学ぶためにはすでに知っていなければならない

何かを理解するためには、すでにそれを理解していなければならない。これは冗談ではない。2400年前にプラトンが記録し、20世紀にヤーッコ・ヒンティッカが認識論的論理学の道具立てで精密化した、知ることについてのもっとも不愉快な循環だ。

あなたがこの記事を読み終えたとき、何かを「学んだ」と感じるかもしれない。しかしもし学んだのだとすれば、あなたはここに書かれている概念をすでにある程度知っていたはずだ。まったく知らなかったなら、文章を理解できなかっただろう。知っていたなら、読む必要はなかったはずだ。

どちらに転んでも、学びという行為の足場が崩れる。

メノンの罠

紀元前4世紀、プラトンの対話篇『メノン』で、メノンはソクラテスにこう問うた。「あなたがまったく知らないものを、どうやって探求するのですか。探し出したとしても、それが探していたものだとどうやってわかるのですか」。この問いは素朴に見えて、底が抜けている。知っているものは探す必要がない。知らないものは探し方がわからない。仮に偶然見つけたとしても、それが「探していたもの」だと認識する手段がない。認識するには、すでに知っていなければならないからだ。

プラトンはこのパラドックスに「想起説(アナムネーシス)」で応じた。魂は生まれる前にすべてを知っていた。学ぶとは、忘れたものを思い出すことにすぎない。壮大な回答だが、信じがたい。しかし問いの構造そのものは、プラトンの回答が信じられなくなった後も、そのまま残っている。

現代の認識論者ゲイル・ファインは、メノンの誤りを指摘した。「知識を持っていないこと」と「完全な認知的空白」を同一視した点にあると。知識に至らない真なる信念、おおよそ正確な直感、部分的な理解。知識と無知の間には広大なグレーゾーンがある。学びはそのグレーゾーンの中で起きている。

ただし、この回答はパラドックスを解消したのではなく、問いの鋭さを鈍らせただけかもしれない。「部分的に知っている」とは、どこまで知っていれば「部分的」なのか。どこからが「まったく知らない」なのか。砂を数えるときと同じように、境界はどこにもない。

分析が分析を不可能にする

メノンのパラドックスを、もう一段抽象に持ち上げた問題がある。分析のパラドックスだ。G.E.ムーアとC.H.ラングフォードが明確にしたその定式化は、こうなる。「兄弟とは男のきょうだいである」。これは分析的真理だ。「兄弟」の意味を分解すれば「男のきょうだい」になる。しかし、もしこの分析が正しいのなら、「兄弟は男のきょうだいである」は「兄弟は兄弟である」と同じことを言っているにすぎない。だとすれば、分析は自明であり、何も新しいことを教えてくれない。逆に、もしこの分析が何か新しいことを教えてくれるのだとすれば、「兄弟」と「男のきょうだい」は厳密には同じ意味ではないことになる。しかしそれでは分析として正しくない。

分析が正しければ無意味。意味があるなら正しくない。ヒンティッカはこの問題を認識論的論理学の枠組みで捉え直した。1962年の著作 Knowledge and Belief で展開された彼の体系では、論理的推論には「表面的情報」と「深層的情報」の区別がある。分析的真理は表面的には自明に見えるが、深層的には認知主体にとって新しい情報を含みうる。つまり、論理的に導出可能であることと、心理的に自明であることは別だ。

しかしこの区別は、パラドックスを本当に解消しているのだろうか。「分析によって深層的情報が得られた」と言うとき、それは分析対象の意味を「すでに知っていたが気づいていなかった」ということだ。知っていたのに気づいていなかった。プラトンの想起説を、論理学の衣装で着替えさせただけではないか。

クワインの爆破

1951年、W.V.O.クワインは「経験主義の二つのドグマ」で、分析と総合の区別そのものに疑義を呈した。分析的真理とは「意味だけから真である」文のことだとされる。「独身者は未婚の男性である」は分析的だ。「独身者」の意味が「未婚の男性」だからだ。しかしクワインは問う。「意味が同じ」とはどういうことか。「同義語」を定義するには「分析性」に訴える必要があり、「分析性」を定義するには「同義語」に訴える必要がある。定義が循環している。

クワインにとって、分析的真理と経験的真理の間に本質的な境界は存在しない。すべての信念はひとつの網(ウェブ)を成しており、経験による圧力を受けたとき、どの信念を修正するかは原理的に自由だ。「独身者は未婚の男性である」さえ、十分に強い圧力があれば修正されうる。これは分析のパラドックスを解決したのではなく、パラドックスの前提そのものを消し去った。「分析的真理」なるものが存在しないのだとすれば、分析のパラドックスも成り立たない。ただし、代償は大きい。「意味」という概念そのものの安定性が失われる。

言葉の意味が確定しないなら、あなたが「+」で足し算を意味しているという保証もない。クリプケがウィトゲンシュタインを読み替えて示したように、過去の有限個の使用例からは、あなたが意味していた規則を一意に確定する方法がない。何も確かではないのだ。意味も、知識も、分析も。

辞書は閉じている

話を身近なところに引き寄せてみる。

辞書を引く。「正義」の項を開く。「公正であること」と書いてある。「公正」を引く。「正義にかなうこと」と書いてある。辞書は閉じた系だ。すべての語が他の語で定義されている。外部に出口がない。あなたが辞書で言葉の意味を「調べる」とき、実際にやっていることは、知っている語と知らない語の網の中で、知っている語の密度が十分に高い場所から知らない語を推測する、という作業だ。もし一語も知らなければ、辞書は暗号表にしかならない。

外国語の文法書も同じ構造を持っている。初学者向けの文法書は母語で書かれている。しかし母語で書かれた文法書から得られるのは「その言語について知ること」であって、「その言語で考えること」ではない。その言語で考えるためには、その言語に浸かるしかない。浸かるためには、最低限の理解がすでに必要だ。

プログラミングの公式ドキュメントはもっと露骨だ。初心者には前提知識が多すぎて読めない。前提知識がある者には自明すぎる。ちょうどいいドキュメントは存在しない。メノンのパラドックスがそのまま技術文書の設計問題になっている。

教科書を読むとき、最初のページを理解するには最後のページの知識が必要なことがある。しかし最後のページに辿り着くには、最初のページを理解しなければならない。なぜ勉強をしなければならないのかという問いの背後には、「学びがそもそも論理的に可能なのか」というさらに厄介な問いが隠れている。

哲学は自分自身を定義できない

哲学とは何か。

これは哲学の問いだ。しかし哲学の問いに答えるためには、哲学とは何かを知っていなければならない。知っていなければ、何が哲学の問いで何がそうでないか区別できない。しかし哲学とは何かを知るためには、哲学の問いに取り組んだ経験が必要だ。ここにも分析のパラドックスが顔を出す。哲学を定義しようとする行為自体が哲学的行為であり、定義しようとする者は定義の対象の内側にすでにいる。

自分のことは何も言えないで論じたように、自己言及は構造的な不安定性を抱えている。自分について語ろうとすると、語る自分と語られる自分の間にずれが生じる。哲学が哲学自身を定義しようとするとき、同じずれが学問のレベルで作動する。

タルスキは、言語が自分自身の真理述語を矛盾なく定義できないことを示した。ゲーデルは、十分に強力な形式体系が自分自身の無矛盾性を証明できないことを示した。哲学が自分自身を定義できないとしても、それは哲学の欠陥ではなく、自己言及の構造的限界の一例にすぎないのかもしれない。

あるいは、定義できないことこそが哲学の本質なのかもしれない。しかしそう言った瞬間、それは定義になってしまう。

学ぶことの不可能な可能性

メノンのパラドックスに対するもっとも実際的な反論は、こうだ。「でも、私たちは現に学んでいるではないか」。

確かに。あなたは生まれてから今日まで、膨大な量のことを学んできた。言語を習得し、概念を獲得し、世界について暫定的な理解を構築してきた。学びが不可能だという結論は、現実と矛盾している。

しかし、パラドックスは「学びは不可能だ」と主張しているわけではない。「学びがどのように可能なのかを説明することが困難だ」と言っている。飛行機が飛ぶという事実は、空気力学の理論を不要にしない。学びが起きているという事実は、学びの可能性の説明を不要にしない。

全知の退屈について考えたとき、知識の完全性がもたらす空虚に触れた。しかし分析のパラドックスが示唆するのは、その反対側の恐怖かもしれない。すべてを知ることが退屈なのではなく、何かを新たに知ることがそもそも説明不可能なのだ。

学びは起きている。しかし学びがなぜ起きるのかを完全に説明することは、たぶんできない。説明しようとするたびに、説明自体が学びの循環構造に巻き込まれるからだ。

出口はなかった

分析のパラドックスに解決はない。プラトンは想起説を持ち出した。ヒンティッカは表面的情報と深層的情報を区別した。クワインは分析的真理という概念そのものを爆破した。ファインは知識と信念のグラデーションを指摘した。どれも問いの鋭さを和らげはしたが、問いそのものは消えていない。

ある概念を分析するためには、その概念をすでに理解していなければならない。理解しているなら分析は不要だ。これは認識論の技術的な問題ではない。「知る」という行為の足元にある亀裂だ。あなたが何かを学ぶたびに、あなたはこの亀裂の上を歩いている。落ちないのは、下を見ていないからだ。

終わらない議論の果てに立つということで書かれたように、答えの出ない問いにも固有の価値がある、と言いたくなるかもしれない。しかしメノンのパラドックスは、その「価値がある」という判断そのものにも同じ循環を突きつける。問いに価値があるかどうかを判断するには、その問いの意味をすでに理解していなければならない。

あなたはこの文章を最後まで読んだ。何かを学んだだろうか。学んだとすれば、あなたはここに書かれていることをすでに知っていたのだ。学んでいないとすれば、この文章は何も伝えなかったのだ。

どちらにせよ、この文章にあなたが費やした時間の意味を、あなたは説明できない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu