生きること

We die, and we know it. These entries sit with what that means: freedom, solitude, happiness, time, memory, choice. None of them arrive at comfort. They ask what it is to remain here, awake to the weight of it, without turning away.

倫理と思考実験

うらやましいなあ

もし誰か他の人間になれるとしたら、なりたいか。 「なる」の正体 「誰かになれる」という言葉は、考えれば考えるほど意味がわからなくなる。 ある人の体に自分の意識が入ること? その人の人生を最初からやり直すこと? その人の記憶と性格をまるごと引き受けること? どれを選ぶかで、問いの意味そのものが変わってしまう。 自分の意識が残るなら、それは「他人の体を借りた自分」であって、他人になったことにはならない。記憶も性格もすべて書き換えるなら、「自分」はもうどこにもいない。 トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、こう論じた。人間がコウモリの行動を想像することはできても、コウモリにとってコウモリであることがどのようなものかを知ることは、原理的に不可能だ、と。主観的な経験には、外から観察しただけでは絶対にたどり着けない何かがある。 これは人間同士でも変わらない。他人の人生を外側から眺めて「なりたい」と思うことはできる。でも、その人の内側から世界を見ることは、どこまでいっても想像の域を出ない。 「なる」という言葉が約束しているものは、たぶん誰にも届け

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

全知の退屈

もしあらゆることを知れるとしたら、あなたは知りたいだろうか。ほとんどの人は、反射的に「知りたい」と答える。知識は善いものだと、私たちはずっと教わってきた。知は力であり、光であり、自由だと。けれど、それは「まだ何も知らない」側にいる者の感想にすぎない。すべてを知った先に何があるのかを、誰も見たことがない。 おそらく、見ないほうがいい。 知るなと言われていた 人類がもっとも古くから語り継いできた物語のひとつは、知ることへの警告だった。 旧約聖書の創世記には、エデンの園に「善悪の知識の木」が立っていたとある。食べてはならない、と神は言った。しかしアダムとイヴはそれを食べた。手に入れたのは知識だった。失ったのは楽園だった。 ギリシア神話のプロメテウスは、神々から火を盗み、人間に与えた。火は技術であり、文明であり、知の象徴として読まれてきた。その代償として彼は岩山に鎖で繋がれ、鷲に肝臓を啄まれ続けた。ゲーテの『ファウスト』では、あらゆる学問を修め尽くした博士が、それでも満たされず、悪魔メフィストフェレスと契約を結ぶ。 文化も時代も違うのに、この構図は繰り返される。知への渇望が破滅を

By Sakashita Yasunobu

生きること

何人殺せば正しくなるのか

ある思考実験がある。 暴走するトロッコの前に、あなたは立っている。このまま放っておけば5人が死ぬ。レバーを引けばトロッコは別の線路に逸れ、5人は助かる。ただし、そちらの線路にいる1人が死ぬ。 あなたはレバーを引くか。 多くの人は「引く」と答える。5つの命と1つの命。どちらが重いかは明らかだ、と。算数としてはこれ以上ないほど簡単な問題に見える。 でも、少しだけ立ち止まってほしい。あなたは今、「人を殺すことが正しい」と言ったのだ。 善意の算数 この思考実験は1967年、イギリスの哲学者フィリッパ・フットが提唱したものだ。のちにジュディス・ジャーヴィス・トムソンがこれを「トロッコ問題」と名づけ、倫理学における定番の思考実験になった。 問いの核はシンプルだ。「より多くの人を救うために、より少ない人を犠牲にすることは許されるか」。功利主義の立場からすれば、答えは明快に思える。全体の幸福を最大化する選択が正しい。5人の命は1人の命より重い。引け。 ところが問題は、この計算がどこまで通用するかだ。 1人を犠牲にして5人を救う。では、1人を犠牲にして100人を救うのは? 1,000

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

4000週間の暇つぶし

あなたが平均寿命まで生きるとして、残りの夏はあと何回来るだろう。仮に60回としよう。60回しかない、と思っただろうか。60回もある、と思っただろうか。 どちらでもいい。その感想は、どうせ何も変えない。 明日も同じ時間に目が覚めて、同じように一日が始まり、同じように終わる。残りの夏が60回だろうと600回だろうと、月曜日の朝の憂鬱さは1ミリも変わらない。 それなのに、なぜ人はこういう数字を知りたがるのだろう。 永遠だったはずの夏 覚えているだろうか。子どもの頃の夏休みが、どれほど長かったか。毎日が途方もなく広くて、退屈すら贅沢品だった。プールの水面に跳ねる光、アスファルトの陽炎、夕暮れの蜩。あの夏は確かに永遠だった。 ところが今はどうか。一年が一瞬で終わる。気がつけば春が来て、気がつけば年末で、気がつけばまた一つ歳を取っている。カレンダーの上では同じ365日なのに。 19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネは、この感覚にひとつの仮説を残した。主観的に感じる時間の長さは、その人の年齢に反比例するというものだ。10歳にとっての1年は人生の10分の1。50歳にとっての1年は50

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

良い人生なんてない

「良い人生とは何か」と問うとき、ほとんどの人はすでに間違えている。 「良い」という形容詞を使った瞬間、何かしらの尺度を前提にしている。幸福か。意味か。道徳か。生産性か。どれを選んでも、選ばなかった残りが影のように後をついてくる。しかも、問うている本人は今まさに生きている最中だ。完成していない小説を批評するようなもので、原理的に公正な評価はできない。 それでも人は問い続ける。だから、ここでもその問いに付き合ってみたい。ただし、答えは用意しない。 幸福は最近できた 現代の「幸福」は、意外と歴史が浅い。 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で「エウダイモニア(εὐδαιμονία)」について長大な考察を展開した。この言葉はしばしば「幸福」と訳されるが、今の私たちが使う「幸福」とはかなり違う。アリストテレスにとって、エウダイモニアとは徳に基づいた魂の活動のことだ。「気分がいい」とか「欲しいものが手に入った」という状態ではなく、人間としての機能を卓越した仕方で発揮し続けるという、動的な営みを指していた。 「幸せになる」のではなく、「よく生きる」。状態ではなく、

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

善も正義もない

あなたは善人ではない。正義の味方でもない。そんなことはとっくに知っている。知っていて、毎朝、善人と正義の味方のふりをして家を出る。その茶番を哲学は2500年かけて証明してきた。以下はその記録だ。読み終えても何も解決しない。むしろ、知らないふりが少しだけ難しくなる。 三等分の絶望 ケーキを三人で分けることを考える。 数学的には精密に三等分できる。しかし、ひとりが「チョコレートの側がいい」と言い、もうひとりが「大きいほうがいい」と言い、最後のひとりが「そもそもケーキなんていらなかった」と言ったとき、三等分という概念は崩壊する。欲望の形が違う人間たちに、ひとつの基準で「公平」を割り当てること自体が、最初から破綻した企てなのだ。 割り勘もそうだ。少食な人間が大食いの人間と同じ金額を払う。「不公平だ」と感じる。その感覚は素朴で、おそらく正当だ。しかし「正当な不満」が存在するなら、不満を解消する「正当な方法」も存在するはずで、その方法が何かについて、三人は永遠に合意できない。 正義とは、要するにそういうものだ。 無知は誰も救わない ジョン・ロールズは1971年の『正義論(

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

人生に筋書きはない

あなたがこの文章を読んでいるのは、偶然だ。 あなたがこの国に生まれたのも、この言語を読めるのも、今日という日にこの画面を開いたのも、すべて偶然だ。もちろん、あなたはそうは思わないだろう。人間はそう思わないようにできている。何かの意味がある、と。ここに至るまでの道のりには筋書きがある、と。 でも、本当にそうだろうか。 この文章は「運命」と「偶然」について考える。考えた結果、何か明確な結論にたどり着くつもりはない。たどり着けるとも思っていない。ただ、考えるほどに足場が崩れていく、その感覚を正直に書き残しておきたいと思った。 「運命」は後から書かれる 「あの出来事がなければ今の自分はいない」。誰もが一度は口にしたことがあるだろう。失敗も、偶然の出会いも、振り返ればすべてが一本の線でつながっているように見える。 だが、それは本当につながっているのだろうか。 ここで起きているのは、おそらく遡行的な意味づけだ。出来事が先にあり、物語は後から来る。私たちは過去の偶然を「あれは必然だった」と語り直すことで、人生に一貫性を与えようとする。だが、それは出来事そのものの性質ではなく、人間の認

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倫理と思考実験

未来の自分は答えない

「もし未来の自分にひとつだけ質問できるとしたら?」 SNSで定期的に浮上するこの話題。コメント欄はいつも賑やかだ。宝くじの番号、株価、結婚相手の名前。楽しそうでいい。誰も深く考えていないし、たぶんそれが正解だ。 少しでも真面目に向き合うと、思った以上に深いところまで連れていかれる。 質問は自白だ たったひとつしか聞けないとき、あなたは何を選ぶだろうか。 「幸せですか?」と聞く人は、今、幸せかどうかわからずにいる。「仕事は続けていますか?」と聞く人は、今、仕事に不安を抱えている。「まだ生きていますか?」と聞く人のことは、ちょっと心配したほうがいい。 つまり、あなたが未来の自分に投げかける質問は、未来について何かを明らかにするのではなく、今この瞬間のあなたの不安の輪郭を、驚くほど正確になぞる。 未来を覗いているつもりで、覗き返されているのは自分のほうだ。 どう答えても壊れる 仮に「幸せですか?」と聞いたとする。 未来の自分が微笑んで「はい」と答える。安堵する。でも、その瞬間から何かがずれはじめる。「幸せになれる」と知ったあなたは、今の苦しみに耐える根拠を手に入れる代

By Sakashita Yasunobu

技術

ストレージを信じるということ

ストレージに求められるのは、便利さと信頼性の両方だ。この二つが揃っている限り、裏側がどんな技術で動いていようと気にする必要はない。ファイルを保存して、必要なときに取り出せる。それだけのことが当たり前に機能し続けること。ストレージへの信頼とは、つまるところそういうことだと思う。 ところが、ストレージには他の技術レイヤーにはない厄介な性質がある。 不可逆性という特殊性 ソフトウェアにおける抽象化とは、内部の複雑さを隠して、使う側に必要な操作だけを見せる設計思想だ。ファイルを「保存」するとき、実際にディスク上でどのようにデータが書き込まれているかを意識する必要がないのは、この抽象化が正しく機能しているからにほかならない。 多くの技術レイヤーでは、抽象化が破綻しても回復の手段がある。計算の誤りはやり直せる。通信の途切れは再送できる。しかしストレージの喪失は、バックアップが存在しなければ取り返しがつかない。破綻したときに巻き戻せないという不可逆性が、ストレージを特別な領域にしている。 同じ性質を持つ分野は他にもある。たとえば暗号鍵の管理がそうだ。秘密鍵を紛失すれば、署名能力は不可逆的

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

美しさに応えるということ

日常が美しいのは、それが過ぎ去るからではない。 それ自身として美しい 季節の移り変わり、窓から差す午後の光、何気ない食卓の風景。こうしたものに心を動かされるとき、「儚いから美しい」という説明がよく使われる。やがて失われるから、今この瞬間が尊い、と。 その感覚はわかる。だが、どうしても違和感が残る。 儚さに美の根拠を置くと、美しさは「失われること」の副産物になってしまう。永遠に続く穏やかな日々があったとして、それは美しくないのか。変化しない安らぎは、美の資格を持たないのか。 そうではないと思う。日常はそれ自身として美しい。失われるから美しいのではなく、ただそこにあることが、すでに美しい。 鑑賞者がいなくても ここで一つの思考実験をしてみる。 美しさには通常、見る側と見られる側がある。鑑賞者と対象。だが、「それ自身として美しい」と言うとき、鑑賞者の存在は本当に必要だろうか。 誰もいない森の中で、光が木漏れ日となって地面に落ちている。それは美しいか。 「美しいと感じる人がいなければ美しくない」と言うこともできる。だが直感的には、誰もいなくても、あの光は美しいと思える。

By Sakashita Yasunobu

生きること

なぜ私たちは書くのか

何かを問うとき、私たちはしばしば、すでに答えを知っている。 問いの逆説 たとえば、議論の場で質問が出ない光景を思い浮かべてほしい。参加者は質問を考えているようで、実は探しているのは問いではなく、期待する答えの方だ。「こう言ってほしい」という感覚がまずあって、それを質問の形に翻訳しようとしている。少し考えれば自力で辿り着けそうだと気づけば、結局聞かない。 これは怠惰ではない。問いの構造そのものがそうなっている。 一方で、純粋に知らないことを尋ねる場面もある。明日の天気。専門外の事実。自分の経験の外にある情報。これらは情報の要求であり、検索すれば事足りる。便利ではあるが、そこに対話としての深みはない。 この二種類の間に、もう一つの問いがある。答えの輪郭はぼんやり見えている。しかし言葉にならない。自分が何を考えているのか、書いてみるまでわからない。この第三の問いにこそ、書くことの核がある。 自己との対話 書くとは、自分の中の曖昧な感覚を言語に変換する作業だ。変換の過程で、自分が何を考えていたかが初めて明らかになる。言語化された考えに対して、今度は自分自身が批判者として応答す

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

電子のゴミ

私は自分がつくるものをすべて「電子のゴミ」と呼んでいる。 別に気取っているわけでも、深刻ぶりたいわけでもない。ただ、少しだけ正直に言ってみただけだ。 文章を書く。写真を撮る。何かをつくる。それらはすべてデジタル機器の上で行われている。物理的に見れば、CPUの演算、RAMに保持された一時的な電荷、ストレージ上の微小な磁気パターン、ネットワークを流れる電気信号。いってしまえば、電子がどこかに移動して、どこかに留まって、その程度のことだ。 もちろん、厳密にはそう単純ではない。デジタルとはいえ、その土台にはアナログな物理過程がある。何かを書く行為が世界にまったく影響を及ぼさないとは言い切れないし、ちょっとした発信が思わぬ波紋を呼ぶことだってある。 でも、と思う。 画面に映る文字は液晶の発光パターンだ。紙に印刷すればインクの染みだ。ディスプレイの電源を落とせば、表示されていたものは消える。LEDが光を放つのも、インクが紙に定着するのも、結局は物理現象に過ぎない。 自分がそのとき抱いた価値。それは、LEDのちらつきだったのかもしれないし、インクのシミだったのかもしれない。 だから、電

By Sakashita Yasunobu