ことばと文学

Language shapes what can be thought. These entries examine how Japanese is structured, how English changed, how stories are built, and what it means to write at all. Linguistics, literature, and the act of putting words in a row.

光と写真

見えない光が写す もうひとつの風景

見えない光で写真を撮る、という行為がある。 カメラのシャッターを切る。構図を決め、ピントを合わせ、露出を調整する。やることは通常の撮影とまったく同じだ。ただひとつ違うのは、写し取る光が人間の目には見えないということ。赤外線写真は、可視光の向こう側にある世界を画像として定着させる技術だ。 出来上がった写真を見ると、緑の木々は真っ白に輝き、空は暗く沈み、雲だけが不気味なほどのコントラストで浮かび上がる。現実の風景を撮っているのに、現実には見えない。この矛盾が、赤外線写真の核にある面白さだ。 赤外線写真とは何か 人間の目が感知できる光(可視光)の波長は、およそ380nmから780nmの範囲だ。赤外線はその上、約780nm以降の波長を持つ電磁波で、近赤外線(780nm-2500nm程度)は写真撮影に利用できる領域にある。 フィルム時代には、赤外線に感光する専用フィルムが存在した。代表的なのはKodak High Speed Infrared(通称Kodak HIE)で、粒子の粗さと独特のハレーションが赤外線写真の「あの雰囲気」を作っていた。残念ながら2007年に製造終了している。

By Sakashita Yasunobu

光と写真

星の光がフィルムに届くまで

デジタルカメラで星空を撮るのは、ある意味で素直な作業だ。ISOを上げて、シャッターを開けて、センサーに光を溜める。露光時間を2倍にすれば、記録される光の量も2倍になる。比例関係がきちんと成り立つ。 フィルムでは、そうはいかない。 相反則不軌という厄介者 フィルムの感度には、教科書通りにいかない領域がある。相反則不軌(reciprocity failure)と呼ばれる現象だ。 通常、フィルムの露光は「光の強さ × 時間」で決まる。これを相反則(reciprocity law)という。ISO 400のフィルムで、ある絞りとシャッター速度の組み合わせが適正露出なら、光の強さを半分にしてシャッター速度を2倍にしても、同じ露出が得られるはずだ。 しかし、露光時間が長くなると、この法則が崩れる。フィルムの感光乳剤に含まれるハロゲン化銀の結晶は、光子を受け取って潜像核を形成するが、光子の到達間隔が長くなりすぎると、形成途中の潜像核が安定する前に崩壊してしまう。つまり、弱い光を長時間当てても、計算通りには感光しない。 星空撮影では、これが致命的に効いてくる。計算上は30秒で適正露出になる

By Sakashita Yasunobu

生きること

1兆の夜明けを数えた星の沈黙

深夜、ベランダに出て空を見上げる。星が見える。あるいは曇っていて何も見えない。どちらにしても、足元の地面は動いていない。少なくとも、そう感じる。 しかし今この瞬間も、あなたは地球の自転によって時速約1,670km(赤道上の場合)で移動している。新幹線の5倍以上。音速の約1.4倍。それをまったく感じないのは、あなたが地球と同じ慣性系の中にいるからだ。空気も、建物も、コーヒーカップも、すべてが同じ速度で動いている。相対的な差がないから、体感としてはゼロになる。 では、この回転は今まで何回繰り返されたのだろうか。 数えてみる 地球の年齢は約46億年とされている。放射性同位体の崩壊を利用した年代測定(ウラン-鉛法など)によって推定された数値だ。 単純に1日1回転として計算すると、46億年 x 365.25日 = 約1兆6,800億回転。途方もない数だ。しかしこの計算は正確ではない。地球の自転速度は一定ではないからだ。 月の重力が地球の海水を引っ張ることで潮汐が生じる。この潮汐は地球の自転にブレーキをかける。結果として、地球の1日は100年あたり約2.3ミリ秒ずつ長くなっている。わ

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

便利な言葉が思考を眠らせる

「すごい」「重要」「さまざま」「多い」。便利な言葉だ。何にでも使えて、文字数も稼げる。だが、これらの言葉は、実は何も言っていない。 レポートの添削で最も多い指摘は、文法のミスではない。「具体的に書いてください」だ。 言葉の節約は思考の放棄である 「言葉の節約」とは、本来なら具体的に書くべきところを、曖昧な言葉で済ませてしまうことを指す。 「この問題はすごく重要である」。何がすごいのか。誰にとって重要なのか。どの程度重要なのか。この一文には情報がほとんど含まれていない。書いた本人は何かを伝えたつもりだが、読み手には何も伝わっていない。 言葉を節約しているように見えて、実際には思考を節約している。「すごい」と書いた瞬間、「何がどの程度すごいのか」を考える作業を放棄している。具体的に言い換える作業こそが、思考そのものだ。 雑語リストと言い換えの方向 大学生のレポートで頻出する曖昧な言葉と、その言い換えの方向性を示す。 「すごい」 何がどの程度そうなのかを数値や比較で示す。「前年比で30%増加した」「他の手法と比較して処理速度が2倍になる」。 「重要」 誰にとって、なぜ重

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

哲学書が読めない理由は難しさではない

哲学書を開く。三ページ読む。一行も頭に入っていない。 この経験をした人は多いだろう。そしてたいていの場合、その原因を「哲学は難しいから」に帰着させる。専門用語が多い。文章が回りくどい。抽象的すぎる。だから読めない。 本当にそうだろうか。専門用語は辞書を引けば分かる。「アプリオリ」は「経験に先立つ」であり、「弁証法」は「対立する概念を統合して高次の理解に至る思考法」だ。文章が回りくどいのは事実だが、法律文書だって回りくどい。抽象的だというなら、数学の方がよほど抽象的だ。 哲学書が読めない理由は、難しいからではない。あなたの側に、問いがないからだ。 問いの不在 哲学書は情報を得るための本ではない。 多くの読者が哲学書に挫折するのは、読み方の期待がずれているからだ。新書やビジネス書のように、「結論は何か」、「要点は何か」を探しながら読む。そして見つからない。あるいは見つかったとしても、その結論がなぜ重要なのかが腑に落ちない。 カントの「純粋理性批判」(1781)の結論を一行で書くことは可能だ。「人間の認識能力には限界があり、経験を超えたものについて確実な知識を持つことはできな

By Sakashita Yasunobu

光と写真

「いい写真」という言葉がすれ違うとき

「いい写真だね」。この一言に、どれだけの誤解が含まれているか。 あなたが「いい写真だね」と言ったとき、相手も同じ意味で受け取っているとは限らない。あなたは構図の美しさを褒めたつもりなのに、相手は「記録として価値がある」と受け取っているかもしれない。あるいはその逆。 「いい写真」の定義が会話で噛み合わないのは、感性の問題ではない。評価軸の問題だ。 5つの評価軸 写真を評価する軸は、少なくとも5つに分けられる。 記録。 何が写っているか。祖父母の若い頃の写真。震災の直後の街並み。もう取り壊された建物。記録としての写真は、そこに写っている「事実」に価値がある。構図が多少傾いていても、ピントが甘くても、そこに何が記録されているかが重要だ。 情報。 何を伝えているか。報道写真、商品写真、料理写真。これらの写真は、見る人に特定の情報を伝達することが目的だ。ニュースの現場で何が起きていたか、この料理がどれほど美味しそうか。情報としての写真は、伝達の正確さと効率が評価基準になる。 感情。 何を感じさせるか。子どもの笑顔、夕焼けの風景、祭りの熱気。感情としての写真は、見る人の心を動かすこ

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

取り消せないものを背負いなおも歩く

誰にでも、思い出すと胸のあたりが重くなる過去がある。 深夜に突然蘇る、何年も前の失言。もう関係のない相手に向けた、取り消せない行動。記憶の底に沈めたはずの場面が、何の前触れもなく浮上して、布団の中で目を閉じたまま呻く。あの経験を、多くの人が共有しているだろう。 「やらかし」という言葉は軽い。だがその軽さの裏には、自分自身の過去をどう扱えばいいか分からないという、重い問いが隠れている。罪は永遠に背負い続けなければいけないのか。変わった自分は、過去の自分と同じ人間なのか。赦しとは何であり、誰に権利があるのか。 時効は三つある 法的には、時効という制度がある。刑法にも民法にも、一定の期間が経過すれば刑事責任や損害賠償請求権が消滅する仕組みが組み込まれている。社会制度としての法は、「永遠に罰する」設計にはなっていない。 しかし「社会的な時効」と「法的な時効」と「心理的な時効」は、それぞれ別の時計で動いている。 法的な時効が成立しても、社会がそれを忘れるとは限らない。インターネット以降、記録は消えない。デジタルタトゥーという比喩が定着したのは、一度オンラインに刻まれた情報が、本人の

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ことばと文学

古典文学に挫折する構造

何度も挑戦して、何度も挫折する。読むべきだと分かっている。教養として、あるいは純粋な興味から。しかし開いてみると、最初の数ページで手が止まる。 古典文学に挫折する経験は広く共有されているのに、その原因が正確に分析されることは少ない。「難しいから」で片付けられることがほとんどだ。しかし「難しい」という一語は、まったく異なる複数の障壁を一つにまとめてしまっている。 挫折の構造を分解してみたい。 言葉の壁は、実は一番低い 古語の壁。これが最初に思いつく原因だろう。 「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。」 源氏物語の冒頭だ。現代の日本語話者にとって、これは外国語に近い。文法も語彙も、日常の言葉とかけ離れている。辞書を引けば一語一語の意味は取れるが、文全体の流れが掴めない。リズムが身体に入ってこない。 しかし古語の壁は、実はもっとも対処しやすい壁でもある。現代語訳がある。 角田光代による源氏物語の現代語訳(河出書房新社「日本文学全集」、2020年完結)は、原文の世界観を保ちながら現代の読者が抵抗なく読

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ことばと文学

言葉のなかの見えない距離

「年上だから敬語を使う」。多くの人がそれを当然のルールとして受け入れている。だが、考えてみてほしい。ただ先に生まれたというだけの理由で、なぜ言葉の形式を変えなければならないのか。時間を長く過ごした人が必ず敬意に値するなら、何もせずに過ごした時間にも価値があることになる。 敬語は「尊敬の表現」だと教わる。しかし実際には、敬語はもう少し複雑な機能を担っている。 敬語は距離の調節装置である 日本語の敬語は、大きく5種類に分類される。尊敬語、謙譲語I(謙譲語)、謙譲語II(丁重語)、丁寧語、美化語。2007年の文化審議会答申以降、従来の3分類からこの5分類に整理された。 この分類を見れば分かるとおり、敬語は単に「相手を持ち上げる」ための装置ではない。自分を下げる表現、場を整える表現、言葉を美しく見せる表現が含まれている。つまり敬語の本質は、話し手と聞き手の距離を調整することにある。 ブラウンとレヴィンソンのポライトネス理論(1987)では、人は対面的なやりとりの中で相手の「フェイス(面子)」を脅かさないように振る舞うとされる。敬語はその最も体系化された道具の一つだ。「いらっしゃいま

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倫理と思考実験

AIの文章に価値はあるか

AIが生成した記事や、AIとのチャット履歴がネットに溢れている。そしてその大半は、正直なところ、読む気にならない。 AIの記事はなぜ退屈なのか 不思議なことに、AIとの対話は当人にとっては有意義であることが多い。問いを投げ、応答を得て、考えを整理する。その過程には確かな手応えがある。だが、同じやり取りを第三者が読むと、途端に退屈になる。 この落差はどこから来るのか。 AIとの対話で当人が得ているのは、「自分の問い」に対する応答だ。その問いの背後には、これまで何を考え、何に引っかかり、何を言語化できずにいたかという厚い文脈がある。応答がその文脈の上に載ることで、初めて対話に意味が宿る。 第三者にはその文脈がない。文脈を欠いた応答は、ただの情報の羅列だ。 ここに本質的な理由がある。多くのAI生成記事は「誰かの視点」を持たない。何を選び、何を捨てたかという編集の痕跡がなく、あらゆる方向に平等に情報が並ぶ。結果として、誰が書いても同じになるような文章が量産される。誰のものでもない文章は、読者に語りかけない。 シェイクスピアと猿 視点を変えてみよう。 有名な思考実験がある。

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

日記を書こう

日記を書こう。 そう言ったところで、何を書けばいいかはわからない。何のために書くのかも、よくわからない。ただ、今日あったことを、今日感じたことを、どこかに書き留めておきたいという素朴な衝動がある。たぶんそれだけでいい。 断片を並べる場所 ブログの記事や論文には構成がある。伝えたいことがあって、それに向かって文章が組み立てられている。素材を選び、順序を決め、不要なものを削り、必要なものを足す。それは編集された自己の表出だと言えるかもしれない。 日記は、その手前にある。 編集する前の断片を並べる場所。まだ何が重要かわからない。何と何がつながるのかも見えていない。その日あった出来事、ふと頭をよぎった考え、目に入った光景。それらをただ、順不同で、脈絡もなく、並べておく。 そしてその断片は、書いた瞬間にはほとんど意味を持たない。 宛先のない手紙 日記の不思議なところは、書くときと読み返すときで、まったく違うものになるということだ。 書いている瞬間は、ただの記録にすぎない。今日こんなことがあった、こう思った。それだけのこと。でも三か月後、あるいは三年後に読み返すと、書いたとき

By Sakashita Yasunobu

ことばと文学

出版がブログに代替されない理由

インターネットが普及し、誰でも無料でブログを公開できる時代になった。にもかかわらず、書籍という形態はいまだに選ばれ続けている。技術的にはブログで全文公開すれば済む話なのに、なぜわざわざ出版するのか。この問いを整理してみる。 出版が果たしている機能 編集・校正という品質保証 ブログは基本的に著者一人で完結する。一方、出版には編集者・校正者が介在し、構成の見直しや論理的な矛盾の指摘が行われる。文章が長くなるほど、著者自身では気づけない問題が増えるため、第三者による検証の価値は高まる。 これは学術論文における査読(peer review)と同じ構造であり、公開前に一定の品質フィルタを通すことで、読者が内容を信頼しやすくなる。 「読了される」確率の違い ブログに長文を掲載しても、最後まで読まれるとは限らない。書籍の場合、読者は購入という金銭的コストを払っている。行動経済学でいうサンクコスト(埋没費用)の影響もあり、購入した本は最後まで読もうとする動機が働きやすい。 もちろんこれは「必ず読了される」ことを意味しない。しかし、無料のブログ記事と比較すれば、書籍のほうが読者の注意

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