星空を眺める

夜空を見上げて、明るい星をじっと見つめる。よく見えるはずだと思って目を凝らすのに、なぜかぼんやりして、はっきりしない。ところが、ほんの少し視線をずらした瞬間、さっきまで見えなかった淡い星がふっと浮かび上がる。

これは錯覚ではない。目の構造がそうさせている。

網膜の二つの顔

人間の網膜には、光を受け取る細胞が二種類ある。錐体細胞と桿体細胞だ。

錐体細胞は網膜の中心部、中心窩と呼ばれる領域に密集している。色を識別し、細かい形を捉える。日中の視覚を担う主役だ。一方、桿体細胞は網膜の周辺部に多く分布している。色はほとんど感じ取れないが、わずかな光にも反応する。暗い場所での視覚は、こちらが支えている。

つまり、目の真ん中は明るい場所に強く、目の端は暗い場所に強い。昼と夜で、網膜の中で主役が入れ替わっている。

星空を眺めるとき、暗い星を直視するということは、光に対して鈍感な中心窩で捉えようとしていることになる。見えないのは当然だ。

逸視という技術

天文観測の世界には「averted vision」という技法がある。日本語では「逸視」と訳されることが多い。やり方は単純で、見たい天体から少しだけ視線をずらす。目標の天体が視野の端に入るようにすると、桿体細胞が豊富な周辺部で光を捉えることになり、直視では見えなかった淡い天体が見えるようになる。

ずらす角度は、目標から8度から16度ほど。腕を伸ばしたときの拳ひとつ分くらいが目安だ。最初は不自然に感じるが、慣れると自然にできるようになる。星雲や暗い星団を観察するとき、逸視ができるかどうかで見える天体の数がまるで変わる。

「見たいものを見るために、目を逸らす」。直感に反するこのアドバイスは、網膜の構造を知れば完全に合理的だ。あなたには何も見えていないで書いたように、「見える」という体験そのものが、私たちが思っているほど自明ではない。星空はその事実を、もっとも素朴な形で突きつけてくる。

暗闇に目が慣れるまで

星空を見に行って、到着してすぐに空を見上げても、星はあまり見えない。暗い場所に出たばかりの目は、まだ明所視のモードで動いている。

暗順応には時間がかかる。桿体細胞の感度が十分に上がるまで、20分から30分が必要だ。視覚色素であるロドプシンの再合成に時間がかかるためで、この過程は省略できない。

だから、星空を見に行ったらまず待つ。スマートフォンの画面を見てはいけない。明るい光を一瞬でも見ると、暗順応がリセットされる。天文観測者が赤いライトを使うのはこのためだ。赤い光は桿体細胞をほとんど刺激しないので、暗順応を維持したまま手元を照らすことができる。

光害という壁

暗順応を完璧にしても、空が明るければ意味がない。

都市部の夜空は、街灯や建物の光が大気中の微粒子に散乱されて、全体的にぼんやりと明るい。これが光害だ。光害の程度を測る尺度として、ジョン・ボートルが2001年に提唱したボートル・スケールがある。1から9までの9段階で、数字が小さいほど暗い空を意味する。

クラス1は、天の川が地平線から影を落とすほど暗い空。クラス9は大都市の中心部で、最も明るい恒星と月、惑星くらいしか見えない。日本の一般的な市街地はクラス6から7程度で、肉眼で見える星は明るいものに限られる。

人間の肉眼が理想条件で見える限界は、およそ6等星だ。しかし光害のある都市部では、2等星から3等星が限界になる。6等星まで見えるということは、約5,000個の星が見えるということだが、3等星までとなると、200個にも満たない。同じ空を見上げているのに、場所が違うだけで、見える宇宙の広さがまるで違う。

望遠鏡より双眼鏡

星空観察を始めようとすると、まず望遠鏡を買おうとする人が多い。しかし、入門には双眼鏡のほうが向いている。

理由はいくつかある。まず、望遠鏡は倍率が高すぎる。視野が狭くなるため、目的の天体を導入すること自体が難しい。初心者が望遠鏡で月を捉えるだけでも、予想以上に手間取る。一方、双眼鏡は視野が広く、肉眼の延長として使える。「あのあたりに何かありそうだ」と思ったら、そのまま双眼鏡を向ければいい。

さらに、双眼鏡は両目で覗く。人間の視覚は両眼視を前提に設計されているから、片目で覗く望遠鏡より自然で疲れにくい。7倍から10倍程度の双眼鏡があれば、月のクレーター、木星の衛星、アンドロメダ銀河、プレアデス星団など、十分に楽しめる対象がある。

見えないものを見る

星空を眺めるという行為は、視覚の限界と向き合う行為でもある。

暗い星を見るために目を逸らす。暗闇に慣れるために待つ。光害を避けるために暗い場所へ移動する。どれも、日常生活では意識しない「見る」という行為の条件を、一つずつ丁寧に整えていく作業だ。

都市に住んでいると、星空は「見えないもの」になっている。しかし、星が消えたわけではない。いつだってそこにある。見えなくしているのは、私たちが作った光だ。

晴れた夜に、少しだけ暗い場所を探して空を見上げてみる。20分待って、明るい星のすぐ横に視線を置く。さっきまで何もなかった空間に、淡い光が浮かぶ。

見えなかったものが見えるようになる瞬間は、いつだって静かだ。灯りと不在で書いた「意識の不在」とは違う種類の不在だが、光を遮るものを取り除いたとき、そこに最初からあったものが現れるという構造は、どこか似ている。

Read more

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu