まなざし

Before anything else, something was noticed — not because it demanded attention, but because there was a pause long enough to see it. These entries begin there.

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AIの文章に価値はあるか

AIが生成した記事や、AIとのチャット履歴がネットに溢れている。そしてその大半は、正直なところ、読む気にならない。 AIの記事はなぜ退屈なのか 不思議なことに、AIとの対話は当人にとっては有意義であることが多い。問いを投げ、応答を得て、考えを整理する。その過程には確かな手応えがある。だが、同じやり取りを第三者が読むと、途端に退屈になる。 この落差はどこから来るのか。 AIとの対話で当人が得ているのは、「自分の問い」に対する応答だ。その問いの背後には、これまで何を考え、何に引っかかり、何を言語化できずにいたかという厚い文脈がある。応答がその文脈の上に載ることで、初めて対話に意味が宿る。 第三者にはその文脈がない。文脈を欠いた応答は、ただの情報の羅列だ。 ここに本質的な理由がある。多くのAI生成記事は「誰かの視点」を持たない。何を選び、何を捨てたかという編集の痕跡がなく、あらゆる方向に平等に情報が並ぶ。結果として、誰が書いても同じになるような文章が量産される。誰のものでもない文章は、読者に語りかけない。 シェイクスピアと猿 視点を変えてみよう。 有名な思考実験がある。

By Sakashita Yasunobu

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日記を書こう

日記を書こう。 そう言ったところで、何を書けばいいかはわからない。何のために書くのかも、よくわからない。ただ、今日あったことを、今日感じたことを、どこかに書き留めておきたいという素朴な衝動がある。たぶんそれだけでいい。 断片を並べる場所 ブログの記事や論文には構成がある。伝えたいことがあって、それに向かって文章が組み立てられている。素材を選び、順序を決め、不要なものを削り、必要なものを足す。それは編集された自己の表出だと言えるかもしれない。 日記は、その手前にある。 編集する前の断片を並べる場所。まだ何が重要かわからない。何と何がつながるのかも見えていない。その日あった出来事、ふと頭をよぎった考え、目に入った光景。それらをただ、順不同で、脈絡もなく、並べておく。 そしてその断片は、書いた瞬間にはほとんど意味を持たない。 宛先のない手紙 日記の不思議なところは、書くときと読み返すときで、まったく違うものになるということだ。 書いている瞬間は、ただの記録にすぎない。今日こんなことがあった、こう思った。それだけのこと。でも三か月後、あるいは三年後に読み返すと、書いたとき

By Sakashita Yasunobu

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感想文に何を書けばいいかわからない君たちへ

読書感想文を書けと言われて、一冊の推薦図書を読み終えたとする。読んでいるあいだは、まあ眠くならない程度には面白かった。でも本を閉じた瞬間に出てくる感想は「ふーん」だ。そこから800字を埋めろと言われて、途方に暮れる。 その気持ちは、よくわかる。 でも、ここでひとつだけ伝えたいことがある。感想文は、本当に何を書いてもいい。好き放題、何を書いたっていい。 少し昔の話をさせてほしい。 AIがまだ身近ではなかった頃、自分の思ったことを「それっぽく」見せるために、ちょっとした変換リストのようなものを持っていた。「なんかすげえな」と思ったら「感銘を受けた」と書く。「よく知らないけど、どうやらすごいらしい」は「心の琴線に触れた」になる。そうやって書き換えるだけで、まるで自分の感覚の解像度が上がったような気がしてくる。文筆家でもなんでもないし、自分の文章が上手いとも思っていない。ある種の処世術だ。下手くそで何が悪い、と開き直ってやっていた。 今なら、このくらいのことはAIがやってくれる。思いつくままにぽんぽんと言葉を並べて、あとはいい感じの体裁に仕上げてもらえばいい。 ただ、ここでちょっと

By Sakashita Yasunobu

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小さなブログにコメント欄もアナリティクスもいらない

小さな、熱意のあるサイト運営者へ。 ブログのコメント欄は閉じよう。まだ導入していないなら、導入しなくていい。 そしてアナリティクスも入れなくていい。少なくとも、Google Analytics(GA4)は入れるべきではない。 突拍子もないことを言っているように聞こえるかもしれない。でも、これは思いつきでも逆張りでもなく、実際に小規模ブログを運営してきた多くの人たちが、試行錯誤の末にたどり着いた結論だ。 コメント欄を閉じよう そもそも誰もコメントしない まず、厳しい現実から始めなければならない。 Jakob Nielsenが2006年に提唱した「参加の不平等(Participation Inequality)」の法則によると、オンラインコミュニティではユーザーの90%が閲覧のみ、9%がたまに参加し、積極的に投稿するのはわずか1%にとどまる。ブログのコメント欄ではこの偏りがさらに極端になり、95対5対0.1ほどになるとも指摘されている。 Participation Inequality: The 90-9-1 Rule for Social FeaturesIn mos

By Sakashita Yasunobu

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デジタルの紙を超えて

紙の資料がPDFになった。たったそれだけのことが、実際にはどれほど革命的だったか。そしてなぜ、それだけでは足りないのか。 紙からPDFへ 少し前まで、「資料」といえば紙のことだった。コピー機を通すたびに劣化する文字。数世代のコピーを経て原形をとどめないページ。手書きの注釈が入り混じった印刷物。回覧のために物理的に持ち運ばなければならない書類の束。それが「資料を配布する」ということの実態だった。 コロナ禍を契機にオンライン化が一気に進み、紙の資料は急速にPDFへと置き換わった。コミュニケーションツールが普及し、ファイル共有が当たり前になった。 この変化の大きさを、過小評価すべきではないと心から思う。 ニール・アームストロング船長の有名な言葉が頭に浮かぶ。 That's one small step for a man, one giant leap for mankind. 一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。 紙からPDFへ。ファイルを送るだけで同じ文書が相手の画面に表示される。文字を検索できる。拡大しても潰れない。地球の裏側にいる人に

By Sakashita Yasunobu

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道楽としてのブログ

ブログで収益を得ることについて、何度か考えたことがある。 アフィリエイト、広告、スポンサーシップ。ウェブ上で文章を書いて生活する方法は、少なくとも概念としてはいくつもある。「好きなことを書いてお金がもらえるなんて最高じゃないか」と言う人もいるし、その気持ちは理解できる。 けれど、実際にそこに足を踏み入れてみると、そう単純な話ではないことに気づく。 お金を受け取るということ アフィリエイトには、いい面がある。自分が本当に気に入っている製品やサービスを紹介して、それが誰かの役に立って、その結果としてわずかな報酬が入る。自分の経験を共有することが、そのまま誰かの助けになる。理想的な形で機能しているとき、それは悪い仕組みではない。 ただ、その構造には、静かな引力がある。 報酬が発生するとなると、どうしても「報酬が発生する記事」を書きたくなる。ある商品について正直に「悪くはないが、別にすすめるほどでもない」と思っても、アフィリエイトリンクを貼っている以上、その微妙なニュアンスは書きにくくなる。自分の誠実さと収益のあいだで、小さな摩擦が生まれる。 広告はもう少し単純だ。たとえばGo

By Sakashita Yasunobu

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ストレージを信じるということ

ストレージに求められるのは、便利さと信頼性の両方だ。この二つが揃っている限り、裏側がどんな技術で動いていようと気にする必要はない。ファイルを保存して、必要なときに取り出せる。それだけのことが当たり前に機能し続けること。ストレージへの信頼とは、つまるところそういうことだと思う。 ところが、ストレージには他の技術レイヤーにはない厄介な性質がある。 不可逆性という特殊性 ソフトウェアにおける抽象化とは、内部の複雑さを隠して、使う側に必要な操作だけを見せる設計思想だ。ファイルを「保存」するとき、実際にディスク上でどのようにデータが書き込まれているかを意識する必要がないのは、この抽象化が正しく機能しているからにほかならない。 多くの技術レイヤーでは、抽象化が破綻しても回復の手段がある。計算の誤りはやり直せる。通信の途切れは再送できる。しかしストレージの喪失は、バックアップが存在しなければ取り返しがつかない。破綻したときに巻き戻せないという不可逆性が、ストレージを特別な領域にしている。 同じ性質を持つ分野は他にもある。たとえば暗号鍵の管理がそうだ。秘密鍵を紛失すれば、署名能力は不可逆的

By Sakashita Yasunobu

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美しさに応えるということ

日常が美しいのは、それが過ぎ去るからではない。 それ自身として美しい 季節の移り変わり、窓から差す午後の光、何気ない食卓の風景。こうしたものに心を動かされるとき、「儚いから美しい」という説明がよく使われる。やがて失われるから、今この瞬間が尊い、と。 その感覚はわかる。だが、どうしても違和感が残る。 儚さに美の根拠を置くと、美しさは「失われること」の副産物になってしまう。永遠に続く穏やかな日々があったとして、それは美しくないのか。変化しない安らぎは、美の資格を持たないのか。 そうではないと思う。日常はそれ自身として美しい。失われるから美しいのではなく、ただそこにあることが、すでに美しい。 鑑賞者がいなくても ここで一つの思考実験をしてみる。 美しさには通常、見る側と見られる側がある。鑑賞者と対象。だが、「それ自身として美しい」と言うとき、鑑賞者の存在は本当に必要だろうか。 誰もいない森の中で、光が木漏れ日となって地面に落ちている。それは美しいか。 「美しいと感じる人がいなければ美しくない」と言うこともできる。だが直感的には、誰もいなくても、あの光は美しいと思える。

By Sakashita Yasunobu

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なぜ私たちは書くのか

何かを問うとき、私たちはしばしば、すでに答えを知っている。 問いの逆説 たとえば、議論の場で質問が出ない光景を思い浮かべてほしい。参加者は質問を考えているようで、実は探しているのは問いではなく、期待する答えの方だ。「こう言ってほしい」という感覚がまずあって、それを質問の形に翻訳しようとしている。少し考えれば自力で辿り着けそうだと気づけば、結局聞かない。 これは怠惰ではない。問いの構造そのものがそうなっている。 一方で、純粋に知らないことを尋ねる場面もある。明日の天気。専門外の事実。自分の経験の外にある情報。これらは情報の要求であり、検索すれば事足りる。便利ではあるが、そこに対話としての深みはない。 この二種類の間に、もう一つの問いがある。答えの輪郭はぼんやり見えている。しかし言葉にならない。自分が何を考えているのか、書いてみるまでわからない。この第三の問いにこそ、書くことの核がある。 自己との対話 書くとは、自分の中の曖昧な感覚を言語に変換する作業だ。変換の過程で、自分が何を考えていたかが初めて明らかになる。言語化された考えに対して、今度は自分自身が批判者として応答す

By Sakashita Yasunobu

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比喩の美しさと危うさ

私の尊敬する書き手たちは、比喩を魔法のように使いこなす。たった一つの比喩が、長い説明よりも正確に、読者の胸に像を結ぶ。そういう文章に出会うたびに、自分もこんなふうに書けたらと思わずにはいられない。 近年、誰もが自由に書ける環境が整い、エッセイの書き方やレトリックのテクニックについて語られる機会も増えた。比喩のコツをまとめた記事だって珍しくない。しかし比喩というのは、テクニックの枠に収まりきらないものだと思う。もっと根の深い、もっと本質的な何かが関わっている。 比喩が成立するための前提 比喩が伝わるためには、書き手と読み手が前提を共有していなければならない。 平成生まれの人に昭和の日常感覚を使った比喩を持ち出しても伝わらない。これは世代間の知識差の問題のように見えるが、本質はもっと広い。比喩は、共有された経験や知識の土台がなければ機能しない。 学術論文やIR資料に比喩がほとんど登場しないのは、この共有を保証できないからだ。多様な読み手を想定する場面では、比喩は正確な伝達を妨げるリスクになる。逆にいえば、比喩が真に力を発揮するのは、書き手と読み手のあいだに豊かな共通基盤があると

By Sakashita Yasunobu

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電子のゴミ

私は自分がつくるものをすべて「電子のゴミ」と呼んでいる。 別に気取っているわけでも、深刻ぶりたいわけでもない。ただ、少しだけ正直に言ってみただけだ。 文章を書く。写真を撮る。何かをつくる。それらはすべてデジタル機器の上で行われている。物理的に見れば、CPUの演算、RAMに保持された一時的な電荷、ストレージ上の微小な磁気パターン、ネットワークを流れる電気信号。いってしまえば、電子がどこかに移動して、どこかに留まって、その程度のことだ。 もちろん、厳密にはそう単純ではない。デジタルとはいえ、その土台にはアナログな物理過程がある。何かを書く行為が世界にまったく影響を及ぼさないとは言い切れないし、ちょっとした発信が思わぬ波紋を呼ぶことだってある。 でも、と思う。 画面に映る文字は液晶の発光パターンだ。紙に印刷すればインクの染みだ。ディスプレイの電源を落とせば、表示されていたものは消える。LEDが光を放つのも、インクが紙に定着するのも、結局は物理現象に過ぎない。 自分がそのとき抱いた価値。それは、LEDのちらつきだったのかもしれないし、インクのシミだったのかもしれない。 だから、電

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それでも日常を撮ろう

写真のモチベーションが尽きかけている。 ここ数ヶ月、カメラは防湿庫の中で眠っている。機材は揃った。技術的な知識もそれなりにある。それでも、自分の撮る写真がどうしようもなくつまらなく感じる。場所のせいだとか、機材のせいだとか、いろいろと理由をつけてきたが、そのどれでもないことにはもう気づいている。 写真を撮ること自体に行き詰まっている。そういう時期がある。 面白い写真とは何か SNSを開けば、見事な写真が無限に流れてくる。構図の一ミリの違い、完璧な水平、計算されたライティング。プロの写真家たちは、自分たちの技術がいかに繊細で審美眼がいかに磨かれているかを語る。 それ自体は事実だろう。プロにはプロの技術と経験がある。 だが、私は別にルーブル美術館に飾るために写真を撮っているわけではない。誰かから報酬をもらっているわけでもない。私の写真に対する要求は、強いていうなら自分自身が課しているものだけであり、もっと正直にいえば、高い機材を買ってしまった罪悪感かもしれない。 問題はもっと素朴なところにある。日常が、平凡すぎるのだ。 北欧のような息を呑む景色があるわけでもなく、決定的瞬

By Sakashita Yasunobu