「人それぞれ」が静かに殺すもの
「人それぞれだよね」。この言葉が議論の中で出てきた瞬間、会話は終わる。相対主義がそういうものだと思われているなら、それは哲学にとって最大の風評被害である。
相対主義の「対象」を分けていない問題
相対主義を「何でもあり」と解釈する人の多くは、相対主義が何について相対的だと言っているのかを区別していない。哲学における相対主義には、少なくとも3つの異なる対象がある。
真理の相対主義。 「真理は文化や時代によって異なる」という主張である。たとえば「地球が宇宙の中心である」は、かつてある文化圏で真理とされていた。真理の基準が歴史的・文化的に変動することを指摘する立場である。
価値の相対主義。 「善悪の基準は普遍的ではない」という主張である。ある行為が道徳的に正しいかどうかは、文化や共同体の規範に依存するという立場。文化人類学における文化相対主義はこの系統に属する。
認識の相対主義。 「世界の見え方は認識の枠組みに依存する」という主張である。同じ対象でも、異なる概念体系を通して見れば異なって見えるという立場。
この3つは別々の主張であり、一つを認めたからといって残りも認めなければならないわけではない。しかし日常会話では、すべてが「どっちでもいいんでしょ」に集約されてしまう。
「相対的」と「何でもあり」は論理的に別の主張である
「価値は相対的である」と「何をしてもよい」は、まったく別のことを言っている。
価値の相対主義が言っているのは、「善悪の基準は文化や文脈に依存する」ということである。これは「基準が存在しない」とは言っていない。ある文化の中では、その文化の基準に照らして行為の善悪を判断できる。相対主義は基準の普遍性を否定しているのであって、基準そのものの存在を否定しているのではない。
「相対主義を認めると何も批判できなくなる」という反論はよく聞く。しかしこれは、相対主義の帰結を誤って推論している。相対主義者でも、自分の立場から他の価値体系を批判することは論理的に可能である。ただし、その批判が「絶対的に正しい」とは主張しないだけである。
なぜこの誤解が起きるのか
「相対的」という日本語が、日常会話では「どちらでもよい」「大した違いではない」というニュアンスで使われることが大きい。「それは相対的な問題だ」と言われると、多くの人は「つまりどっちでもいい」と受け取る。
しかし哲学的な意味での「相対的」は、「ある基準点や枠組みに依存している」という意味であり、「重要ではない」という意味ではない。温度は観測者の位置に相対的だが、だからといって温度がどうでもいいわけではない。この言葉の日常的用法と哲学的用法のズレが、誤解の温床になっている。
全員が正しいで扱った「全員が正しいなら誰も正しくないのか」という問題は、相対主義の核心に触れるものである。相対主義は「全員が正しい」とは言っていない。「正しさの基準が一つではない」と言っているのである。
文化相対主義と道徳相対主義
相対主義の混乱がさらに深まるのは、文化人類学の文化相対主義と、倫理学の道徳相対主義が区別されないまま語られるときである。
文化相対主義は、「他の文化を自分の文化の基準で評価しない」という方法論的態度である。これはフィールドワークにおいて対象を理解するための手法であり、「すべての文化的実践が道徳的に等価だ」という主張ではない。
道徳相対主義は、「道徳的判断の正しさは文化に依存する」というメタ倫理学上の立場である。これは方法論ではなく、道徳の本性についての哲学的主張である。
「文化を尊重すべきだ」という態度と「あらゆる行為が道徳的に等価だ」という主張は、まったく異なる。前者は多くの人が同意するだろうが、後者に同意する人はほとんどいないはずである。相対主義を「何でもあり」と受け取る人は、この区別を飛ばしている。
「人それぞれ」は相対主義ではない
日常会話で「人それぞれだよね」と言うとき、そこに哲学的な立場は含まれていない。多くの場合、それは「この話題についてこれ以上議論したくない」という意思表示であり、価値の多元性についての哲学的コミットメントではない。
「人それぞれ」を相対主義と呼ぶのは、相対主義への誤解を再生産することになる。プロタゴラスが「人間は万物の尺度である」と言ったとき、それは認識論的な主張であり、「何でもいいから好きにしろ」という投げやりな態度ではなかった。
線はどこにもなかったで論じたように、明確な境界線を引けないことと、区別が存在しないことは異なる。同様に、普遍的な基準が存在しないことと、すべてが等価であることは異なる。
まとめ
相対主義は規範の放棄ではない。「価値の基準は文脈に依存する」と「何をしてもよい」は、論理的に別の主張である。この区別を理解せずに「相対主義=何でもあり」と括ることは、哲学的な議論を不当に矮小化する。「人それぞれ」で議論を終わらせたくなったとき、それは相対主義の実践ではなく、思考の放棄である。