決断できない状態の構造

どちらにするか決められない、と言ったとき、周囲の人間は「どっちでもいいから早く決めろ」と言う。たぶん、その通りだ。どちらでもいい。だからこそ決められない。

似すぎた選択肢

選択肢が二つある。どちらも同じくらい魅力的で、どちらも同じくらい不安がある。AにはAの利点があり、BにはBの利点がある。Aを選べばBの利点を失い、Bを選べばAの利点を失う。

心理学者バリー・シュワルツは『選択のパラドックス』の中で、選択肢が多すぎると人は決断できなくなり、たとえ決断しても満足度が下がると論じた。だが、選択肢が二つしかなくても決断できないことがある。問題は量ではない。選択肢の間の差が小さすぎることだ。

ふたつの選択肢が似ていれば似ているほど、どちらかを選ぶ理由が見つからなくなる。中世の思考実験に、ビュリダンのロバがある。等距離に置かれた二つの干し草の束の間で、どちらに行くか決められずに餓死するロバ。何でもいいと思えるほどに選択肢が拮抗しているとき、「何でもいい」は「何も選べない」に変わる。

正解があるという呪い

決断を阻むもうひとつの構造は、「正解がある」という思い込みだ。

就職先を選ぶとき。住む街を決めるとき。人生のあらゆる分岐点で、人はどこかに「正解」があると信じている。この会社ではなくあの会社にすべきだった。この街ではなくあの街に住むべきだった。そういう後悔が将来やってくることを恐れている。

だが、人生の選択に正解はない。正解がないのに正解を探し続けることで、すべての選択肢が「不十分」に見えてしまう。どれを選んでも「もっと良い選択があったのでは」という疑念が消えない。なおも自由という夢を見るとき、自由そのものが足枷になる。

キルケゴールは『あれか、これか』で、選択の本質を問うた。選ぶこと自体が不安を生む。なぜなら、選ぶということは、選ばなかった可能性をすべて殺すことだからだ。Aを選んだ瞬間、「Bを選んだ自分」は永久に消滅する。決断とは、可能性の殺害だ。

決断しないという決断

先延ばしにする。もう少し情報を集めてから。もう少し考えてから。来週まで待ってから。

だが先延ばしにすること自体が、ひとつの決断になっている。「今は決めない」という決断。そしてこの決断は、しばしば最悪の結果を招く。選択肢には期限がある。迷っている間に締め切りが過ぎ、募集が終わり、席が埋まる。決めなかったことで、結果的にすべての選択肢を失う。

自由意志を手放せないままでいると、すべての結果が自分の選択の帰結になる。選ばなかったことすらも、自分の選択だったことになる。責任から逃れられない。

「決断した後の自分」が見えない

たぶん、決断を最も困難にしているのは、選択肢の比較ではない。

決断した後の自分が想像できないことだ。Aを選んだ自分がどんな人間になるのか。Bを選んだ自分がどんな日常を送るのか。それがまるで見えない。見えないものに向かって飛び込むことを、人は決断と呼ぶ。だが、見えない崖の向こうに飛び込む勇気がある人間が、いったいどれだけいるのか。

誰も何も選んでいないのだとすれば、決断できないことを恥じる必要はない。あなたが優柔不断なのではなく、選択という行為の構造そのものに、人間を麻痺させる何かが組み込まれている。

分岐点に立ち尽くす

結局のところ、「決断できない」は個人の欠陥ではなく、自由の代償だ。

選択肢がなければ悩まなくていい。選ぶ自由がなければ、後悔もない。鎖のない牢獄の中で、あなたはどこへでも行ける。どこへでも行けるから、どこにも行けない。

分岐点に立ち尽くしたまま、時間だけが過ぎていく。どちらに進んでも、きっとあなたは「もう一方の道」のことを考え続ける。選ばなかった道の先にあったかもしれない景色を、一生想像し続ける。

それが決断するということだ。そして、それが決断できないということでもある。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

By Sakashita Yasunobu

何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu