全員が正しい

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真実がどこにあるのかなんて、もう誰も本気で問わないのかもしれない。

でも、少しだけ考えてみたい。ほんの少しだけ。

直感的に、ひとつの予感がある。真実はすでにそこにある、と。特別な場所に隠されているのではなく、選ばれた人間だけが握っているのでもなく、ただ、誰にでも手が届くところにある。飲み屋の罵声のなかにさえ、鋭い真実が混ざっているかもしれない。論文よりも、路上の声のほうが、ときに正確に何かを射抜くことがある。だからこそ、すべてに耳を傾けるのだ、と。

プラトンの対話篇『テアイテトス』(148e-151d)で、ソクラテスは自分の哲学的方法を「産婆術」にたとえた。ギリシア語で「マイエウティケー」。彼の母パイナレテは助産師だった。助産師は自分では子を産まない。ソクラテスもまた、自分では知を生まない。彼がしたのは、問いを重ねることで、相手のなかにすでにある考えを引き出すことだった。

ソクラテスは『弁明』(21d)のなかで、デルポイの神託が自分を「最も賢い人間」だと告げたことに困惑し、政治家、詩人、職人を訪ね歩いた、と語っている。わかったのは、彼らが知らないことを知っていると思い込んでいるということだった。ソクラテスだけが、自分が知らないということを知っていた。

もし真実が対話のなかから自然に引き出されるのだとしたら。もし誰もが真実をすでに内に宿しているのだとしたら。

私たちは何のために、何年もかけて、研究をしているのだろう。

現代の民主主義は、この直感の上に立っている。すべての市民の声は等しく扱われるべきである。一票の重みは、生活の状況によって変わらない。これは政治的権利の問題であって、「誰が正しいか」という認識論の問題とは本来別だ。しかしそこには微妙な重なりがある。全員の声に耳を傾ける価値がある、という前提そのものが、一種の認識論的信頼を含んでいる。

しかし、プラトンはまさにこの前提を疑った人物だった。

『国家』第6巻(488a-489a)には「船の比喩」がある。航海術を知らない船員たちが、誰に舵を取らせるかを多数決で決めようとする。本物の航海士は「星ばかり見ているおしゃべりな役立たず」と罵られる。航海には専門知識が要る。多数決では船は沈む。

そして洞窟の比喩がやってくる。

『国家』第7巻(514a-520a)。地下の洞窟に幼い頃から縛り付けられた人々がいる。壁に映る影が、彼らにとっての世界のすべてだ。一人だけ鎖を解かれ、洞窟の外に出て、太陽のもとで本当の世界を見る。最初は光に目が眩む。しかしやがて、影ではない本物を知る。

洞窟の外に出た者にしかわからない真実がある。

しかしそれを認めた瞬間、「すべての声は等しい」という前提が崩壊する。

さらに厄介なことがある。プラトンは、洞窟の外を見た者には戻る義務があると書いている(519d-520a)。外の光を知った者は、洞窟に帰らなければならない。しかし帰った者の目は暗闇に慣れておらず、影の識別で仲間に負ける。嘲笑される。もし誰かが無理やり外に連れ出そうとしたら、殺されるだろう、と(517a)。

帰ってきた者の話を、誰も聞かない。

影を数える仕事

2500年前の洞窟を、今の世界に持ってきてみる。

午前3時、暗い部屋で画面の光だけが顔を照らしている。タイムラインを上から下へスクロールする。アルゴリズムが選んだ情報が次々と流れてくる。あなたの関心に合わせて、あなたが見たいものだけが壁に映し出されている。

これは洞窟ではないだろうか。

フィルターバブルという概念がある。あなたが見ている世界は、あなたが見たいと思っている世界だけで構成されている。検索結果も、ニュースフィードも、おすすめの動画も、すべてがあなた向けに調整されている。洞窟の壁が個人ごとにカスタマイズされる時代だ。プラトンの時代、囚人たちは少なくとも同じ影を見ていた。今は一人ひとりが違う影を見ている。

もしそうだとしたら、洞窟の外とはどこだろう。2500年前のアテナイでは「太陽」が真実の比喩だった。善のイデアそのものの象徴だった。今の時代に、太陽に相当するものは何だろう。

あるいは、もう「外」なんてないのかもしれない。

ひとつの洞窟を出たと思ったら、そこは別の洞窟の内側だった、という可能性がある。入れ子の洞窟。ある情報を「真実だ」と感じた瞬間、その情報にたどり着くまでの経路そのものがすでにフィルタリングされている。「自分で考えている」という感覚すら、ある種の枠組みの産物かもしれない。

ここで不穏なことに気づく。陰謀論を深く信じている人たちもまた、「自分こそ洞窟の外に出た」と確信している。主流メディアという「影」を見破り、「本当の真実」に到達したと思っている。構造的に見れば、プラトンの比喩と寸分違わないことが起きている。彼らは「目覚めた」と言い、それ以前の情報をすべて「影」だと退ける。

ではどうやって、「本当に外に出たこと」を証明するのか。

おそらく、できない。「現実を生きている」という感覚そのものが、何の証拠にもならないのだから。洞窟の外に出たと思った瞬間、私たちはもうひとつ深い洞窟に入っているのかもしれない。

助産師は何も生まない

知識が「引き出される」ものだとしたら、引き出す側は何を知っているのだろう。

プラトンの『メノン』(81c-86c)には「想起説(アナムネーシス)」と呼ばれる考え方が登場する。魂は肉体に宿る以前にすでにすべてを知っており、この世で「学ぶ」とは、忘れていたことを思い出す行為にすぎない、という考えだ。

ソクラテスはこれを実演して見せた。メノンの召使い、教育を受けていない少年に、幾何学の問題を出す。教えない。ただ問いかけるだけだ。「この線の長さは?」「ではこの面積は?」と。少年は間違え、混乱し、しかし問いかけを繰り返すうちに、正しい答えにたどり着く。教わっていないのに。

これを額面通り受け取る人は、もう少ないだろう。「前世ですべてを学んだ」という主張を現代の認識論がそのまま受け入れるのは難しい。しかし、ここに含まれている直感は2500年経っても色あせない。知識は「外から注入されるもの」ではなく、「内側にすでにあるもの」ではないか。教育とは情報の伝達ではなく、何かを引き出す行為ではないか、という直感だ。

しかし、この「引き出す」モデルをまっすぐに受け入れると、奇妙なことが起きる。もし答えがすでに全員のなかにあるなら、教師は何をしているのか。学校は何のためにあるのか。研究は。量子力学を「思い出す」人が自然に現れないという事実と、「知はすでに内にある」という直感は、明らかに矛盾している。

そしてもうひとつ、もっと厄介なことがある。ソクラテスは「自分は何も知らない」と繰り返し言いながら、対話の流れを完全にコントロールしていた。どの問いを投げるか。どの方向に議論を誘導するか。すべて彼が決めている。助産師は自分では産まないかもしれない。しかし、何を産ませるかは助産師が選んでいる。その選択は中立ではありえない。

産婆術は「引き出す」技術だと言われる。しかし、引き出す先を選ぶ時点で、それはもう「引き出す」ではなく「導く」であり、「導く」と「教え込む」の境界はひどく曖昧だ。

ソクラテスは無知だったのか。それとも、無知であるというポーズこそが最も巧妙な教え方だったのか。

何も知らないという特権

「無知の知」。哲学史上もっとも有名な態度のひとつだ。しかしこの態度は、見た目ほど謙虚ではないかもしれない。

「自分は何も知らない」と心から言い切れるのは、知の全体像がある程度見えている人間だけだ。何が「知」であり何が「無知」であるかを区別できるだけの知性が、前提として必要になる。

心理学者のDavid DunningとJustin Krugerは1999年に、のちに「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれることになる研究結果を発表した。能力の低い人ほど自分の能力を過大評価し、能力の高い人ほど自分を過小評価する傾向がある、という知見だ。つまり「自分はまだまだだ」と感じられること自体が、ある種の能力の証拠であり、「自分はもうわかっている」という自信は、しばしば無能の裏返しだ、と。

これをソクラテスに当てはめてみる。彼の「無知の知」は謙虚さの極致であると同時に、知的特権の表明でもある。「何も知らない」と宣言できること自体が、実はかなり多くのことを知っている者にしか許されない特権かもしれない。

「自分は偏っている」と言える人間は、すでに偏りの外に片足を出している。「自分はわかっていない」と言える人間は、何がわかっていないかをわかっている。そしてそのことを自覚できない人間は、自分がわかっていないことすらわかっていない。無知を自覚するためには知が必要であり、その知を得るためにはさらなる無知の自覚が必要であり、この循環はどこまでも続く。

ソクラテスの「無知の知」は、もっとも誠実な知的態度であると同時に、もっとも巧妙な知的マウントでもありうる。本人がそれを意図していたかどうかは、2400年前の人間に確かめようがない。

真の無知は、自分が無知であることすら知らない。そしてそもそも、「知っている」と信じていること自体がどこまで確かなのかは、また別の深淵だ。

投票用紙に真実は書けない

一人一票。この原則は真理とは何の関係もない。

18世紀フランスの数学者コンドルセは「陪審定理」を示した。各投票者が正しい判断をする確率が50%を超えていれば、投票者が増えるほど多数決の結果が正しい確率は100%に近づく。逆に各人の正答率が50%を下回れば、多数決は間違いに収束する。

数学的には美しい。しかしここには不穏な前提がある。「正しい判断」がそもそも存在する、という前提だ。

消費税は何%であるべきか。国防費は増やすべきか。原子力発電を続けるべきか。これらの問いに客観的な「正解」はあるだろうか。おそらくない。あるのは利害の対立であり、価値観の衝突であり、立場の違いだ。もし政治的な問いに正解が存在しないなら、コンドルセの定理は最初の前提で躓く。多数決が真理に収束するという希望には、真理という足場がない。

プラトンは民主主義を批判した。『国家』第8巻で、彼は民主政治を政体の堕落過程のなかに位置づけた。多数の無知が多数決で真理を決められるはずがない、と。彼の提案は「哲人王」による統治だった。哲学者が王になるか、王が哲学を学ぶか。どちらかしかない、と。

しかしプラトンの代替案にも保証はない。哲人王が腐敗しない保証などどこにもない。賢さと善良さは別の性質だ。歴史は「自分こそ最も賢い」と信じた支配者たちの惨事で満ちている。

チャーチルは1947年の英国下院での演説でこう述べた。「民主主義は最悪の政治形態である。これまでに試みられたあらゆる他の政治形態を除けば。」これは民主主義の擁護であると同時に、ある種の敗北宣言でもある。民主主義は「正しい」のではない。ただ「マシ」なだけだ。真理を発見するシステムではなく、権力を正当化するための手続きにすぎない。

『国家』第1巻(338c)でソフィストのトラシュマコスは「正義とは強者の利益にすぎない」と挑発した。プラトンは対話篇全10巻をかけてこの挑発に応答しようとしたが、最終的に明確な反論を提示しきれたかどうかは、読む者の判断に委ねられている。2000年以上のちにジョン・ロールズが『正義論』(1971年)で「無知のヴェール」の思考実験を試みた。自分がどの立場に生まれるかわからない状態で、どんな社会のルールを選ぶか、と問うことで正義を基礎づけようとした。しかしこの思考実験は、ヴェールの背後にいる人間がすでに合理的で計算可能な存在であることを前提にしている。現実の人間はそこまできれいにできていない。善も正義も、掘れば掘るほど底が抜ける。

つきつめると、民主主義とは「全員が正しいかもしれない」というフィクションの上に成り立っている制度であり、真理とはまったく別の次元にある。全員が等しく正しいなら、正しさの基準そのものが溶ける。

真実は退屈だ

嘘のほうが面白い。これは真実についての、かなり不都合な真実だ。

フリードリヒ・ニーチェは1873年、生前には発表されなかったエッセイ「道徳以外の意味における真理と嘘について(Über Wahrheit und Lüge im aussermoralischen Sinne)」のなかで、こう書いた。

真理とは何か。それはメタファー、メトニミー、擬人化の動く軍勢である。要するに人間的な諸関係の総体であり、詩的・修辞的に高められ、転用され、飾り立てられたのち、長い使用を経て、固定的で、規範的で、拘束力あるものとして現れるようになったもの。真理とは、それが幻想であることが忘れ去られた幻想である。

ニーチェがここで言おうとしたのは、「真理は存在しない」という単純な否定ではない。私たちが「真理」と呼んでいるものがどのように構成され、固定化され、やがて疑えないほど自明なものとして扱われるようになったのか。その成り立ちそのものを暴こうとしたのだ。ニーチェは単純なニヒリストではなかった。彼は真理の「系譜学」をやろうとしていた。それは後の著作で展開される道徳の系譜学の萌芽でもあった。

もし真理がメタファーの堆積にすぎないとしたら、科学と宗教と迷信のあいだに引かれた境界線は、どれほど頑丈だろうか。ここで注意が必要だ。ニーチェの指摘は科学の有用性を否定するものではない。科学的方法には予測と反証可能性という固有の強みがある。ニーチェが揺さぶったのは、科学が「真実そのもの」であるという素朴な信仰のほうだ。科学は世界を記述する極めて有効なメタファーの体系であるが、それが唯一の、最終的な真理であるかどうかは、別の問いだ。

真実には消費期限がある。天動説は1500年以上にわたって「正しかった」。1633年、ガリレオ・ガリレイが地動説を支持する著書を出版したことで異端審問にかけられたとき、天動説のほうが公式に「正しい」とされていた。ニュートン力学は200年以上「完全な物理学」として君臨したが、アインシュタインの特殊相対性理論(1905年)と一般相対性理論(1915年)によって、精密な近似にすぎないことが示された。

今の私たちが「正しい」と信じていることのうち、100年後にも正しいとされるものは、いくつ残るだろう。残らないかもしれない。そしてそれを薄々知りながら、私たちはそれでも「今のところ正しい」ものに頼って生きている。腐ることがわかっている果物を、それでも今日食べるように。

SNSで拡散されるのは正しい情報ではなく、感情を動かす情報だ。真実かどうかと拡散力のあいだには、驚くほど相関がない。面白い嘘は退屈な真実よりもはるかに遠くまで届く。2500年前のアテナイでも事情は似ていたかもしれない。ソクラテスの退屈な真実よりも、ソフィストたちの華やかな弁論のほうが、ずっと人気があった。

言葉はいつも少し嘘をつく

本当に言いたいことは、言葉にした瞬間にこぼれ落ちる。

誰でも経験があるはずだ。胸のなかにある感覚を言葉にしようとして、口に出した途端に「違う、そうじゃない」と感じること。言語は近似値しか出せない装置だ。現実を完全に写し取ることは、おそらく原理的にできない。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』(1921年)の最後の命題をこう書いた。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。(命題7)

これは消極的な降伏ではない。ウィトゲンシュタインは言語で語りうることの限界を厳密に画定しようとした。そして倫理、美学、人生の意味といった、人間にとって最も重要な問題のすべてが、その限界の「外側」にあることを示した。言語で語りうるのは自然科学の命題だけだ。それ以外のすべて、つまり人が本当に知りたいことは、言葉では扱えない。あなたの世界は、あなたの言葉が届く範囲で終わっている。

しかしウィトゲンシュタイン自身が、この立場を後年ひっくり返した。1953年に死後出版された『哲学探究』では、言語の意味は定義によって決まるのではなく「使用」によって決まる、という考えに移行している。「言語ゲーム」という概念だ。言葉は固定された意味を持つ道具ではなく、使い方のなかでそのつど意味を獲得する。前期のウィトゲンシュタインが言語に厳格な限界を引いたのに対して、後期のウィトゲンシュタインは、言語がそもそも「そういうもの」ではないと言い直した。

同じ人間が、同じ問いについて、前期と後期でまったく異なる答えにたどり着いた。哲学者としてのウィトゲンシュタインの誠実さは、まさにここにある。そしてこの事実自体が、真理を言語で捕まえることの難しさを、言語を超えたところで物語っている。

哲学は「言葉で真理を追求する営み」だと言われることがある。もしそうだとしたら、言語の限界はそのまま哲学の限界だ。だからこそ哲学は文学的表現を必要とするのかもしれない。しかし哲学は沈黙するわけにもいかない。沈黙すれば哲学ではなくなる。語りえぬものについて沈黙せよと言いながら、その言明自体がすでに語りであるという矛盾。哲学は沈黙について膨大な言葉を費やしてきたが、それ自体がすでに壮大な矛盾だ。

沈黙こそが最も誠実な応答であるかもしれない場面で、それでも言葉を紡ぐこと。それが哲学の愚かさであり、おそらくは、美しさでもある。

帰ってきた人の話を誰も聞かない

もういちどだけ、洞窟に戻ろう。

外の光を見た者が帰ってくる。「外には本当の世界がある」と伝えようとする。しかし仲間の反応は冷たい。帰還者の目は暗闇に再適応しておらず、影の識別で仲間に負ける。「あいつは外に出て目がおかしくなった。あんな所に行く価値はない」と結論される。もし誰かが無理やり外に連れ出そうとしたら、その者を殺すだろう、とプラトンは書いた。

ソクラテス自身が、まさにこの人物だった。アテナイの市民に居心地の悪い問いを投げかけ続けた結果、紀元前399年に死刑を言い渡された。「国家の認める神々を認めず、青年を堕落させた」という罪状で。民主的な裁判によって。全員の声を等しく扱う制度によって。

ギリシア神話のカッサンドラもまた、似た運命を背負った人物だ。トロイアの王女である彼女はアポロンから予言の力を授かったが、同時に「誰にも信じてもらえない」という呪いをかけられた。トロイアの滅亡を正確に予言し、何度も警告したが、すべて無視された。すべての予言は正しかった。しかしすべてが無駄だった。

ここに繰り返し現れるパターンがある。真実を持って帰ってきた者は歓迎されない。人は自分が見ている影を「現実だ」と信じたがる。外から戻った者は、まず無視される。次に嘲笑される。最後に排除される。これは古代ギリシアの寓話ではなく、あらゆる時代に、あらゆる場所で、繰り返されてきたパターンだ。

「空気を読む」という言葉がある。これは洞窟のなかで影をうまく識別する技術のことだ。影の動きを正確に予測し、周囲と歩調を合わせる能力。それは洞窟の内部では高く評価される。しかし洞窟の外では、まったく別のものが見える。

空気を読むことと、真実を語ることは、しばしば両立しない。

自由意志の不在

朝、コーヒーと紅茶のどちらを飲むかを「選ぶ」。しかし、それは本当に「選んで」いるのだろうか。

神経科学者ベンジャミン・リベットは1983年に、ひとつの実験を行った。被験者に「好きなタイミングで手首を曲げてください」と指示し、脳の活動と意識的な決定のタイミングを測定した。結果は不穏だった。被験者が「今、動かそう」と意識的に感じるよりも前に、脳はすでに「準備電位」と呼ばれる電気活動を開始していた。

意識的な「決定」は、脳活動のあとに来ている。私たちは「選んでいる」のではなく、脳がすでに選んだことを事後的に「自分の意志だ」と承認しているだけかもしれない。

もし自由意志が幻想だとしたら、道徳的責任は問えるのだろうか。「あなたがそう選んだのだから、その結果を引き受けなさい」という論理は、「選んだ」という前提が成り立たなければ機能しない。刑罰の正当性も揺らぐ。犯罪者が「そうする以外の選択肢を持たなかった」のだとしたら、罰することに何の意味があるのか。誰のせいでもないのだとしたら。

もちろん、リベットの実験への批判もある。準備電位が「決定」そのものなのか、それとも単なる神経的な準備段階にすぎないのかについては、現在も議論が続いている。自由意志の問題は、おそらく実験だけで最終的な決着がつくような性質のものではない。

しかしひとつだけ確かなことがある。「自分で決めている」という感覚がどれほど強くても、それが「実際に自分で決めている」ことの証拠にはならない。感覚と事実は別ものだ。自分で選んでいるという確信は、自由意志の存在を証明しない。それはちょうど、夢のなかで「これは現実だ」と確信していることが、現実であることを証明しないのと同じだ。

仮に自由意志がなかったとしても、「ある」と信じて生きることには実用的な意味があるだろう。社会は自由意志を前提に設計されている。責任も、約束も、法も。しかしそれは、便利な嘘を採用するということだ。真実への誠実さと引き換えに。

昨日の自分は他人だ

鏡を見る。昨日と同じ顔がある。しかし、昨日の自分と今日の自分は、本当に「同じ人間」だろうか。

古代ギリシアに「テセウスの船」という思考実験がある。英雄テセウスが航海に使った船がアテナイに保存されている。年月が経つうちに板が腐り、一枚ずつ新しい板に交換される。すべての板が入れ替わったとき、その船はまだ「テセウスの船」だろうか。

人間の身体にも似たことが起きている。身体を構成する原子は数年のうちにほぼ入れ替わる。10年前のあなたと今のあなたを物質的に結びつけるものは、ほとんど残っていない。私たちが「同じ自分」だと感じるのは、身体が連続しているからではない。記憶が連続しているからだ。

しかし、その記憶が信用できないとしたら。

心理学者エリザベス・ロフタスは1990年代以降、記憶の脆弱性に関する一連の研究を行った。もっとも有名な実験のひとつでは、被験者に「子供のころショッピングモールで迷子になった」という偽のエピソードを提示した。実際にはそんな経験はない。しかし約25%の被験者が、この作り話を「本当の記憶」として受け入れ、起きていないことの細部まで「思い出す」ようになった。記憶はそれほど容易に捏造されうる。

バートランド・ラッセルは『心の分析』(1921年)のなかで、ある思考実験を示している。世界が5分前にそっくりそのまま創造された可能性を、論理的に否定することはできない、と。あなたの記憶も、古い写真も、身体の傷跡も、すべて5分前に作り出されたものかもしれない。これを反駁する手段は、原理的に存在しない。

「自分は自分である」という確信。それはおそらく、私たちが持っている信念のなかでもっとも強固なものだ。しかしその根拠を問い詰めていくと、驚くほど脆い土台の上に立っていることがわかる。記憶は改変されうる。身体は入れ替わっている。意識は途切れる。どこを探しても「自分」はいない。

その問いに答えられる人は、たぶんいない。

死について何も言えない

死について何か有意義なことを言えた人間は、歴史上ひとりもいない。

古代ギリシアの哲学者エピクロスは、こう論じた。死は私たちにとって何ものでもない。なぜなら、私たちが存在しているとき死はなく、死があるとき私たちは存在しないのだから。死は生者にも死者にも関係しない、と。

この論理は美しい。完璧に見える。しかし、この論理で死への恐怖が消えた人間はどれだけいるだろうか。論理が感情に勝った例を、少なくとも私は知らない。そもそも自分の不在を想像すること自体が、原理的にできないのだから。

マルティン・ハイデガーは『存在と時間』(1927年)のなかで、「死への存在(Sein zum Tode)」という概念を提示した。死は人間の存在にとって最も固有な可能性であり、他の誰にも代わってもらえない。ハイデガーによれば、日常を生きる私たちは「ひと(das Man)」に埋没している。「みんなそうしている」「普通はこうだ」という匿名の規範に流されて生きている。死を直視することではじめて、この非本来的な日常から抜け出し、自分自身の存在を本来的に引き受けることができる、と。

プラトンは『パイドン』(67e)のなかで、哲学することとは死ぬことの練習だ、と述べている。奇妙に聞こえるかもしれない。しかし哲学が「もっとも根源的な問いに向き合うこと」だとすれば、死は避けて通れない。避けられない。理解できない。しかし確実にやってくる。

自分がいつか死ぬという事実を、本当に「理解している」人間はどれくらいいるだろう。知識として「知っている」ことと、実感として「わかっている」ことのあいだには、深い溝がある。大切な誰かを失ったときに、頭ではわかっていても感情がまるでついてこない、あの感覚のことだ。

死を忘れるために私たちが日常的に行っていることの一覧を作ってみたら、おそらくそれは日常生活そのものと区別がつかなくなる。仕事に行くこと。買い物をすること。画面をスクロールすること。予定を入れること。すべてが、ある意味で、死から目をそらすための精巧な仕組みかもしれない。

エピクロスの論理が正しくても、私たちは死を恐れる。ハイデガーの分析が正しくても、私たちは日常に埋没する。哲学は死について膨大な言葉を費やしてきた。しかし死そのものについては、本当には何も言えていない。

意味のない宇宙で朝起きる理由

宇宙はあなたに興味がない。

ブレーズ・パスカルは17世紀の断章集『パンセ』のなかで人間を「考える葦」と呼んだ。人間は自然のなかでもっとも弱い存在だ。一滴の水、一吹きの風が人間を殺すのに十分だ。しかし人間は、自分が死ぬことを知っている。宇宙は人間を押し潰すのに何の努力もいらないが、宇宙はそのことを知らない。人間のすべての尊厳は思考のなかにある、とパスカルは言う。

パスカルは別の断章(139)で、人間の不幸はすべて、部屋のなかでじっとしていられないことから生じる、とも書いた。キルケゴールは退屈を悪の根源と呼んだ。退屈から逃れるために人間はあらゆることをする。仕事。娯楽。恋愛。戦争。スマートフォンの画面を際限なくスクロールすること。暇が怖いだけなのかもしれない。もしかするとそのすべてが、自分自身と向き合うことの恐怖から逃れるための手段なのかもしれない。

しかし逆説的に、退屈こそが思考の条件だ。暇でなければ哲学は生まれなかった。古代ギリシアで哲学が開花した背景には、市民が生産労働から一定程度解放されていたという社会構造がある。忙しさのなかで生まれる思考は、ほとんどが実務的なものだ。「なぜ存在するのか」と問うには、まず退屈でなければならない。退屈を「問題」として解消しようとする態度自体が、すでにある種の逃避なのかもしれない。

アルベール・カミュは1942年のエッセイ『シーシュポスの神話』で「不条理」について書いた。人間は世界に意味を求める。しかし世界はその要求に応えない。この不和が不条理だ。ギリシア神話のシーシュポスは、永遠に巨大な岩を山頂まで押し上げる罰を受けた。岩は山頂に届くたびに転がり落ち、シーシュポスはふたたび下に降りて同じことを繰り返す。終わらない。意味がない。

しかしカミュはこう書いた。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない。」

不条理を認識した上で、それでも岩を押し続けること。それがカミュの言う「反抗」だ。宇宙の無意味に対する反抗としての生。しかし冷静に考えると、反抗には反抗する相手が必要だ。宇宙は、人間が反抗していることすら気づかない。窓のない部屋で叫んでいるようなものだ。声は壁に反射して、自分の耳に戻ってくるだけだ。それでも岩はまた転がり落ち、シーシュポスはまた歩き出す。

それでも朝起きるのはなぜか。

おそらく、理由なんてない。朝が来たから起きる。それだけだ。そこに意味を求めること自体が、人間の病であり、たぶん同時に、人間の尊厳でもある。

だから何なんだ

これだけの問いを並べてきた。

真実はどこにあるのか。洞窟の外か、内か。産婆は何を産ませるのか。無知は特権か。民主主義は真理を見つけられるか。真理はメタファーか。言葉は真実を捕まえられるか。帰ってきた者は聞いてもらえるか。意志は自由か。昨日の自分は今日の自分か。死とは何か。起きる理由はあるか。

答えは、ひとつも出ていない。

2500年間、人類はこういった問いを考え続けてきた。賢い人も、そうでない人も。何千ページの著作を残した人も、一行も書かなかった人も。そして2500年後の今日も、答えは出ていない。おそらくこれからも出ない。

全員が正しい。全員が正しいなら、誰も正しくない。誰も正しくないなら、「正しさ」という概念が溶ける。正しさが溶ければ、残るのは、ただ生きているという事実だけだ。

それでも明日も朝が来る。

それだけだ。

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Dependabotの対応が面倒なのでRenovateを導入する

Dependabotくんはある程度の依存関係の更新を通知してくれるが、山のようにprojectを抱えているとなんとも痒いところに手が届かない。 ということで、Renovateを使ってみる。 Build software better, togetherGitHub is where people build software. More than 150 million people use GitHub to discover, fork, and contribute to over 420 million projects.GitHub ここからGitHub Appを入れる。 あとは、指示に従ってポチポチするだけで、超かんたんだった。 感想 自動化最高。

By Sakashita Yasunobu

nodejsのバグを見つけたのでPRを投げてみた

概要 要するに、node --testで特定のバイナリを標準出力に書くと、テストランナーが固まったり、異常終了したりするバグです。 バグ自体は既知のものだったようで、修正がされていました。 test_runner: infinite loop in FileTest#drainRawBuffer when child stdout contains FF 0F followed by large size bytes · Issue #62693 · nodejs/nodeVersion v25.9.0 (also reproduced on v24.14.1 LTS, v22.21.0 LTS, v23.4.0) Platform Darwin 25.

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青空文庫のParser

青空文庫のParser

青空文庫のParserを作ってます。 GitHub - P4suta/aozora: Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks.Pure-functional Rust parser for 青空文庫記法 (Aozora Bunko notation): ルビ, 傍点, 縦中横, 外字, 返り点, indent containers, page breaks. - P4suta/aozoraGitHubP4suta Rustで作ってますが、配布物はcargoのほかにnpm/pypiでも入手できます Documentation * Playground — try it in

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