選んだはずの指先が止まらない夜に
スクリーンタイムの通知を見て「嘘でしょ」と思ったことがあるなら、あなたは問題の当事者である。3時間、4時間、ときには5時間。自分では30分くらいしか触っていないつもりだった。しかもその間、「やめよう」と思えばいつでもやめられたはずだった。少なくとも、そう感じていた。
選んでいるのに、選んでいない
スマホを操作しているとき、私たちは常に「選択」をしている。この動画を見るかスキップするか。この投稿にいいねするかしないか。次のアプリを開くか閉じるか。選択肢は確かに存在しており、どちらを選ぶかは自分が決めている。
しかし問題は、その選択肢の「枠組み」自体が設計されていることである。選択肢は与えられているが、選択の場を設計したのは自分ではない。これが「自分で選んでいる感覚」が維持される仕組みである。
アテンション・デザインの具体的な仕組み
スマホのUIには、ユーザーの注意を引き続けるための設計が随所に埋め込まれている。
無限スクロール。 コンテンツに「終わり」がない。雑誌なら最後のページがあるが、SNSのフィードは底がない。「もう少しだけ」が永遠に続く構造になっている。
自動再生。 動画が終わると次の動画が自動的に始まる。「見ることを選ぶ」のではなく、「見ないことを選ぶ」必要がある。デフォルトが「継続」に設定されているため、何もしなければ見続けることになる。
通知バッジ。 赤い丸に数字が表示される。未読の存在を示すこの小さなアイコンは、「確認しなければ」という微小な義務感を生む。
プルトゥリフレッシュ。 画面を引き下げるとコンテンツが更新される。スロットマシンのレバーと同じ構造である。「次に何が出るかわからない」という変動報酬が、この操作を繰り返させる。
これらはすべて、トリスタン・ハリスが「注意経済」と呼んだ構造の具体例である。ユーザーの注意は商品であり、その注意をできるだけ長く留めることがプラットフォームのビジネスモデルになっている。
選択アーキテクチャとナッジ
行動経済学におけるナッジ理論(リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン)は、選択肢の提示方法が人間の選択を左右することを明らかにした。
同じ選択肢でも、デフォルトの設定を変えるだけで選択結果は大きく変わる。臓器提供の同意率は、「デフォルトが同意」の国では90%を超え、「デフォルトが不同意」の国では20%前後にとどまるという有名なデータがある。人は「選択する」のではなく、「デフォルトを受け入れる」のである。
スマホアプリの設計にもまったく同じ構造がある。通知はデフォルトでオン。自動再生はデフォルトでオン。退会ボタンは設定メニューの奥深くに隠されている。ダークパターンと呼ばれるこうした設計は、ユーザーの「選択の自由」を形式的に保ちながら、実質的に特定の選択へ誘導する。
「選んでいる」と感じながら、実際にはデフォルトに従っているだけであることが多い。
主観的な使用時間と客観的な使用時間のズレ
スクリーンタイムの数字が「嘘でしょ」と感じられるのは、主観的な時間感覚と客観的な経過時間が乖離しているからである。
没入状態にあるとき、時間の経過は主観的に短く感じられる。SNSはこの没入を意図的に設計している。コンテンツが次々に切り替わることで飽きを防ぎ、没入を維持し、時間感覚を麻痺させる。
Ward et al.(2017)の研究では、スマホが視界に入るだけで認知能力が低下することが示された。ポケットに入れていても、机の上に置いてあるだけでも、スマホの存在が注意資源の一部を消費する。「選んでいない」時間にすら、スマホは影響を及ぼしている。
努力できない仕組みの分析で述べた「意志力の問題ではなく環境の問題」という視点は、スマホの使いすぎにもそのまま当てはまる。意志力でスマホに対抗しようとすること自体が、構造的に不利な戦いなのである。
これは自由意志の日常版である
「自分で選んでいる感覚」がありながら、実際には設計された枠組みの中で行動している。この構造は、誰も何も選んでいないで論じた自由意志の問題と同型である。
哲学的な自由意志の議論は抽象的で日常から遠いように見えるが、スマホの使用はその構造を日常レベルで体験させてくれる。「自分の意志で行動しているつもりが、環境に誘導されている」という感覚は、自由意志論の教科書よりもスクリーンタイムの通知のほうがよく伝えてくれる。
鎖を愛した動物で描いた「自発的に不自由を選ぶ」構造もここに重なる。私たちはスマホを使い続けることを「選んで」いる。その「選び」が設計された環境のなかでの選択であることを自覚するかどうかが、この問題の核心である。
まとめ
スマホを見続けてしまうのに「自分で選んでいる感覚」があるのは、選択肢は与えられているが選択の枠組み自体が設計されているからである。この記事は「スマホを見るな」とは言わない。ただ、「選んでいる感覚」の正体を理解することには意味がある。自分の注意がどこに向けられ、何によって誘導されているかを知ることは、それを取り戻すための最初の一歩になる。