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日常の構造

イヤホンを外さない世代の公共空間の歩き方

街を歩く人の耳を見てほしい。電車の中、大学のキャンパス、カフェ。かなりの確率で、小さな白い塊がそこにある。イヤホンは音楽を聴くための道具から、公共空間における「見えない壁」へと変わった。 境界線としてのイヤホン イヤホンをしている人に話しかけるのは、どこか気が引ける。物理的には何の障壁もないのに、「今は話しかけないでほしい」というメッセージが、あの小さなデバイスから発されている。 これは音楽の問題ではない。実際、何も再生していなくてもイヤホンを装着している人は少なくない。音を聴くためではなく、外界との接触を制御するために使っている。パーソナルスペースを物理的に確保できない公共空間で、聴覚という回路だけを自分の管理下に置く。それが現代のイヤホンの役割になった。 ウォークマンが開いた扉 公共空間で個人的な音を聴くという行為は、1979年にソニーが初代ウォークマン(TPS-L2)を発売したときに始まった。当時も「電車の中でヘッドホンをするのは失礼だ」、「周囲の音が聞こえなくて危険だ」という批判はあった。しかし約半世紀を経て、その行為はもはや議論の対象ですらなくなった。イヤホンは

By Sakashita Yasunobu

大学生活

なぜ学内向けサービスはUIが古いのか

大学の履修登録、図書館の蔵書検索、成績確認。これらのシステムを使うたびに、どこか十年前のインターネットに迷い込んだような気分になる。ボタンの配置は直感に反し、画面遷移は不必要に多く、スマートフォン対応はおまけ程度。なぜ、大学のシステムだけが時代に取り残されているのか。 予算だけでは説明できない 真っ先に浮かぶのは予算の問題だ。大学は企業のようにUIに投資する余裕がない、と。 しかし、この説明だけでは不十分だ。世の中にはオープンソースの優れたソフトウェアが数多く存在する。無料で使える学習管理システム(LMS)でさえ、多くの学内システムよりも洗練されたインターフェースを持っている。予算がないから古いのではなく、予算以外の構造的な力が働いている。 実際、大学のIT関連支出は決して少なくない。ネットワークインフラ、セキュリティ対策、サーバ運用。予算は存在するが、その配分先がUI改善に向かわない。IRと大学経営で触れたように、データ活用の重要性が増すなかでも、投資の優先順位は利用者の体験よりも基盤の安定に傾きやすい。 動いているものには触るな IT運用の世界には、暗黙の鉄則がある

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

「主観でしょ」という沈黙の刃

「それって主観でしょ」。議論の中でこの言葉が出た瞬間、会話は終わる。反論として完成しているように見えるこのフレーズは、実際には何も言っていない。正確に言えば、「言っていないこと」があまりにも多い。 このフレーズは何を主張しているのか 「それって主観でしょ」という発言を分解すると、以下のような前提が隠れている。 「あなたの意見は主観的である。主観的なものは客観的ではない。客観的でないものは正しいとは言えない。したがって、あなたの意見は正しいとは言えない。」 一見筋が通っているように見えるが、この推論にはいくつもの飛躍がある。 「主観」と「客観」の雑な二分法 日常語の「主観」は「個人の感想」とほぼ同義で使われる。「客観」は「誰が見ても同じ事実」を意味する。この二分法はシンプルだが、シンプルすぎる。 たとえば「このコーヒーは苦い」という判断は主観か客観か。味覚は個人差があるから主観だと言えるが、カフェインの含有量や焙煎度は客観的に測定できる。「苦い」という判断は、客観的な特性に基づいた主観的な報告である。完全に主観でも完全に客観でもない。 あるいは「この政策は不公平だ」と

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大学生活

「やる気が出ない」は本当に感情なのか

「やる気が出ない」と口にするとき、私たちは自分の内側に何かが欠けていると感じている。やる気という燃料が切れた、と。だからその燃料が補充されるのを待つ。しかし、そもそも「やる気」とは何だ。燃料なのか。感情なのか。それとも、もっと別の何かなのか。 「やる気」という言葉を分解する 「やる気がない」という一語は、驚くほど多くの状態を包み隠している。少なくとも、以下の三つは区別する必要がある。 動機づけ(motivation)。特定の行動を起こす理由や目的がある状態だ。報酬、興味、義務感など、行動の方向を決める力をいう。 意志力(willpower)。やりたくないことを、それでもやる力だ。動機づけとは独立に存在しうる。報酬がなくても、必要だからやる、という場面で使われる。 気分(mood)。その時点での感情的な状態だ。倦怠感、退屈、不安、抑うつ。「やる気が出ない」の多くは、この層に属している。 「やる気が出ない」と言うとき、動機づけが欠けているのか、意志力が消耗しているのか、

By Sakashita Yasunobu

光と写真

好きで始めた写真が息苦しさに変わるとき

写真が好きで始めたはずなのに、いつの間にか疲れている。撮ること自体は楽しい。だがSNSに投稿した後の反応を気にし始めると、楽しさの質が変わる。撮影会に行って他の人の機材を見ると、自分のカメラが急に貧相に見える。ベテランの人に「その設定だと」と言われると、楽しかった時間が一気に萎む。 カメラ界隈がしんどいのは、撮影技術の問題ではない。人間関係とインセンティブの構造の問題だ。 経験年数が正しさになる権威勾配 カメラ界隈には、「長くやっている人の意見が正しい」という暗黙の序列がある。これはあらゆる趣味コミュニティに共通する構造だが、カメラ界隈では特に強い。写真には明確な正解がないため、正しさの根拠が「経験年数」に依存しやすいのだ。 技術的な正解はある程度存在するが、「いい写真とは何か」に正解はない。正解がない領域では、経験年数が権威の代替指標として機能する。 結果として起きるのは、「長くやっている人が新しい人に教える」という一方的な関係の固定化だ。教えてもらう側は意見を言いにくくなり、教える側は自分の基準が正しいと確信を深める。フィードバックのループが閉じて、多様な視点が排除され

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大学生活

講義室に降る小さな棘が論文になるまで

講義中、教授の話を聞いていて、ふと「あ、これ論文になりそうだ」と感じる瞬間がある。その感覚の正体は何か。 それは知識の蓄積から来るのではない。違和感から来る。 研究の種は違和感にある 研究は「たくさん知っているから始められる」のではない。「何かおかしい」「これは本当か」という違和感が、研究の出発点になる。 教授が「一般にXである」と言ったとき、「でも自分の経験ではYだったけど」と感じる。その瞬間、一般論と個別の経験の間にズレが生じている。このズレに気づけることが、研究の種を見つける力だ。 種が見つかる4つのパターン 違和感にはいくつかの典型的なパターンがある。 ズレ。 通説と自分の実感が合わない。教科書には「Aである」と書いてあるが、実際に観察するとAでないケースがある。このズレは「本当にAなのか。どういう条件ではAが成り立たないのか」という問いになる。 例外。 一般論に当てはまらないケースが見つかる。理論が「すべてのBはCである」と主張しているとき、CでないBを一つ見つければ、理論の修正が必要になる。例外は理論の弱点を示す。 矛盾。 AもBも正しいように見えるが

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日常の構造

自分だけが知らない

1999年、二人の心理学者がひとつの実験で暴いた構造は単純だった。能力のない人間は、自分に能力がないことを知る能力すら持っていない。つまり、あなたが「自分は大丈夫だ」と思えば思うほど、あなたはおそらく大丈夫ではない。そしてそのことに、あなたは永遠に気づけない。 二重の呪い コーネル大学の心理学者ジャスティン・クルーガーとデイヴィッド・ダニングは、1999年に Journal of Personality and Social Psychology 誌にひとつの論文を発表した。タイトルは「Unskilled and Unaware of It(能力がなく、そのことに気づかない)」。 彼らが実施した実験では、論理的推論、英文法、ユーモアの理解力という3つの領域でテストが行われた。結果は明快だった。成績が下位25%に入った参加者は、自分の成績を平均以上と評価した。一方で、上位25%の参加者は、自分の成績を控えめに見積もった。 ダニングとクルーガーはこの非対称をメタ認知の問題として説明した。メタ認知とは、自分自身の認知プロセスを認知する能力のこと。能力が低い領域では、自分の回答の質を

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光と写真

見えない光が写す もうひとつの風景

見えない光で写真を撮る、という行為がある。 カメラのシャッターを切る。構図を決め、ピントを合わせ、露出を調整する。やることは通常の撮影とまったく同じだ。ただひとつ違うのは、写し取る光が人間の目には見えないということ。赤外線写真は、可視光の向こう側にある世界を画像として定着させる技術だ。 出来上がった写真を見ると、緑の木々は真っ白に輝き、空は暗く沈み、雲だけが不気味なほどのコントラストで浮かび上がる。現実の風景を撮っているのに、現実には見えない。この矛盾が、赤外線写真の核にある面白さだ。 赤外線写真とは何か 人間の目が感知できる光(可視光)の波長は、およそ380nmから780nmの範囲だ。赤外線はその上、約780nm以降の波長を持つ電磁波で、近赤外線(780nm-2500nm程度)は写真撮影に利用できる領域にある。 フィルム時代には、赤外線に感光する専用フィルムが存在した。代表的なのはKodak High Speed Infrared(通称Kodak HIE)で、粒子の粗さと独特のハレーションが赤外線写真の「あの雰囲気」を作っていた。残念ながら2007年に製造終了している。

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生きること

永遠の素振り

あなたはいつから素振りばかりしている。 バットを構え、腰を回し、フォームを確認する。鏡の前で。壁に向かって。千回。一万回。フォームは洗練される。筋肉は覚える。あなたは確実に上手くなっている。ただ、ボールは一球も飛んでこない。打席に立つ予定もない。 上手くなることは、いつから目的になったのだろう。そしてもっと厄介なことに、その問いを誰も発しない。 手段が目的を食い殺す アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で、人間の行為にはそれ自体が目的であるもの(それ自体のために選ばれるもの)と、何か別のもののための手段であるものがあると論じた。笛を吹く技術は笛を吹くためにあり、医術は健康のためにある。すべての技術(テクネー)は、その外部にある何かを実現するために存在する。 ところが、手段と目的の関係はしばしば反転する。 ギターを弾くのは、誰かに聴かせたいからだったはずだ。しかしいつの間にか、スケールの速弾きが何小節続くかのほうが重要になる。語学を学ぶのは、誰かと話すためだったはずだ。しかしいつの間にか、検定試験のスコアを1点でも上げることのほうが重要になる。写真を撮るのは、何かを記録した

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生きること

「なんとなく嫌」の分解

嫌いなものなら説明できる。辛い食べ物が嫌い。寒い朝が嫌い。理由は明快で、誰に聞かれても答えられる。しかし「なんとなく嫌」は違う。理由がない。理由がないのに避けたい。避けたい理由を聞かれると困る。困るから「なんとなく」と言う。 「なんとなく」は説明の放棄ではなく、正確な記述だ。本当に「なんとなく」なのだから。 「嫌い」と「なんとなく嫌」は別の現象である 「嫌い」には構造がある。対象があり、理由があり、経験がある。犬に噛まれたから犬が嫌い。怒鳴られた記憶があるからあの部屋が嫌い。原因と結果が追跡可能だ。 「なんとなく嫌」には構造がない。あるいは、構造が見えない。特定のUIを触ったときの居心地の悪さ。特定の言い回しに対する微かな反発。特定の場所に入ったときの、帰りたいという衝動。どれも、問い詰められれば答えに窮する。 この二つは質的に異なる。「嫌い」は意識の出来事だ。「なんとなく嫌」は意識の手前の出来事だ。身体が先に反応し、意識が後から「なんとなく嫌だ」

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哲学を読む

目が信じたものを名前が裏切った

完璧な贋作がある。 筆致、色彩、構図、ひび割れの一本一本まで、オリジナルと区別がつかない。世界最高の鑑定家が「傑作だ」と唸り、美術館の壁にかけられ、数十億の値がつく。そしてある日、それが贋作だと判明する。絵は一ミリも変わっていない。あなたの網膜に映る像は、昨日と一ピクセルも違わない。しかし価値はゼロになる。 何が変わったのか。 絵は同じだ。色も線も、光の反射も。変わったのは「誰が描いたか」という、目には見えない情報だけだ。もし美しさが見えるものの中にあるなら、この崩壊は説明がつかない。もし美しさが見えないものの中にあるなら、私たちはいったい何を「見て」いたのだろう。 見分けがつかない二枚の絵 ネルソン・グッドマンは1968年の著書『芸術の言語(Languages of Art)』で、美学に不穏な問いを投げ込んだ。 二つの絵画がある。一方はレンブラントの真作、もう一方はそれと視覚的に完全に同一の贋作。現在のあなたには、どちらがどちらか区別できない。この二つの絵に美的な違いはあるか。 素朴に考えれば、答えはノーだろう。見た目が同じなら、美的経験も同じはずだ。

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

存在するものは何もなかった

あなたの目の前に机がある。 そう思っている。木の板と四本の脚。引き出しの中には文房具。表面にはコーヒーの染み。それを「机」と呼ぶことに、誰も疑問を持たない。 だが、メレオロジカル・ニヒリズムはこう言う。机は存在しない。 板も脚も引き出しも存在しない。あるのは素粒子の配列だけだ。「机」とは、ある特定のパターンで並んだシンプルズ(それ以上分割できない最小単位)に、人間が貼りつけたラベルにすぎない。複合的な物体は存在しない。部分が集まって「一つのもの」を構成することは、決してない。 これはメタファーではない。文学的な誇張でもない。分析哲学の中で真剣に擁護されている存在論的立場だ。そしてこの立場を受け入れると、哲学の古典的パラドックスのいくつかが、問いとして成立しなくなる。 問いは最初から壊れていた メレオロジカル・ニヒリズムが応答しようとしている問いがある。特殊構成問題(Special Composition Question)と呼ばれるものだ。 ピーター・ヴァン・インワーゲンが1990年の Material Beings で定式化したこの問いは、こう尋ねる。「二つ以上のもの

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