ぼっちで過ごす大学生活が本当に詰むパターン・詰まないパターン

詰むパターン。

なし。

以上。

…と言い切りたいところだが、さすがに乱暴なので少し補足する。

「ぼっち=詰む」は思い込み

「大学でぼっちだと詰む」という言説はネット上に溢れている。友達がいないと過去問が手に入らない。グループワークで孤立する。就活の情報が入ってこない。飲み会に呼ばれない。

このうち、本当に大学生活を脅かすものがいくつあるか、冷静に数えてみてほしい。

飲み会に呼ばれないことは、大学生活が「詰む」こととは関係がない。過去問がなくても試験は受けられる。むしろ過去問に頼らずに自分で教科書とノートを読み込んだほうが、理解は確実に深まる。

「ぼっち=詰む」という図式は、大学の構造を理解していないことから生まれる誤解だ。大学は高校とは違う。クラスがなく、担任がおらず、同じメンバーと毎日顔を合わせる仕組みになっていない。一人でいることは、この環境ではまったく自然な状態だ。

詰まないパターン(ほとんど全部)

具体的に見ていこう。

講義。大学の講義は基本的に個人で受けるものだ。隣に友達がいようがいまいが、教員の話を聞き、ノートを取り、課題を提出するという流れは変わらない。むしろ友達と隣に座ると私語が増えて集中力が落ちるリスクすらある。

試験。過去問がなくても詰まない。シラバスに試験範囲は書いてある。教科書を読めばいい。授業ノートを見直せばいい。過去問は便利な道具ではあるが、なければ困るものではない。過去問に頼りすぎて本質を理解していない学生のほうが、長期的にはよほど困る。

情報収集。休講情報、履修登録、課題の締切。これらは大学の公式サイト、学務システム、掲示板に掲載されている。友人経由で得る必要はない。むしろ公式情報に直接当たる習慣をつけたほうが、伝聞による誤情報を避けられる。

昼食。一人で食べることに何の問題もない。学食で一人で食べている人は山ほどいる。気になるなら周りを見てほしい。見渡せば一人で食べている人のほうが多い日もある。

空き時間。図書館に行く。自習室を使う。散歩する。カフェに行く。やることはいくらでもある。空き時間を一人で過ごすことは暇が怖いのとは違う。自分の時間を自分で使えるということだ。

就活。就活情報は大学のキャリアセンターや企業の公式サイトから得られる。友人からの口コミは参考にはなるが、それがなければ就活ができないわけではない。むしろ、人の選考状況に一喜一憂しないぶん、自分のペースで進められるメリットがある。

唯一気をつけるべきこと

ぼっちで大学生活が詰むパターンは「なし」と言い切ったが、ひとつだけ注意点がある。

孤立と孤独を混同しないこと

一人でいることを選んでいる状態と、助けが必要なのに誰にも頼れない状態は、まったく別物だ。前者は自立。後者は孤立。

一人でいることは問題ない。しかし、本当に困ったとき、たとえば体調を崩したとき、履修を大きく間違えたとき、精神的に追い詰められたとき、頼れる窓口がゼロだと危険だ。

これは友達で解決する問題ではない。大学には学生相談室がある。保健管理センターがある。教員のオフィスアワーがある。学務の窓口がある。これらの存在を知っておくこと。必要なときに使えること。それだけで孤立は防げる。

友達の有無と、支援へのアクセスは別の問題だ。後者さえ確保していれば、ぼっちで詰むことはない。

ぼっちの利点

むしろ、一人でいることには明確なメリットがある。

時間の自由。誰かに合わせる必要がない。自分の学びたいことに、自分のペースで、好きなだけ時間を使える。大学は自由に使える時間が多い。その時間を自分のために使えることは、大きなアドバンテージだ。

集中力。人間関係の維持には驚くほどのエネルギーがかかる。そのエネルギーを勉強や趣味や自分の成長に回せる。

自分の輪郭。周囲に流されずに自分の関心を掘り下げられる。何が好きで何が嫌いか、何を面白いと思い何に退屈するか。一人でいる時間のなかで、自分の輪郭がはっきりしてくる。

人間関係のストレスがない。これは過小評価されがちだが、実は大きい。グループの力学、気を遣い合う会話、断りにくい誘い。これらがないだけで、精神的な負荷はかなり軽くなる。

グループワークはどうするのか

「ぼっちだとグループワークで困る」という心配は理解できる。実際、大学にはグループで取り組む課題がある。

結論から言えば、なんとかなる。

多くの場合、教員がグループを指定するか、その場で組ませる。「友達同士で組んでください」という最悪のパターンもないとは言わないが、その場合でも教員に事情を伝えれば対処してもらえることがほとんどだ。教員は学生が一人で困っていることに気づかないだけで、言えば配慮してくれる。

グループワークで必要なのは友情ではない。課題を分担し、締切を守り、自分の担当分を仕上げるという、ごく基本的な協働の能力だ。これは友達でなくてもできる。むしろ友達同士のグループのほうが馴れ合いで質が下がることもある。

まとめ

ぼっちで過ごす大学生活が詰むパターンは、基本的に存在しない。

情報は公式ソースから取れる。試験は自力で乗り越えられる。グループワークはその場で対処できる。就活も一人で進められる。一人で食事をすることは何の問題もない。

唯一気をつけるべきは、一人でいることと孤立を混同しないこと。困ったときに頼れる公的な窓口の存在を知っておくこと。それだけ守れば、あとは自由だ。

大学で友達を作る方法は「作ろうとしないこと」だと別の記事で書いた。ぼっちで詰むかどうかの答えも同じ方向を指している。一人でいることは大学生活の失敗ではない。むしろ、自分の時間と学びを自分でコントロールできている証拠だ。

孤独は治らない。でも、孤立は防げる。大学は、一人でいることが許される数少ない場所だ。その自由を楽しめばいい。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu