倫理と思考実験
うらやましいなあ
もし誰か他の人間になれるとしたら、なりたいか。 「なる」の正体 「誰かになれる」という言葉は、考えれば考えるほど意味がわからなくなる。 ある人の体に自分の意識が入ること? その人の人生を最初からやり直すこと? その人の記憶と性格をまるごと引き受けること? どれを選ぶかで、問いの意味そのものが変わってしまう。 自分の意識が残るなら、それは「他人の体を借りた自分」であって、他人になったことにはならない。記憶も性格もすべて書き換えるなら、「自分」はもうどこにもいない。 トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、こう論じた。人間がコウモリの行動を想像することはできても、コウモリにとってコウモリであることがどのようなものかを知ることは、原理的に不可能だ、と。主観的な経験には、外から観察しただけでは絶対にたどり着けない何かがある。 これは人間同士でも変わらない。他人の人生を外側から眺めて「なりたい」と思うことはできる。でも、その人の内側から世界を見ることは、どこまでいっても想像の域を出ない。 「なる」という言葉が約束しているものは、たぶん誰にも届け