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大学生活

大学生はいい枕を買え

一人暮らしを始めるとき、ベッドフレームやマットレスにはそれなりに気を使う。でも枕はどうか。ホームセンターで一番安いやつを買って、そのまま何年も使っている人が多いのではないか。 枕は安い。安いのに、睡眠の質への影響が大きい。大学生が限られた予算の中で手を出せる投資として、枕ほどコスパのいいものはなかなかない。 睡眠は成績に出る 「睡眠が大事」なんて言われなくてもわかっている、と思うかもしれない。でも数字で見ると印象が変わる。 カーネギーメロン大学の研究チームが3つの大学の600人以上の一年生に毎晩睡眠トラッカーを装着させ、睡眠と成績の関係を調べた(米国科学アカデミー紀要掲載)。平均睡眠時間は6時間半。毎晩6時間未満の学生は成績が明確に低下し、睡眠が1時間増えるごとに期末の成績がわずかに上がるという相関が出ている。 国内でも似た傾向が報告されている。ある調査では、1日の睡眠時間が6時間以上の学生はGPA上位群に44%いたのに対し、6時間以下の学生はGPA下位群の45%を占めていた。睡眠の質、タイミング、量のすべてが良好な学生群は、学修成果や大学への適応度でも明確に良い傾向を示し

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

全員が見ていた

駅のホームで人が倒れた。あなたはそれを見た。周囲には何十人もの人がいた。あなたは足を止めかけて、しかし止めなかった。誰かが助けるだろう、と思った。全員が同じことを思っていた。全員が歩き続けた。 これは冷酷さの話ではない。構造の話だ。 三十八人の神話 1964年3月13日、ニューヨーク・クイーンズ地区で、キティ・ジェノヴィーズという女性が自宅アパートの前で殺害された。二週間後、ニューヨーク・タイムズ紙は衝撃的な記事を掲載した。38人の目撃者が犯行を見聞きしていたにもかかわらず、誰一人として警察に通報しなかった、と。 この記事はアメリカ社会に激震を与えた。都市生活の冷淡さ、人間の無関心、道徳の崩壊。あらゆる角度から語られ、引用され、教科書に載った。 ただし、この報道は嘘だった。 2007年、マニング、レヴァイン、コリンズの研究が、ニューヨーク・タイムズの記事を精査し、38人という数字には根拠がないことを示した。実際に犯行を目撃した人数はそれよりはるかに少なく、何人かは通報を試みていた。事件の全容を把握していた目撃者はほとんどいなかった。 しかし、嘘が正しい問いを生んだ。

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

哲学書が読めない理由は難しさではない

哲学書を開く。三ページ読む。一行も頭に入っていない。 この経験をした人は多いだろう。そしてたいていの場合、その原因を「哲学は難しいから」に帰着させる。専門用語が多い。文章が回りくどい。抽象的すぎる。だから読めない。 本当にそうだろうか。専門用語は辞書を引けば分かる。「アプリオリ」は「経験に先立つ」であり、「弁証法」は「対立する概念を統合して高次の理解に至る思考法」だ。文章が回りくどいのは事実だが、法律文書だって回りくどい。抽象的だというなら、数学の方がよほど抽象的だ。 哲学書が読めない理由は、難しいからではない。あなたの側に、問いがないからだ。 問いの不在 哲学書は情報を得るための本ではない。 多くの読者が哲学書に挫折するのは、読み方の期待がずれているからだ。新書やビジネス書のように、「結論は何か」、「要点は何か」を探しながら読む。そして見つからない。あるいは見つかったとしても、その結論がなぜ重要なのかが腑に落ちない。 カントの「純粋理性批判」(1781)の結論を一行で書くことは可能だ。「人間の認識能力には限界があり、経験を超えたものについて確実な知識を持つことはできな

By Sakashita Yasunobu

大学生活

大学生がレポートでどう引用すればいいか迷ったら

結論から言う。特に指定がないなら、シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル(The Chicago Manual of Style)に従え。 教員から引用スタイルの指定がある場合は、そもそもこの記事を読む必要はない。指定どおりに書けばいい。この記事が対象としているのは、「特に指示がなくて、何をどう書けばいいかわからない」という人だ。 なぜシカゴ・マニュアルなのか シカゴ・マニュアルは、人文科学系で最も広く使われている引用スタイルだ。歴史学、文学、哲学、芸術などの分野で国際的に採用されている。 人文社会系のレポートを書く場合、シカゴ・マニュアルに従っておけば、形式面で問題になることはまずない。汎用性が高く、書籍、論文、Webサイトのいずれにも対応している。 二つの方式がある シカゴ・マニュアルには、二つの引用方式がある。 脚注・参考文献方式(Notes-Bibliography) は、引用箇所に脚注番号を振り、ページの下部または文書の末尾に文献情報を記載する方式だ。歴史学、文学、哲学の分野でよく使われる。 著者名・

By Sakashita Yasunobu

生きること

人が比較でしか幸福を測れない理由

幸福には単位がない。 体重はキログラムで測れる。気温は摂氏で測れる。距離はメートルで測れる。だが、幸福を測る単位は存在しない。「今日の幸福度は73ハッピーです」とは言えない。 だから人は比較する。他の誰かと。昨日の自分と。あるいは、想像上の「あるべき自分」と。それ以外に、自分がどれだけ幸福かを知る方法がない。 隣の芝が永遠に青い理由 レオン・フェスティンガーは1954年に社会的比較理論を提唱した。人間は客観的な基準がないとき、他者との比較によって自分の能力や意見を評価する、という理論だ。 幸福にも同じことが当てはまる。幸福の絶対的な基準がないから、人は周囲を見渡す。友人の昇進。同僚の結婚。SNSに流れてくる誰かの旅行写真。それらと自分の状況を並べて、自分が「まあまあ幸せ」なのか「不幸せ」なのかを判定する。 問題は、比較の対象が常に上方に偏ることだ。自分より幸せそうに見える人間ばかりが目に入る。これはSNSによって劇的に悪化した。かつての比較対象は近所の人間や職場の同僚に限られていた。今では世界中の「幸せそうな人間」が比較対象になる。 あなたの幸福は最初から誰かの書いた脚

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

雨の中で傘を持たない理由

「雨が降っている。しかし私はそれを信じていない」 この文には、論理的な矛盾がない。雨が降っていることと、話者がそれを信じていないことは、同時に真でありうる。人は自分の信念について間違うことがある。天気についても間違うことがある。両方が真であるような世界は、何も不思議ではない。 それなのに、この文を口に出した瞬間、何かがおかしくなる。 G.E.ムーアが1942年にケンブリッジ道徳科学クラブで発表したこの観察を、ウィトゲンシュタインは「哲学における最も重要な発見のひとつ」と呼んだ。大げさに聞こえるかもしれない。たかが一文だ。でもこの一文は、私たちが「信じる」とか「主張する」とか「知っている」と言うとき、裏側で何が起きているのかを、静かに、しかし徹底的に暴露する。 矛盾していないのに壊れている ムーアの文が奇妙なのは、それが論理的に矛盾しているからではない。三人称に変換すれば何も問題は起きない。「彼は雨が降っていると言ったが、それを信じていなかった」。ただの報告だ。嘘をついていたのかもしれないし、混乱していたのかもしれない。いずれにせよ、聞いた側が驚くことはあっても、文そのものが

By Sakashita Yasunobu

生きること

どちらを選んでも振り返る

後悔しない人生を送りたい。たぶん、あなたもそう願ったことがある。 だが残念なことに、その願い自体が罠だ。後悔を避けようとする行動は、慎重すぎる選択を生み、決断の先延ばしを招き、安全な道ばかりを選ばせる。そして数年後、あなたはこう思う。もっと大胆にすればよかった、と。後悔を避けたはずの人生が、後悔で満ちている。 後悔は追い払おうとすると寄ってくる。受け入れようとすると姿を変える。見て見ぬふりをすると、忘れた頃に刺す。 逃げた先で待っている 行動経済学には「後悔回避バイアス」という概念がある。人は将来の後悔を予測し、それを回避するように意思決定を歪める傾向があるという知見だ。損失を恐れて株を持ち続ける。告白が怖くて距離を置く。転職のリスクに怯えて不満を飲み込む。どれも、後悔したくないがゆえの行動だ。 問題は、この予測がほとんど当たらないことにある。 ダニエル・ギルバートらの2004年の研究 Looking Forward to Looking Backward は、この不一致を実証した。「あと少しで勝てた」場面と「明らかに負けた」場面を比較したとき、人は前者のほうがはるかに強

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光と写真

「いい写真」という言葉がすれ違うとき

「いい写真だね」。この一言に、どれだけの誤解が含まれているか。 あなたが「いい写真だね」と言ったとき、相手も同じ意味で受け取っているとは限らない。あなたは構図の美しさを褒めたつもりなのに、相手は「記録として価値がある」と受け取っているかもしれない。あるいはその逆。 「いい写真」の定義が会話で噛み合わないのは、感性の問題ではない。評価軸の問題だ。 5つの評価軸 写真を評価する軸は、少なくとも5つに分けられる。 記録。 何が写っているか。祖父母の若い頃の写真。震災の直後の街並み。もう取り壊された建物。記録としての写真は、そこに写っている「事実」に価値がある。構図が多少傾いていても、ピントが甘くても、そこに何が記録されているかが重要だ。 情報。 何を伝えているか。報道写真、商品写真、料理写真。これらの写真は、見る人に特定の情報を伝達することが目的だ。ニュースの現場で何が起きていたか、この料理がどれほど美味しそうか。情報としての写真は、伝達の正確さと効率が評価基準になる。 感情。 何を感じさせるか。子どもの笑顔、夕焼けの風景、祭りの熱気。感情としての写真は、見る人の心を動かすこ

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

考えることしかできない

人類が何千年もかけて「知性」と呼んできたものは、実のところ、知性のうちでもっとも薄い層だったのかもしれない。 1997年、IBMのDeep Blueがチェス世界王者ガルリ・カスパロフを破った日、世界は「機械が人間を超えた」と騒いだ。しかし同じ機械は、テーブルの上のコーヒーカップを持ち上げることができなかった。チェスの王を詰められる計算能力が、マグカップの取っ手を握る動作の前では無力だった。 1988年、ロボット工学者ハンス・モラヴェックは著書 Mind Children(Harvard University Press)のなかで、この奇妙な非対称性を一文に凝縮した。「知能テストやチェスで大人レベルの性能をコンピュータに発揮させることは比較的容易だが、知覚や運動に関して一歳児のスキルを与えることは困難、あるいは不可能だ」。同時期にロドニー・ブルックスやマービン・ミンスキーも同様の観察を述べている。これがモラヴェックのパラドックスと呼ばれるものだ。 そしてこのパラドックスが本当に突きつけているのは、AIの限界ではない。「知性とは何か」という問いに対する、人間の見積もりの甘さだ。

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

無関係なものを忘れる技術

知性とは何かと聞かれたら、たいていの人は「考える力」と答えるだろう。推論する力。分析する力。問題を解く力。 だがAIの歴史が数十年かけて暴いたのは、ほぼ真逆の事実だった。知性の核にあるのは、考えない力かもしれない。関係のないことを無視し、必要のない推論を止め、世界の大部分を放っておく力。それを私たちは「常識」と呼ぶ。そして常識がどれほど途方もないものであるかを最初に突きつけたのは、哲学者でも心理学者でもなく、ロボットに爆弾を片付けさせようとした計算機科学者たちだった。 三台のロボットの末路 哲学者ダニエル・デネットは「認知の車輪」と題した論文のなかで、三台のロボットの寓話を語った。 一台目のロボット、R1。部屋のなかに時限爆弾がある。同じ部屋にR1のバッテリーも置かれていて、バッテリーは台車に載っている。R1は台車を引き出せばバッテリーを救えると推論し、実行する。だが台車の上には爆弾も載っていた。R1は「台車を引くと台車の上のものが一緒に動く」という副次的効果を推論できなかった。 二台目、R1D1。行動の副次的効果をすべて考慮するよう設計された。台車を引く前に、R1D1はあ

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

取り消せないものを背負いなおも歩く

誰にでも、思い出すと胸のあたりが重くなる過去がある。 深夜に突然蘇る、何年も前の失言。もう関係のない相手に向けた、取り消せない行動。記憶の底に沈めたはずの場面が、何の前触れもなく浮上して、布団の中で目を閉じたまま呻く。あの経験を、多くの人が共有しているだろう。 「やらかし」という言葉は軽い。だがその軽さの裏には、自分自身の過去をどう扱えばいいか分からないという、重い問いが隠れている。罪は永遠に背負い続けなければいけないのか。変わった自分は、過去の自分と同じ人間なのか。赦しとは何であり、誰に権利があるのか。 時効は三つある 法的には、時効という制度がある。刑法にも民法にも、一定の期間が経過すれば刑事責任や損害賠償請求権が消滅する仕組みが組み込まれている。社会制度としての法は、「永遠に罰する」設計にはなっていない。 しかし「社会的な時効」と「法的な時効」と「心理的な時効」は、それぞれ別の時計で動いている。 法的な時効が成立しても、社会がそれを忘れるとは限らない。インターネット以降、記録は消えない。デジタルタトゥーという比喩が定着したのは、一度オンラインに刻まれた情報が、本人の

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

自販機の前

自販機の前に立つ。30本ほどの飲み物が並んでいる。数秒、迷う。結局、いつもと同じものを買う。 この数秒間に、何が起きているのか。たかが飲み物の選択にすぎない。しかし、その「たかが」の中に、意思決定の構造がそのまま映し出されている。 二つのシステム ダニエル・カーネマンは2011年の著書『ファスト&スロー』で、人間の思考を二つのシステムに分けた。システム1は直感的で高速な処理。システム2は論理的で低速な処理。日常の大半の判断はシステム1が担っている。 自販機の前での選択は、典型的なシステム1の領域だ。ボタンを押すまでに、価格、味の好み、気温、喉の渇き具合、前回の経験といった変数が、意識にのぼることなく統合されている。「なんとなくこれ」という直感は、怠惰ではなく、高速な情報処理の結果だ。 ただし、新商品が並んでいるときは事情が変わる。見たことのないパッケージが視界に入った瞬間、システム2が起動する。「これは何だろう」「おいしいだろうか」「値段は」。処理速度が落ち、選択に時間がかかる。自販機の前で立ち止まる時間が長い人は、優柔不断なのではなく、新しい情報を処理しているだけかもしれ

By Sakashita Yasunobu