綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。

それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。

もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。

綱を引く手が教えたこと

リンゲルマンの実験は素朴だった。

1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。

この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が「自分はちゃんとやっている」と思っている。全員が、半分しかやっていない。

1974年、インガムらはこの結果を追試し、巧妙な実験を設計した。実際には一人で引いているのに集団で引いていると思い込ませる「疑似集団」条件を作ったのだ。結果、疑似集団条件でも出力は低下した。つまり、物理的な協調の失敗だけが原因ではない。「集団のなかにいる」という認識そのものが、人間の出力を下げる。

1979年、社会心理学者ビブ・ラタネ、キプリング・ウィリアムズ、スティーブン・ハーキンズは、この現象に「社会的手抜き(social loafing)」という名前を与えた。彼らは、目隠しとヘッドフォンをつけた参加者に声を出して叫ばせた。一人で叫んでいると伝えた場合と、集団で叫んでいると伝えた場合では、後者のほうが明らかに声が小さかった。実際にはどちらも一人で叫んでいた。

怠けたくて怠けているのではない。集団に属しているという事実が、個人を希釈する。

消える主語

社会的手抜きの核心は、責任の拡散にある。

集団が大きくなると、「自分がやらなくても誰かがやるだろう」という推論が成立しやすくなる。この推論は、論理的には間違っていない。五人のチームで一人が手を抜いても、残りの四人が補えば成果物は完成する。問題は、全員が同じ推論をしていることだ。

この構造は、傍観者効果と相似形をなす。緊急事態の目撃者が多いほど、個人が介入する確率が下がる。社会的手抜きでは「自分の貢献は小さい」と感じることで努力が減り、傍観者効果では「誰かが助けるだろう」と感じることで行動が止まる。メカニズムは異なるが、到達する場所は同じだ。集団が大きくなるほど、主語が消える。

誰のせいでもないで論じたように、責任の所在が曖昧になるとき、道徳的な非難は宙に浮く。社会的手抜きにおいても、誰を責めればいいのかわからない。全員が少しずつ手を抜き、全員が少しずつ責任を回避し、成果物はなんとなくの形で完成する。それを「怠慢」と呼ぶことはできる。しかし、構造が個人を溶かしているとき、個人に責任を求めることにどれほどの意味があるのだろうか。

合理的な裏切り

経済学者マンサー・オルソンは1965年の著書『集合行為論(The Logic of Collective Action)』で、この問題をさらに冷たく記述した。

公共財の供給において、個人は貢献しなくても便益を受けることができる。これがフリーライダー問題だ。全員が協力すれば全員が得をする。しかし、自分だけが協力をやめても、便益はほとんど減らない。ならば、合理的な選択は「協力しない」になる。全員がそう考えれば、誰も協力しない。

オルソンが指摘した核心は、集団が大きくなるほどフリーライダーの誘惑が強まるという点にある。小さな集団では、一人の離脱が全体に与える影響が大きいため、相互監視と社会的圧力が機能する。しかし集団が数十人、数百人、数千人と膨らむにつれ、一人の離脱はほとんど検知されなくなる。

裏切ることだけが正しいで描いた囚人のジレンマは、二人の間の裏切りの構造だった。社会的手抜きは、それを数十人、数百人に拡張したときに何が起きるかの実演だ。裏切りは意識的な選択ですらなくなる。ただ、力が抜ける。ただ、声が小さくなる。

一票という嘘で触れた投票のパラドックスも、同じ構造を持っている。一億人の有権者のうち、あなたの一票が結果を変える確率は限りなくゼロに近い。ならば、投票に行くコストは便益を上回る。合理的には、投票しないほうが正しい。しかし全員がそう考えれば、民主主義は停止する。

150人の向こう側

イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは、霊長類の大脳新皮質の大きさと集団サイズの相関から、人間が安定的に社会関係を維持できる上限を約150人と推定した。いわゆるダンバー数だ。

150人以内の集団では、誰が何をしているかがおおよそ把握できる。貢献は目に見え、怠慢も目に見える。評判というメカニズムが機能し、社会的手抜きは抑制される。

しかし、150人を超えると、個人は匿名性のなかに沈み始める。近づくほどに遠ざかるもので書いたように、人間関係には認知的な容量の天井がある。その天井を超えたとき、他者は「顔のある誰か」から「集団の一部」に変わる。自分もまた、他者にとって「集団の一部」になる。

現代社会のほとんどの組織は、150人をはるかに超えている。企業、大学、都市、国家。リンゲルマンが綱引きで測定した力の減衰は、そのまま、大規模組織における個人の希薄化の寓話として読める。

見えない糸はどこまで細くなるか

ラタネは1981年に社会的インパクト理論を提唱し、社会的影響の大きさは、影響源の「強度」「即時性」「数」の積で決まると述べた。影響を受ける側の人数が増えれば、一人あたりに及ぶ影響は反比例的に減少する。

リモートワークの普及は、この方程式に新たな変数を加えた。物理的な「即時性」がゼロに近づくとき、社会的影響力はさらに希薄になる。画面越しのミーティングで、あなたはカメラをオフにする。発言を求められなければ黙っている。チャットに「了解です」と書く。それで仕事は回る。

しかし考えてみれば、オフィスに出社して「忙しそうに見せる」ことも、一種の社会的手抜きではなかっただろうか。努力できない仕組みの分析で論じたように、努力は意志の問題ではなく環境の設計の問題だ。リモートワークが社会的手抜きを「生んだ」のではない。もともとあった手抜きの形が変わっただけかもしれない。

集団という溶剤

ここまで見てきたのは、集団が個人を希釈するメカニズムだった。リンゲルマンの綱引き、ラタネの叫び声、オルソンのフリーライダー。どれも同じことを示している。人が集まれば集まるほど、一人ひとりは薄くなる。

最初の一言が全員の席を決めるで描いたように、集団のなかでの役割は構造が作り出す。あなたがリーダーになったのは能力のためではなく、たまたま最初に口を開いたからかもしれない。あなたが黙っているのは怠慢のためではなく、構造がそう仕向けたからかもしれない。

そしてこの構造は、組織設計やインセンティブ設計で「改善」できるものとして語られることが多い。個人の貢献を可視化せよ。チームサイズを小さくせよ。責任を明確にせよ。それはおそらく正しい。正しいが、根本的な問いには答えていない。

なぜ人間は、集団のなかで自分を保てないのか。

あるいは、もっと不愉快な問いを立てるなら。「自分」というものは、最初からそれほど確かなものだったのか。一人で綱を引いているときの全力とは、いったい何を基準にした「全力」なのか。集団のなかで力が減るのではなく、一人でいるときに何か別の力……たとえば「見られている」という圧力が加わっているだけではないのか。

集団は個人を溶かす。しかし、溶ける前の個人が確固としたものだったという前提もまた、疑わしい。

結局のところ、リンゲルマンの綱引きが教えているのは、人間が集団のなかで怠けるという事実ではないのかもしれない。人間が「個人」として存在すること自体が、ある種の例外的な状態だということかもしれない。集団に溶けるほうが、むしろ自然なのだ。そしてその自然さのなかで、あなたの力は半分になり、声は小さくなり、責任は蒸発する。

誰も怠けてはいない。ただ、集まっただけだ。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

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何でも飾れる額縁だけが残った

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