慣習はほとんど変わっていない。なぜか。

理由はナッシュ均衡の安定性にある。鉄道会社が「両側に立ちましょう」と言っても、周囲の全員が片側を空けている状況で、自分だけ反対側に立つのは心理的に難しい。「正しいこと」と「周囲に合わせること」のあいだで、ほとんどの人は後者を選ぶ。自由な選択のはずが、実質的には構造に従っている。こういう場面は、エスカレーターに限らない。

ロンドン交通局は2015年にホルボーン駅で「両側立ち止まり」の実証実験を行った。結果、エスカレーターの輸送効率は約30%向上した。長いエスカレーターでは歩く人が少数派であるため、片側だけに利用者が集中すると全体の輸送量がかえって下がる。合理性はむしろ「両側立ち止まり」の側にある。しかし実験終了後、乗客は元の習慣に戻った。

設計が想定していなかったこと

エスカレーターには工学的な問題もある。日本エレベーター協会は「エスカレーターは歩くことを想定して設計されていない」と繰り返し注意喚起している。

ステップの奥行きは通常の階段よりも深く、歩幅と合わない。また、片側に利用者が集中すると、ステップやチェーンに偏った荷重がかかり、長期的な摩耗や故障の原因になりうる。エスカレーターは本来、両足を揃えて立ち、両側を均等に使うことを前提に設計されている。

つまり、効率の面でも安全の面でも工学の面でも、片側空けは非合理的だ。それでも慣習が存続しているのは、合理性が社会規範を変える力としてはきわめて弱いことの証左でもある。

目に見えない設計者

エスカレーターで立ち止まる側を選ぶとき、あなたは判断していない。周囲の行動パターンが、あなたの行動を決めている。

この種の暗黙のルールは、公共空間のいたるところに存在する。電車の中で電話をしない。エレベーターでは正面を向く。カフェで隣の席との距離を保つ。どれも法律ではない。しかし破ったときに生じる言語化しにくい不快感は、法律違反に対する制裁と同じくらい効果的に人の行動を規制する。

エスカレーターに乗るとき、あなたがどちらに立つか決めるのに要する時間はゼロに近い。その瞬間、あなたは考えていない。周囲の空気が、あなたの代わりに決めている。

まとめ

エスカレーターの片側空けは、効率でも安全でもなく、社会規範の慣性によって維持されている。合理的な根拠がない慣習が、なぜこれほど強固に残るのか。それは「他の全員がそうしている」という事実そのものが、最も強力な行動の理由として機能するからだ。次にエスカレーターに乗るとき、自分がどちらに立つか、一瞬だけ意識してみるといい。そこに自分の意思があるかどうかを。

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